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「フリーナ殿。そうやって駆けるのはやめた方がいい、転げてしまったら大変だろう」
あの重厚な”最高審判官”の衣を脱いだヌヴィレットは、前を走るフリーナを追いかけていた。フォンテーヌの知る人は知る美しい海辺。もしくは、大女優のシークレットビーチ。どちらにしろ訪れる人の少ないそこで、2人は休暇を取っていた。
”水神”の居なくなった現フォンテーヌで、最高権力者と言える地位にあるヌヴィレット。そしてフォンテーヌ内に留まらず、他国にも名を響かせる大スターのフリーナ。そんな2人は揃って(フリーナに関しては詳しく知らないが、彼女が言っていた通りならば) 多忙 だったが、運良く休暇を取れたのだ。フリーナは4日、ヌヴィレットは3日(愛娘達との討論の末の妥協案)の休みを取り、それが丁度重なったので、「海に行こう」とフリーナから声がかかったのだった。
そして今。
雲ひとつない見事な快晴の空に、フリーナはうきうきと心を躍らせ、白い砂浜を波打ち際に沿って駆け始めていた。先程はあんなにも飄々とした態度を取って、ヌヴィレットの前をつかつかと歩いていたが、久方ぶりに見た夏の景色にテンションが上がったのだろうか。「うわー!!!」と嬉しそうな声を上げて、即座にヌヴィレットの前からは消えたのだ。そんなフリーナを嗜めながらも、あまり訪れたことの無い絶景にふ、と口にかすかな笑みを浮かべてヌヴィレットは地平線の奥を見つめていた。
「ねえ、ヌヴィレット。君は海が好き?」
「…なぜ?」
「いや、気になったんだ。僕は思っているよりも、君のことを知らないからね」
そう声をかけながら、一通り走って体力の限界が来たのか、ヌヴィレットが親切心で建てておいたパラソルの下へフリーナは歩み寄ってくる。どうなの?と首をかしげ、水色のレジャーシートへ腰を下ろす。
「…どう、なのだろう。確かに、私の生まれた地だ。好きなんだろうか。」
「分かんない?」
「あまり自身の嗜好について深く考えたことがない。
…だが、確かなのは、私の安息の地はやはり海の中なのだろうということだ。」
「へぇ、そっか。安息地、ねえ…」
そう彼女は呟きながら、バッグに入れていたアイスを1本手に取り口へと運んだ。また、ヌヴィレットと同じようにじっ、と海と空の境目をみつめはじめる。
「…君は海が好きか?」
数秒の沈黙の後、パキとアイスの割れる音が響いたと同時にヌヴィレットからそう問われる。
「うーん…どうなんだろうね。でもきっと好きなんだよ。」
「それは、なぜ?」
「大切な人を連れていこうって、胸を張って思えるような場所だからさ。自分が嫌いな場所なんて、ぜーったい紹介しないだろ?それを考えたら、きっとそうなんだ」
そう笑ってから、しゃく、しゃくと軽快な音を鳴らしながら彼女は口へアイスを運んだ。そんなフリーナに、ヌヴィレットはぱちりと瞬きをして、彼女の言葉を深く飲み込むように口元へ手を寄せた。静寂、だが500年を共にしてきた2人には決して気まずさのない暖かい時間。それがゆっくり、ゆっくりと過ぎ空には段々と夜のカーテンがかかり始めた。
「……今、結論が出た」
「え、なんの?待って、まだ海の話をしてるのかい?…あ、いや、なんでもないよ。全く…君は真面目だね」
うとうとと密かに船を漕いでいたフリーナは、突如浮かんだヌヴィレットの言葉で意識を浮上させた。そう”泣き虫な水龍”が悲しまないよう、まくしたてている彼女には目を向けず、彼は続いて言葉を紡ぐ。
「私は、海が好ましい。美しかった思い出を鮮明に思い起こさせてくれるからだ。
忘れないよう、ずっと思い続けるのは辛すぎる。だが忘れてしまうのもそれはそれで苦しいことだ。海は、違う。遠く離れてしまった愛しい日々を、確実に守ってくれていた。
今、君のおかげでそれに気付けた。ありがとう、フリーナ。
…これで、君のことを決して忘れないでいられる。」
そう哀しさを微かに浮かべながら、ヌヴィレットは優しく微笑んだ。きらり、と夕日が彼の瞳を美しく照らす。数千年を生き、彼は多くの別れを経験した。己が知らないところで無くなっていることの、どれほど辛いことか。それを思い起こされることのどれほど迷惑か。だが、彼は確かに喜んでいる。彼にとって思い出がどれほど大きくて、どれほど大切なものか、今やっとフリーナにもはっきり分かった。
あぁ、彼はずっと独りだった。思い出を忘れまいと息を張りつめていたのに、あっけなく記憶から無くなってしまうせいで。
それに気づき、思わずフリーナの瞳には薄く水膜が張る。見られまいと顔を背けるが、そんなフリーナの望みも虚しいか鼻がずび、と鳴ってしまう。すると「どうした?」と隣の彼は不躾に尋ねてきたのだ。そういう所ばっかり、水龍らしくて。
「…なんでもない!…帰ろう、ヌヴィレット!僕、疲れちゃったや」
立ち上がり、ぱんぱんと足元の砂を払う。ね!と後ろに振り返れば、ヌヴィレットは未だじっと海を見つめていた。一体、その瞳には何が、見える?
ヌヴィレット。君には、どんな風に僕たちが写ってる?どんな風に君の瞳には世界が写ってるんだろう。あぁ、それを知ることが出来たらきっと。もっとなんてことない日常が美しく見えたんだろうな。
ずるい、ずるいなぁ。ヌヴィレット。
僕も、もっと生きたいなあ。