“彼ら”が罪を犯す度、ページは刻まれ、本は完成する。彼らが永久の眠りにつく時、それは本棚へと姿を収める。
「あぁ、とっくに本は溢れかえってしまった。」
破れたページが散乱し、本棚に姿を収めれなかったものら。
哀しくも、同情は出来ない。
──どこかから、忌まわしい程に林檎の香りがする。
吐き気を催すほどに甘酸っぱく、噎せ返るような鐡の香りが。
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「バイタル安定。意識も回復しました。もう“Maria”へ送ってもいいでしょう」
「記憶の凍結処理は完璧です。ですが、万が一のリスクを考え、過度な刺激を与えないように」
まるで深海に沈んでいたような意識がぼんやりながらも醒める。先程まで首に縄をかけていたような息苦しさはもう存在せず、私はただ医療用ベットの上、一定の感覚で音を刻む心電図を眺めていた。
「…マスター、俺の事覚えてるか?」
急に声を掛けられたことでぼんやりとした意識が氷水を被ったように覚醒する。私のことを“マスター”と呼ぶ、ベットの傍らに腰掛ける白い長髪と睫毛に、片目しか見えない鮮やかな血の瞳の人物には、見覚えがない。私は無言で首を振ると、その不思議な人物はそうかと悲しさを帯びた声色で相槌を返す。その様子に若干──いや、かなり罪悪感を覚えた私はその人物に話しかける。
「君の名前は?」
ほぼ寝起きの声と違いない私の掠れた質問に、それは答えを返した。
───“エーデルシュタイン”と。
「綺麗な響きだね。でも、人の名前じゃない気がする…」
私が上体を起こしそう言うと、エーデルシュタインと名乗る彼(声が明らかに男性なので)はそうなのかもな、と言った。数秒間の沈黙の後、彼は目を合わせずこう問いかける。
「…俺が人間だと思ったのか?」
「うん。だって見た目がそうでしょ?」
彼は目、見えてんのか?という言葉と同時に少し溜息を漏らした。見えてるよ、と私が不服を含んだ物言いで言うと、彼は自身の尖った耳と黒い爬虫類めいた蠢く尾を指差し、見えてないだろと返す。
「あぁごめん、そういう変装って思ってたんだ」
「俺がそんなクソみたいな趣味に手を出すと思ってんのか?」
私を睨みつける彼にごめんごめんと適当にあしらいながら対応していると、その対応に呆れたのか彼が改めて私に向き合い、こう言った。
「マスター、アンタには今から仕事をしてもらう。」
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「…それで、さっき言ってた仕事って?」
黒塗りの車。時々来る振動とBGM変わりに流されたラジオに割り込むように私はエーデルシュタインに問いかけた。
「血生ぐせぇ、訳のわからねぇ仕事だよ。前のアンタが見たら、虚ろな目で空を見てただろうな。」
「よく分からないけど…まぁ、酷いことをするって事なのかな。」
まぁそんな所だな、と言い窓の外を眺めているエーデルシュタインを横目に、私は開けた車窓から吹く冷たく新鮮な空気を肺いっぱいに吸い込んだ。
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いつも汚ならしくネズミや虫が止めどなく溢れる路地裏は、ゴロツキの血肉と脂の臭いで更に地獄へと変貌を遂げていた。
「遅い。遅すぎるわ。エーデルの奴、変なトラブルでも起こしてるんじゃないかしら。」
黒髪の長髪が目立つ、ゴロツキの死体に念入りのトドメか──暇潰しなのかは彼女のみぞ知るが、手に持つ刀を人だった醜い肉塊に刺し、不満を溢す青年に、修道女のような格好をした、薄く澄んだ灰色と水の入り交じる髪を持つ青年は言った。
「プルウィア姉様、そう怒らないで。もうじきあの方々は到着すると、我が主は仰っております。」
「それならいいわ、愛しの弟、ルーメン。でも、あまり”我が主”という単語は貴方の口から聞きたくないわね───どうにも虫酸が走るの。」
これは失礼、と影の差すフードを更に深く被り、ルーメンという青年はゴロツキの死体から銀の投げナイフをゆっくりと引き抜いた。
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「ふーん…これが上から聞いた、“本”ってものかしら」
濡鴉の髪とサファイアの瞳を持つ青年──プルウィアが古臭く、所々ページを人が破ったような形跡が見られる“本”を手にした。
「姉様、マスター御一行が到着するまでこれは回収するなと命じられております。一旦戻すかどうかをしなくてはならないのでは?」
灰色がかった薄い水色の青年──ルーメンは白く清潔に保たれたハンカチで、つい先程ゴロツキの死体から回収した投げナイフに付着した脂と血を拭き取りながら、そう諭す。
「マスターが来たら渡して、さっさと“Maria”に帰ればいいのよ。戻す必要はないわ。…これ、ページは所々破れてるけど、解読が出来そう────」
「…姉様?」
続きの言葉を紡ぐのを止めたプルウィアに、ルーメンは動揺を込めた声色で問い掛ける。と、同時に自身よりも背が高い姉が、血に濡れる裏路地に敷かれたコンクリートに音を立てて倒れ込んだ。──敵襲だ、そう察知したルーメンが武器の小鎌と投げナイフを取り出す前に、地と身体の距離が近付き、視界が黒く染まった。
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路地を黙々とエーデルシュタインと私は歩んでいた。───正確には、私は歩かされていたと言うべきだろう。時折彼はちらりと一瞬後方を振り返るのみ。歩いていて体感5分が流れた頃、エーデルシュタインは何かの異変を察知したのか、私の手首を掴み、走り出した。急にどうしたの、という私の問いを彼は無視してほのかに鉄の香る、薄暗い裏路地へと入っていった。
小さい歯車や金属で出来たであろう機械に使われる部品が地面に散々に音を立てて転がった。私の身体に冷たい鉄の塊──エーデルシュタインが、伸し掛かった。
「あれ、言語プログラムとか色々入ってる所潰しちゃったのかな?意識がないみたいだね。」
灰色の髪を持ち、シニヨンに纏めた少女ような容貌とは反した少年のような声が私の耳に響く。その少女であり少年のような容貌のそれは、古臭い本を片手に持ち退屈そうに腰が抜けた私と動かなくなったエーデルシュタインを静かに見下ろした。
「クソ、野郎…」
「クソ野郎じゃないよ、エディ。ボクがユウェルって名前のこと忘れたの?酷いなぁ。」
「ちがう、忘れるわけないだろ…」
エーデルシュタインは平衡感覚がなくなったようによろめきながらも立ち上がった。その際に、部品がいくつかコンクリートに落ち金属音を立てたが気にも止めなかった。
「エディ~?平衡感覚機能やらが壊れちゃったなら、無理に立ち上がる必要はないよ?」
ユウェルという者に誰のせいだと、とエーデルシュタインは口を動かしたが、その前に地に膝を着く方が早かった。ユウェルは嬉しそうに目をうっとりと細め、エーデルシュタインに問いかけた。
「ねぇ、エディ。それは服従の合図って取っていいんだよね?嬉しいなぁ。君がやっとボクたちの所に来てくれるなんて。夢にも思わなかっ──」
「夢にも思わなかった」そう言い終わる前に辺りに砂埃が舞い散り、ユウェルは何?と呟きを溢し数歩私たちから遠ざかった。
───ゆっくりと砂埃が晴れる。
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「これだから来たくなかったんです、死体を見ることになるから…」
溜め息混じりの男声が聞こえる。砂埃が入り、涙が滲んだ瞳を擦る。その人物は一瞬だけ私の顔を見て、溜め息を溢しユウェルの方へ視線を向けた。
「──僕の名前は知ってるでしょ?」
私に問いを向けたのだろうか。定かでないが、いいえと返すとやっぱりそうですか、とだけ返り、私に向き直った。
「”肺”兼ここの社員を勤めているリリオンです。今のあなたからしたら訳の分からないことを言ってるんでしょうね。…まぁ、詳しいことは後から聞いてください。」
灰色の長髪──正確には白髪と言うべきだろうか。リリオンという人物の白くもあり黒くもある髪色はそう言い表すしかなかった。
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「──それじゃあこれ、持っていくからね」
ユウェルが古びれた本を片手に、リリオンの拘束らしきものを無理矢理突破し、更なる暗がりへ消えていった。
「…あれ、持ってかれて大丈夫なの?」
黒く、溶かした飴を氷に掛け冷やされたもののようにも蛸などの触腕にも見える歪な”なにか”が背から生えているリリオンに問い掛けた。
「さぁ。…多分、大丈夫じゃないやつでしょうね。──あぁ、迎えが来たみたいです。」
──それ、かなり怒られるやつじゃない?と私が言い掛けたところでバン(ワゴン車)がその巨体を目のともしない速度でドリフトしながら私達の前へ駐車した。…乗っている人は無事なのだろうか。バンの扉が開き、運転手席の方からは金色の癖っ毛を高く一纏めにし、穏やかな目付きと軍人のような衣装を纏っている青年と、助手席の方からは少々目付きが悪い、わだかまりを知らないエメラルドグリーンの髪を細い三つ編みに収めた青年が口を押さえながら出てきた。
「…教えなきゃいけないんですよね。金髪の方はロゼ、車酔いの方はシエロ。二人とも、僕の部下である”牙”らしいです。」
曖昧さと無責任を帯びさせたリリオンの発言が少し引っ掛かるが、私はロゼとシエロと呼ばれた彼らの方へ目を向けた。
「私の華麗なドリフト捌きはどうだった?シエロ。」
「最ッッ……悪でしたよ!それはもう!!」
「酷いなぁ。溜める必要あったの?」
目の前で口論を繰り広げる二人を他所に、リリオンは地面に突っ伏し倒れている三人(一人はエーデルシュタイン、その他二人は名前も顔も知らない)を触腕で拾い上げ、バンの中へ突っ込んだ。
「…治療もしなきゃですし、早く帰りましょう。本のことはあとでいいです。どうせ力づくで奪われてたから。」
「…それじゃあ、もう一度私の華麗なドライブテクを見せれるってことだね?──さ、早く乗り込んで。」
「あのひっどい運転をもう一度体験するってことですか!?正気ですか先輩!!?」
騒ぎ立てるシエロを他所に、私も他の皆と同じようにバンへ乗り込む。──その後、ひどい車酔いに襲われ、ロゼが運転手を勤める車には乗らないと心に決めた。
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