_ティーカップの中、宝石のようにきらめく褐色の水面に、ミルクの白色が踊る。あいつはこれに砂糖も入れないと飲めない子供舌だから、砂糖もたっぷり入れてあげた。 ティースプーンでくるくる混ぜながら、ついでに好物のプリンも持って行ってあげようと冷蔵庫に向かって1歩踏み出したが、やめることにした。
絵を描いている時…特に今のようなスランプ状態の鳴はキャンバスとしか向き合う気はないのだ、きっと食べないか絵の具をこぼすか手をぶつけでもして落とすだろう。
(あいつ今日誕生日だってのに…鳴らしくていいけど)
ミルクティーを片手に、シックな木製のドアをノックする。ドアの向こうから聞こえる、筆をかちゃかちゃと鳴らす軽やかな音が止まった。
「許可ないけど入りまーす」
「…響か。散らかってるけどいいならどうぞ」
少し目線をこちらに向けた後、どことなく安心したような表情を浮かべた鳴は、すぐにキャンバスに向かう。鳴の机に向かおうと部屋に1歩入った途端、まるで別の世界に入ったように絵の具の匂いが鼻腔をくすぐった。
渡すか迷ったせいでぬるくなってしまった紅茶を差し出すと、絵の具と鉛筆の炭まみれの顔をこちらに向けた。
「あげる」
「俺に?」
「いらない?」
「…ありがと」
大人びた笑みを見せた鳴は、ミルクティーを俺から受け取って少し飲んだ後、色だらけでぐちゃぐちゃのパレットの傍に置く。お約束の未来が見えた気がした。
小学校の図工室を彷彿とさせる椅子を勝手に借りて鳴の隣に座らせてもらう。彼がじっと向かう先のキャンバスには、色とりどりの花たちに囲まれた人間_まあまだアタリ_が眠っていた。
そのうちのひとつ、青色の小さな花を鳴は筆でつついている。それをしたところで何が変わるのかは俺には分からないが、芸術家に口を出さない方がいい暗黙の了解があることくらいは俺でも分かる。
ふと横を向いた俺の視界に映る鳴は、いつもよりどことなく大人びていて…ついでに汚れていた。しかも、たぶん不機嫌。たまに眉間にしわを寄せて唸っている。
好きなことなんか嫌になるまでやるもんじゃないのに、とため息をついた数秒後、キャンバスと向き合ったままの鳴の声が響く。
「人ってさ。努力と才能、どっちの方が力量に影響力あるんだろうね」
それとも環境、それか気持ちの問題か。黙っていれば次々と選択肢を増やしていく鳴。投げられた会話のボールを手にしたはいいが、スランプでいらついている奴を前にしてどう返せばいいか困っているのに鳴は気づいたようだ。
何やらスマホをいじっている。さて、いつものネガティブ思考タイムが始まるかな。
まあ聞いてあげよう、と頬杖をついて待っていると、目の前に画面を突き出してきた。よく見るSNSの、誰かのプロフィール。惹き付けられるような綺麗なイラストばかりがそれを綺麗に飾っていた。
「…で?」
「説明書き、見て」
アイコンの下に書かれている、”14yo”の文字。解読に少し時間がかかったが、数秒後に画面の向こうの誰かが14歳であることが分かった。
「この人何歳か分かった?」
「14years old」
「かっこつけんな」
ニックネームなどからおそらく同じ言語を話す人間、要は同じ国の人間ではないことは分かる。だが、俺が想像する14歳の画力_厳密には中学生時代美術の成績が2か3だった俺の画力_をはるかに超える表現力と技術だ。まあ、鳴が嫉妬するわけだな。
俺の比較的流暢な発音にしっかり突っ込みを入れた鳴の口は、動きを止めることを知らない。
「年齢なんて武器にするものじゃないってば。なんでわざわざ自分の個人情報を言うわけ?みんな揃ってこの年齢でこんなに描けるんだねすごいね待ち?ふっざけんなよこちとら年齢晒してる暇もないほど努力してんのに…」
いつも通りの言葉のマシンガン。いつの間にか椅子の上でうずくまってしまった鳴の声は少しずつ上ずってきている。今日が誕生日だというのにこれ。まったく、若き芸術家・鳴宮暁という生き物の面倒見はこんなにも大変だったのかと痛感する。
まあ確かに、年齢は要らない情報だ。言って何になるのかは全くもって分からない。だが、このくだりは実に5回目。アカウントをブロックするとか、そろそろ学習しないのかと思ってしまう。
「ああもうなんで俺こんな絵しか描けないんだろう特に意味もなくて需要もなくて惹き付けられるような色使いもできないし…なんでだよほんとに努力量と成果が見合ってないよ」
_何故そうなった。だんだんと負の感情が肥大してきている。どうにかして止めないとそれはそれは面倒なことになる。
なにか目を覚ますようなものはないか。探しているとふと、傍に置いてあった飲みかけのミルクティーが目につく。
砂糖たっぷりでべたつきそうなそれを使うか否かで迷ったが、まあほっといたとて床にこぼすのは明確。俺はそれを手に取って、前髪の間からちらりと覗いた顔めがけてぶちまけた。
ぱしゃっ、と鳴の顔にかかった紅茶が跳ねる。何が起こったのか理解できていない、ぽっかり空いたあの口から、間抜けな声が漏れる。
「…え」
「目、覚ませ」
「あ…?えっ、俺、紅茶、かけられ」
「うん、かけた。誕生日だってのにいつまでたっても愚痴?少しくらい休みなよ」
「でも上手になりたいのに、」
「少しくらい休んでもいいでしょ。数時間絵描かないだけでそんなに変わることないだろうし。”努力量と成果が見合わない”んだろ?」
べたべたの顔を不服そうに歪ませる鳴だったが、きっと目覚ましのミルクティーが効いたのだろう。次第に笑みを浮かべだし、ついにはけらけらと笑いだした。
「なんで俺の愚痴なんか覚えてんだよ!」
「これでも真面目に聞いてるんだよ」
「もう、本当…」
呆れたようで、嬉しそうな。そして、1年前よりもどこか大人びている笑み。俺より先にまたひとつ歳をとったあいつの笑顔は、まるで漫画の一コマに収まりそうな綺麗さだ。
「…あー、他人の年齢とか全部どうでもいい!そんなこといちいち言わなくても、実力だけで評価される人間に絶ッ対なってやるんだ!そんなものでしか自分の力を証明できない人間になんてなりたくない。こうやっていくつ歳を撮ろうが関係ない。若さとか年齢とかそういう概念、実力でぐちゃぐちゃに潰してやる!」
ミルクティーをもろに被ったせいで不格好ではあったが、格好悪い台詞をここまで自信満々に言われると逆にかっこいい。それどころか、鳴の姿がアニメに出てくるヒーローのように見えてしまった。
たとえ誰もが呆れる綺麗事であっても、ひたむきに頑張る努力家が言ってしまえば名言なのだ。貼られたレッテルの影響力は凄まじい。
「…やっぱりあんたは努力してる時がいちばんかっこいい。どんなに下手って自分の事罵っても、絵描くのだけは辞める気配ないし。諦めずにたくさん努力するあんたは最強だ」
まあこれも、もちろん綺麗事。だけど、鳴はいつもこれを現実にしてしまう。ヒーローに見えたのも、あながち間違いではないのかもしれない。
「ありがと、響。…あー、名言ってなんで有名な人の言葉ばっかりなんだろうね。身近な人のふとした言葉の方が、何倍も救われるのにさ。みんなセンスないよ」
…そう言って背伸びをするのは、いつも通り、だがまたひとつ大人になった鳴だった。そろそろ、年齢のくだりも学習するといいのだけれど。
「ケーキある?」
「ろうそくもあるよ、ずっとあんたを待ってたんだから」
「やった。じゃ、行こ!」
鳴がドアを開ける。
そこから流れ込む風の匂いはすっきりとしていて、ほんの少しだけミルクティーの香りがした。
…紅茶飲めるようになるくらいまでは、あんたの愚痴聞いてあげるよ、相棒。
8⁄26 Happy birthday、鳴!
コメント
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鳴にめっちゃ共感するわ… 誕おめ鳴!