外壁タイルを選び終えた花澤夫人と合流し、改めて子供部屋に行くと、アニメを見ながらナツキを抱っこしていた新谷は振り返った。
「どうも、すみませーん」
夫人が恐縮しながら新谷にお辞儀をする。
「あ、いえ、いろいろ教えてもらってました。な?」
言いながら頭を撫でるとハルキが得意そうに言った。
「次会う時まで、ちゃんと覚えてくること!」
新谷は微笑み「了解!」と頷いた。
その視線がゆっくりと篠崎の高さまで上がる。
静かに微笑むと、新谷もゆっくり瞬きをしながら微笑んだ。
客を送り出し、子供部屋を片付けている新谷に近づく。
「忙しいところ、悪かったな」
言いながら、散らばったおもちゃを箱に入れると、新谷は首を振った。
「いえ、ちょうど戻ってきたところだったので、全然大丈夫です」
「商談は?」
つい聞いてしまう。
と新谷は少し驚いた顔をしたが、また笑顔に戻った。
「何とか、首の皮一枚繋がりました」
「んな大げさな」
安心してまた視線を散らかったブロックに戻す。
「新人のうちにペナルティなんかにさせたら、それは上司の責任であり問題だ。内心、紫雨も焦ってたと思うぞ」
「そうですね」
新谷は否定せずに小さく息をつくと、DVDを持って立ち上がった。
それに合わせ、片付け終わった篠崎も立ち上がる。
懐かしい視線の高さに、口許が綻びそうになりながらも、上司の顔を崩さないまま、聞いた。
「客は?どんな客だ?」
「高齢女性の一人暮らしです。母屋を娘夫婦に譲って、自分は敷地内にもう一つ家を建てたいと。分筆や境界線の問題などが絡んだんですけど、ご近所との話し合いも上手くいってなんとか」
「…………」
新谷はさらりと言ってのけたが、土地の分筆や境界線の問題は法律や私怨そして金が絡むため、敬遠する業者が多い。
ベテランでも難しい問題に、彼はきっと持ち前の気質とポジティブさ、そして何よりお客様を想う心で、乗り越えたのだ。
「お前らしい受注だな」
つい本音が漏れ出ると、新谷は軽く口を結びながら篠崎を見つめた。
その瞳が、3ケ月前まで、自分のすぐ隣で、顔中真っ赤に染めていた彼を想起させる。
「新谷」
気が付くと篠崎は、その華奢な身体を抱きしめていた。
抱きしめたその体は、一瞬力が入ったが、次の瞬間にはすとんと芯が抜けた。
自分で抱きしめておきながら、3ヶ月前とは明らかに違う反応に、篠崎は戸惑った。
「篠崎さん。どうしました?」
自分の鎖骨辺りから発せられる声も、震えていない。
上擦ってもいない。
「もしかして、またからかってます?」
先ほどハルキやナツキに発した声と寸分も変わらぬ声に、篠崎は絶望にも似た喪失感を覚えた。
以前の新谷であれば、
身体を硬直させ、顔を真っ赤にし、
抵抗しようと試み、目を潤ませて、怒ったはずなのに―――。
あの頃の自分は、彼にとって特別な存在だったのだと、そうではなくなった今になってやっと確信できた自分に脱力し、篠崎は彼の肩に顔を埋めた。
「?具合でも悪いんですか?」
新谷の顔が少しこちらを向く。
耳に感じるその肌の感触に堪らなくなり、その力の抜けたままの身体を思い切り抱きしめた。
「新谷」
「……はい?」
「頑張れよ」
「…………」
「お前はどこにいっても、誰とでも、うまくやれる。仕事でもプライベートでもだ。自分のことを信じろよ」
「…………」
「あの日、ひどいことを言って、ごめんな?」
「篠崎さん。あれは、俺がーーー」
「お前は、気色悪くなんてない」
言いながら、篠崎はその身体を少し離し、新谷の顔を見つめた。
やはりそこには、少々の戸惑いはあるものの、赤面もしていなければ、瞳も潤んでいない。
すっかり変わってしまった彼の顔を見ていたら、なんだかこっちのほうが泣きそうになってきた。
「お前は……いい男だ!」
言いながらその細い肩を思い切り叩いた。
「痛っ」
新谷の顔がほぐれる。
「千晶ちゃんを、幸せにしてやるんだぞ」
言うと新谷は白い歯を覗かせて微笑んだ。
「はい。篠崎さんも、美智さんとお幸せに」
その言葉に一瞬、眩暈がしたが、なんとか表情に出さずに抑え込むと、篠崎はもう一度その肩を叩いた。
「ありがとな」
言いながら、その手をスラックスのポケットに入れる。
そして踵を返すと、先に子供部屋を後にした。
新谷も続いてくるかと思ったが、彼はまだ片づけがあるのか、追ってこなかった。
抱きしめてしまったことは衝動的ではあったが、かえってそれでよかった。
はっきりと、今の新谷には、自分に対する気持ちがないと認識できた。
深く呼吸をしながら階段を下り切ると、篠崎は振りきるように展示場を突っ切り、事務所へと入っていった。
「………ッ!!!」
篠崎の足音が聞こえなくなると、由樹はその場に座り込んだ。
抑え込んでいた心臓が途端にバクンバクンとワイシャツを飛び出すほど鳴り出す。
スーツの中に両手を入れ、自分でその心臓を胸ごと抑え込みながら、由樹は屈みこんだ。
(これ……死ぬんじゃねえの、俺……)
あまりの苦しさに目から涙が溢れ、顔は破裂せんばかりに真っ赤に色を変えた。
(篠崎さん……なんで………?)
考えても無駄なことなのに、思考が渦巻く。脳みそが沸き立つ。
(違う。あれは、そう言う意味じゃなくて……)
期待しそうになる自分に思い切りブレーキを掛ける。
(言葉以上の意味なんてない。あの人にはいつだって、言葉以上の感情なんてなかった…!)
そう自分に言い聞かせると、幾分呼吸が楽になってきた。
(ただ、自分の異動が決まり、自分が育てた新人に、激励の言葉を投げただけだ。それだけだ。それだけなのに………)
目を強く閉じると、瞼に追い出された涙が、頬を伝って流れ落ちた。
(………期待するな!!するなよ!俺……!!)
胸を押さえていた手の片方を、床につく。
暴れる心臓のせいで動きを止めていた肺が動き出す。
大きく肩を上下させ、呼吸を繰り返す。
「はあ……っ。はあ!は…っ、はあっ!」
整うまで繰り返すしかない呼吸を、朦朧となってきた意識で必死に続ける。
「え、ナニコレ」
後ろから聞こえる冷静な声に、やっとのことで振り返る。
「媚薬でも飲まされて、オモチャでも突っ込まれたのかよ、新谷」
紫雨が面白そうに座り込む。
「…………ッ!………ッ………!」
答えられずに荒い呼吸を繰り返す由樹の横に座り込むと、紫雨はその背中に手を置いた。
「はいはい。過呼吸ね。大丈夫。死なないから。ゆっくり呼吸して。吐くのが大事だから。吐く方を意識して」
言いながら由樹の背中をさする。
そのリズムに合わせて吐いたり吸ったりを繰り返すと、嘘のように呼吸が楽になっていく。
「……君もあの人も、面倒くさい生き物だね」
手の動きを続けながら、紫雨はため息をついた。
「とりあえず、一発ヤッちゃえばいいのに」
(一発、ヤる……?)
「……それって、セックスを、ってことですか?」
朦朧とした意識で、途切れ途切れに聞く。
「当たり前でしょ、それ以外にある?」
紫雨は笑った。
「一度、理屈抜きに抱いてもらえよ。そうしたら何かわかるから。君もあの人も」
由樹は目を閉じた。
(篠崎さんに、抱いて、もらう………?)
呼吸が楽になるのと反比例してひどくなっていく胸の重さに、由樹はまた涙の粒を垂らした。
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