海辺から、診療所に戻る。
祈りの部屋は、診療所の建物の一角にあった。
テラスがあり、外から直接入ることができる。
祈りの部屋に入ると、ユリは彼を診察台に横にならせて、手早く準備を始めた。
香油を用意する、というのがユリの説明だった。
しかし彼のために用意された液体は、よい香りがするだけのものではなかった。
祈りの治療という、国で管理された特別な行為のための薬液。
毒々しい色の液体や、透明ながら強い毒性のある液体まで、さまざまなガラスビンが棚に並んでいる。
調合を誤れば、患者を死に至らしめてしまうこともある。
複数の素材から、計量により厳密に調合された香油が作られた。
用意が調うと、ユリは彼に言った。
「それでは始めていきましよう。最初におことわりしておきますが、痛みは、かなり発生すると思います。強い痛みになるかもしれません」
「祈りなのに?」
白木にレザー張りの診察台にうつ伏せで横になったタクヤは、顔の半分を枕にうずめたまま疑問を口にした。
ユリは呼吸を整えながら説明を続けた。
「神に祈ることと、祈り師が祈ることは、同じではないです。ただ、通じるところはあると思っています。内なる病の真実、それは欲望であり、攻撃性であり、痛みでもあります。それを受け入れることでしか、進めないことがある。それが、私たちの言う祈りという治療の、第一歩です」
「第一歩ですか……」
「すみません、決して難しく考えることはないのです。ただ、心と身体のことを、説明しようとすると、どうしても難しくなってしまいます」
「ようするに、治ればいいんだよね、そうでしょ?」
「そのとおりでございます」
ユリは第一の香油を手に取った。
下着だけになった彼の下腿のアザに、迷うことなくたっぷりと広げた。
「タクヤ様は、ただ、受け入れてください。恐れは、いりません。祈りとは、あなたに受け入れていただくという意味で、共同作業なのです」
彼は内心、くすぐったい気持ちになった。
そうか、これは二人の初めての共同作業……
彼を包むような呪文が、ユリの口から発せられ始めた。
次の瞬間、早くも経験のない痛みが足に走った。
身を堅くする彼。
すでに海辺で出逢ったときのおだやかな少女の雰囲気はかき消えていた。
神秘的で、厳かな儀式の始まり。
「痛い!」
さらに激痛が走り、うつ伏せのままタクヤがふり返ると、目を半ば閉じて呪文を発するユリの胸のペンダントから、淡い緑の光が発せられていることに気がついた。
ユリの両手は、アザの浮き出た足にかざされていた。
無数の針が指されているように感じた。
やがてそこから思念のようなものが奥まで入りこんできた。
ナイフのように鋭く。
痛すぎる。
刃物でズタズタにされてしまう。
本物の刃が差し込まれているわけではない。
刺さってくるのは、彼女の祈りの言葉だった。
しかしそれだけでは終わらなかった。
足に入りこんだユリの思念は、そのまま身体の内側から、上に向かって移動してきた。
股間から、内臓に向かい、上半身をぬけて、首まで。
まるで首を締め付けられたかのように、彼は身もだえする。
それでも、祈りの侵入はとまらない。
もう無理だ、と彼が横目でユリをうかがうと、彼女は両目から涙を流していた。
言葉を唱えながら、目から涙がとめどなく流れ落ちている。
彼女の本気を悟り、彼も覚悟を決めた。
突きぬけてくるなにかに、命の危険まで感じたとき、ふっと、それは終わった。
次の瞬間、強い音が響いた。
建物がゆれた。
彼は「これも祈りの一部なのか」と思ったが、ユリを見上げると、彼女は不安げに周囲を見回していた。
もう一度、強い音が響いた。
「ねえ、もう終わり?」
「あ、はい、すみません、タクヤ様。本当はもう少し脱力したままにしていただきたいのですが」
「何か音がしたよね」
「はい。なんでしょう。すごい音。地震でもなさそうです」
するとまた、なにが爆発したような衝撃音。
崩れ落ちる音。
地震とは明らかにちがう。
タクヤは治療台を素足のまま飛び降りて、窓を開けて外をうかがった。
見ると、王宮の数カ所から黒煙が上がっていた。
空を見上げると、小さな点が見えた。
その黒点は、高空からこちらに近づいてきた。
翼が見えた。
その広げられた翼の真ん中から、黒い点が放たれ、不思議な音をたてて落下してきた。
彼が身をかがめると同時に、爆風が襲い窓ガラスが砕け散った。
王宮を狙った爆弾だった。
爆風はほどちかい診療所も容赦なく襲った。
倒れ込むタクヤを見て、ユリは何をするべき考えた。
たたんであったタオルを手に取り、床に散らばったガラスを脇に払い、診察台の下に新しいタオルを何枚もしいて、彼を「こちらに」と引き寄せた。
二人で診察台の下に身をかがめた。
そこまですると、ユリはガクガクと身体が震え始めた。
誰かを癒そうとする祈りを、あざ笑うかのような暴力。
爆発し、建物が崩壊する。
あまりに無力だった。
スーサリアの神聖な王宮が破壊されていく。
タクヤは、爆音で耳が麻痺したまま、ユリを固く抱きしめた。
そして「やっぱり、こんなの、夢なんだ」と念じた。
すべてが夢で、何がおきても、何をしても、目覚めてしまえばすべて消え去る。
消え去って、むしろ、思い出そうとしても思い出せなくなる。
そうあるべきだったのに、そうでないこと思い知らせれてしまうのは、腕の中でふるえるユリのぬくもりがあったから。
ユリの体温こそ、なによりの証。
タクヤは、王子であることから、逃げることはできない。
戦いの狼煙は上がっていた。
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