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ちぐな〜
600
#心の傷
ゆう²

1
第一章 「お兄ちゃんとは違うから」
朝の七時。
目覚まし時計が鳴っている。
けれど、彩綾は布団から出られなかった。
目を開けることはできている。時計が何時なのかも分かっている。それなのに、身体が動かなかった。
「……学校、行かなきゃ」
小さく呟く。
今日は月曜日。
また一週間が始まる。
その事実を考えただけで、胸の奥が重たくなった。
教室に入れば、誰も自分を待っていない。
休み時間になれば、周りの女子たちは楽しそうに話している。
昼休みになれば、みんなで机をくっつけてお弁当を食べる。
その中に、自分の居場所はない。
そして家に帰れば――。
「……行きたくない」
綾は布団の中で小さく呟いた。
けれど、その声が聞こえたのか、廊下から母親の声が飛んできた。
「綾! いつまで寝てるの!」
「……起きてる」
「起きてるなら早く支度しなさい。高校生なんだから、自分のことくらい自分でできるでしょう?」
「……うん」
綾はゆっくりと身体を起こした。
鏡を見る。
寝癖のついた髪。
青白い顔。
目の下には薄く隈ができている。
最近、あまり眠れていなかった。
夜になると色々なことを考えてしまう。
学校のこと。
家のこと。
母親のこと。
そして――兄のこと。
彩綾人。
高校三年生。
綾の兄。
勉強もできて、運動もできて、人付き合いも上手い。
学校ではかなり有名な存在だった。
廊下を歩けば、「綾人くん!」と声をかけられる。
先生からの評判も良い。
後輩からも慕われている。
そして何より――。
綾のことを、誰よりも大切にしてくれている。
「……あやにぃ」
綾は鏡に映った自分を見ながら、小さく名前を呼んだ。
その瞬間だけ、少しだけ安心できた。
けれど。
「綾!」
また母親の声。
「早くしなさい!」
「……はい」
綾は制服に着替えた。
朝食のためにリビングへ向かう。
テーブルには母親と綾人がいた。
「おはよ」
綾人が笑う。
「……おはよう、あやにぃ」
「眠そうじゃん。ちゃんと寝た?」
「……うん」
「嘘つけ」
綾人は苦笑した。
綾の顔を見れば分かる。
妹が無理をしていることくらい。
でも、母親の前では深く聞けなかった。
「綾人、今日も学校早いんでしょ?」
「うん。朝、委員会あるから」
「偉いわねぇ」
母親は嬉しそうに笑った。
その笑顔を見て、綾は俯いた。
「綾は?」
「……え?」
「今日は何かあるの?」
「普通に授業だけ」
「そう」
母親は一度綾を見て、それから綾人を見た。
「それにしても、綾人は本当にしっかりしてるわよね」
「……」
「同じ家で育ったのに、どうしてこんなに違うのかしら」
箸を持つ手が止まった。
「綾人は先生にも褒められるし、友達も多いし」
「……」
「綾も少しはお兄ちゃんを見習ったら?」
「……うん」
まただ。
いつものこと。
だから、もう慣れた。
――そう思っていた。
でも、胸は痛かった。
綾人が悪いわけじゃない。
むしろ、大好きな兄だ。
だからこそ、比べられるのが苦しかった。
「俺と綾は違うから」
突然、綾人が口を開いた。
母親が振り向く。
「何?」
「だから、比べなくていいんじゃない?」
「でも――」
「綾は綾だよ」
綾人は淡々と言った。
「俺と同じになる必要ないでしょ」
綾は顔を上げた。
「あやにぃ……」
「それにさ」
綾人は少し得意げな顔をした。
「俺みたいな完璧な人間、二人もいたら大変じゃん?」
「……ふふ」
思わず綾の口から笑い声が漏れた。
「何笑ってんの?」
「だって……あやにぃ、ナルシスト」
「事実でしょ?」
「自分で言う?」
「言うよ。俺だから」
「はいはい」
久しぶりに自然に笑った。
ほんの数秒だった。
でも綾人は、その笑顔を見逃さなかった。
そして母親には聞こえないように、小さな声で言った。
「綾」
「ん?」
「今日も無理するなよ」
「……うん」
「何かあったら、絶対俺に言って」
「……分かった」
綾は頷いた。
学校へ向かう時間になった。
玄関で靴を履く。
「じゃあ、行ってきます」
「行ってらっしゃい」
母親の声。
綾人も玄関へやってきた。
「駅まで一緒に行く?」
「いいの?」
「妹と登校するくらい、俺の人気は落ちないから」
「またナルシスト……」
「むしろ妹と歩いてる俺、優しいお兄ちゃんってことで好感度上がるかも」
「知らないよ」
二人で家を出る。
朝の空気は冷たかった。
駅までの道を歩きながら、綾人は何度も綾の顔を見た。
「綾」
「なに?」
「本当に大丈夫?」
綾は少しだけ黙った。
「……大丈夫」
「そっか」
綾人はそれ以上聞かなかった。
ただ、歩く速度を綾に合わせた。
駅に着く。
ここからは別々の電車。
「じゃあ、また帰りな」
「うん」
「ちゃんと昼食べろよ」
「分かってる」
「眠くなったら寝ろよ」
「学校で寝たら怒られるよ」
「じゃあ保健室」
「もう……」
綾は笑った。
「行ってきます、あやにぃ」
「行ってらっしゃい、綾」
手を振る。
電車に乗り込む。
扉が閉まる。
綾人の姿が見えなくなる。
その瞬間。
綾の顔から笑顔が消えた。
胸が重くなる。
学校に着けば、また一人。
教室に入れば、また視線を感じる。
そして、帰れば家。
どこへ行っても、安心できない。
それでも綾は、今日も歩く。
誰にも知られないように。
「大丈夫」という言葉を胸に抱えて。
この頃の綾はまだ知らなかった。
自分の心が、少しずつ限界へ近づいていることを。
そして――。
そんな綾を、最後まで見捨てない兄がいることを。
この先の人生が、大きく変わっていくことを。
まだ、何も知らなかった。
♡お願いします。
コメント
1件
みぅです🤍🥀 読んだよ…… お母さんの「お兄ちゃんを見習ったら」の一言が、じわじわと刺さってくる……。綾が胸の中で閉じ込めてる「大丈夫」が、すごく痛い🥀 でも、綾人の「比べなくていい」って台詞に、ちょっと救われた。あやにぃ、本当にいい兄だね……。 最後の「まだ何も知らなかった」って一文が、この先の展開を予感させてゾクッとしたよ。 続き、ちゃんと受け止めたいから、また読みにくるね🌙