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雨上がりの夜だった。
路地の奥に、灯りがひとつだけ残っている。
看板はない。ネオンもない。
それでも、扉の前に立った瞬間、Chanceは理解してしまった。――ここは、賭けの場所だ。
フェドラのつばを指で押さえ、深く息を吸う。
紙幣と皮革と、わずかな鉄の匂い。金の気配。
――嫌いじゃない。
押した扉は、重い音も立てずに開いた。
中は、整いすぎていた。
照明の角度、床の艶、テーブルの配置。どれもが『正解』すぎて、逆に現実感が薄い。
テーブルに着くと、黒いスーツの男が視線を上げた。
「初めてだ」
自分の声が、ひどく空虚に響いた。
本当に初めてなのかどうか、その確信が持てないまま。
男は名乗らず、無言でカードを配る。
ルール説明もない。だが、手は迷わない。
「名前は?」
Chanceが問うと、男は一拍だけ置いた。
「Mafioso」
その名が空気に落ちた瞬間、胸の奥がかすかに軋んだ気がした。
夜は静かに進んだ。
勝つ。
負ける。
勝負は公平で、残酷だった。
そして――最後の一手。
カードが開いた瞬間、負けを理解するより先に、胸の奥が冷えた。
痛みはない。
目眩もない。
ただ、脳の引き出しがひとつ、音もなく抜き取られたような感覚。
「……?」
何を失ったのか、分からない。
だが、確実に「あったはずのもの」が消えたとだけは分かる。
Mafiosoは何も言わない。
勝者の顔もしない。ただ、淡々とカードを回収した。
店を出ると、夜風が冷たい。
路地を抜け、自販機の前で足が止まる。
指が、迷いなく「ブラック」のボタンを押した。
缶を開け、一口。
「……まずいな」
顔をしかめて、初めて違和感が言語化される。
――俺は、微糖が好きだったはずだ。
そう思った瞬間、次の疑問が浮かぶ。
何故?
いつから?
答えが、どこにもない。
『微糖が好きだった』という事実だけが残り、それを支えていた理由も経緯も、霧のように散っていた。
理由を失った嗜好は、ただの「かつての習慣」に成り下がる。
そのとき、ポケットの中で指先が勝手に動いた。
古びたコインを取り出し、弾く。
チャリン、と澄んだ音。
「……これは、なんだっけ」
いつから持っているのかは思い出せない。
だが、このコインを回している間だけは、胸の冷たい空白が少しだけ埋まる気がした。
理由は分からない。ただ、身体が覚えている。
Chanceは、夜に溶けていった。
朝。
クローゼットを開けて、Chanceは眉をひそめた。
派手なジャケットの横に、見覚えのないグレーのシャツが掛かっている。
「……買ったか、これ」
探すと、レシートが出てきた。
自分の筆跡のサインもある。
日付は先週。
このシャツを「自分に似合う」と思って買ったはずの、その感情だけが、きれいに抜け落ちている。
袖を通す。
鏡の中の自分は、驚くほどその色に馴染んでいた。
「……ああ、そうか」
納得してしまう自分が、少し怖い。
「俺は、こういうのが好きだったんだな」
記憶という根拠を失ったChanceは、今、目の前にある現実を、自分の意思として受け入れるしかなかった。
冷蔵庫を開けると、微糖の缶が一本だけ残っている。
それを見て、なぜか胸がざわついた。
理由は分からない。
ただ、置いていかれた感じがした。
同じ路地だった。
そう思った瞬間、Chanceは眉をひそめる。
――同じ、とは何だ。比べる対象なんて、ないはずだ。
地面はまだ濡れている。雨の跡だろう。
夜気は冷たいのに、掌だけが妙に熱を持っていた。
理由は分からない。
ただ、胸の奥が落ち着かない。
「……気味悪いな」
独り言が、濡れた空気に吸われる。
路地の奥に、扉がある。
黒く、飾り気のない扉だ。
初めて見るはずなのに、足が止まった。
押せばいい。
それだけのことなのに、一拍、間が空く。
自分が慎重な人間だった覚えはない。
なのに、今は――不用意に触れてはいけない気がした。
結局、押す。
重い。
音がしない。
開き方が、妙に素直だ。
――知っている。
その感覚が、ぞわりと背中を走る。
記憶じゃない。確信でもない。
ただ、身体が勝手に判断している。
中は整いすぎていた。
照明、床、空気の張り。
どれも過不足がなく、正しい。
正しすぎて、落ち着かない。
テーブルにつくと、男がいた。
黒いスーツ。無駄のない所作。
視線が合う前から、ここにいると分かっていた気がする。
男は何も言わず、カードを配る。
説明はない。
だが、分かる。
分かってしまう。
それが、怖かった。
一戦目。
勝つ。
二戦目。
また勝つ。
「……出来すぎだろ」
思わず漏れた声に、自分で驚く。
誰に向けた言葉でもないはずなのに。
「そうでもない」
返事が、重なった。
声の位置が、近い。
距離を測る前に、背中が強張る。
振り返ると、黒いスーツの男が立っていた。
「……あんた」
呼びかけて、言葉が止まる。
名前が、出てこない。
いや、正確には違う。
出てきそうな感触だけがある。
男は一瞬、黙った。
「また来たな」
軽い言い方だった。
だが、その声には、わずかな躊躇が混じっている。
「……初めてだろ」
男は、ほんの少しだけ目を細めた。
「名前は?」
Chanceが聞く。
この質問を選んだ理由も、分からない。ただ、聞かないといけない気がした。
「Mafioso」
男はそう言い、わずかに間を置く。
「……そう呼ばれている」
胸の奥が、ちくりと痛んだ。
「呼ばれてる、ね」
自分の声が、やけに冷たく聞こえる。
「じゃあ、本名は?」
男は答えない。
答えないというより、答える選択肢を捨てたように見えた。
沈黙。
カードが開く。
勝っているはずなのに、気分が重い。
指先が、勝手に動いた。
ポケットからコインを取り出し、回す。
その動きだけが、やけに滑らかだった。
「……なあ」
Chanceは言う。
「俺、ここ嫌いじゃない」
自分でも意外だった。
好意を口にした感覚が、ひどく遠い。
「でもさ」
コインを見つめたまま、続ける。
「理由が分からない」
Mafiosoは、何も言わなかった。
「楽しいとか、勝てるとか、そういうんじゃない」
言葉を探す。
「ここにいると……何かを、落としてる気がする」
「……気のせいだ」
Mafiosoが言う。
その瞬間、確信した。
これは、嘘だ。
顔を上げる。
男の表情は変わらない。
だからこそ、分かった。
「そう言われるとさ」
Chanceは、薄く笑う。
「余計に信用できねえ」
カードが配られる。
次の勝負。
無茶はしない。
慎重すぎるほど、慎重に賭ける。
――それが、妙に疲れる。
夜の終わり。
チップは、微妙に減っていた。
「今日は、ここまでにする」
立ち上がる。
足取りが、少し重い。
扉の前で、一瞬だけ立ち止まる。
「……あんたさ」
言いかけて、やめる。
「いや。いい」
扉を閉める。
路地に戻ると、冷たい空気が肺に刺さった。
胸の奥に、説明できない違和感だけが残る。
何かを失った気がする。だが、何を失ったのかは分からない。
それが、何よりも不安だった。
「……座るな」
入店するなり、Mafiosoが言った。
「そこはライトの角度が悪い。お前の右目は、光に弱い」
Chanceの指が、コインを弾くのを止める。
「……あんた、なんでそれを知ってる」
一拍置いて、苦笑する。
「俺自身、今言われるまで忘れてたぜ」
Mafiosoは目を伏せた。
「……お前が俺に教えた。何度もな」
Mafiosoの声は、掠れていた。その響きには、数えきれないほどの『昨日』を一人で弔ってきた者だけが持つ、耐えがたい疲労が滲んでいる。
Chanceは、コインを回していた指を止めた。男の瞳の奥を見る。そこには、自分が捨て去った記憶の残骸が、整然と、けれど無残に積み上げられていた。
「へえ。……そんなに大事かよ、俺の抜け殻が」
Chanceは薄く笑い、トレイに乗った全チップを、あえて無造作に、床へぶちまけた。バラバラと、プラスチックの虚しい音が響く。
「なっ……」
「そんなに愛着があるなら、床の埃と一緒に拾い集めてろよ。俺はもう、こんなもん要らねえ」
Chanceは空になったトレイを投げ出し、身を乗り出してMafiosoの胸倉を掴み寄せた。
「……やめろ、Chance。お前、今自分が何を捨てたか分かって――」
「分かってねえよ。忘れたからな! だが、あんたのそのツラを見れば分かる。……俺が忘れるたびに、あんたは毎回、俺以上に傷ついた顔をして俺を迎えてたんだろ」
Mafiosoの瞳に、管理者の冷徹さを突き破って、抑えきれない情愛が溢れ出す。Chanceはその顔を至近距離で見つめ、逃げ場を奪うように告げた。
「なあ、Mafioso。あんた、俺が忘れるたびに、どんな顔でカードを切ってた?」
「……っ、離せ……」
「嫌だね。……精算の時間だ。俺、何回目だ?」
沈黙。Mafiosoの唇が、微かに震える。
「……二回目だ」
「嘘をつけ」
Chanceは掴んだ胸倉をさらに引き寄せ、鼻先が触れる距離で笑った。
「この指は、あんたの前でコインを回すのが一番落ち着くって言ってる。二回やそこらで馴染むリズムじゃねえ。……あんた、一人で全部覚えてるなんて、どんな地獄だ」
Chanceはゆっくりと手を離し、椅子に深く背を預けた。 そして、テーブルの中央に、指先で一枚のコインを置いた。
「……次の賭けだ、Mafioso。俺はもう、あんな安っぽい『記憶』なんてチップは賭けない」
静かな宣言。
「負けても、俺はあんたを忘れない。……明日も、明後日も、あんたのその情けない顔を覚えたまま、ここに飲みに来てやるよ。あんたが一人で溜め込んできた『俺との記憶』……それを全部、俺の脳に叩き込んで精算してもらうぜ」
また、同じ目をしている。
俺を見ていない。
正確には――俺の『現在』しか見ていない。
それが、何度繰り返されようと慣れることはなかった。
Chanceがコインを押さえた指先を、俺は見ていた。
あの癖は、最初から最後まで変わらない。
記憶を削られても、人格が歪んでも、好みが書き換えられても。
――それだけは、残る。
それが救いだと思ったこともある。
呪いだと思った夜の方が、圧倒的に多いが。
この場所の理だ。勝敗と等価に、思考の断片が落ちていく。
最初の夜。Chanceは、軽い調子で笑っていた。
「ま、金よりマシだろ。記憶なんて」
あのとき、何を賭けたのか。
本人ですら、正確には覚えていないだろう。
だが俺は覚えている。
初めて失われたのは、「甘いものを選ぶ理由」だった。
次は、服の色。
次は、道順。
次は、眠る前に考えていた癖。
少しずつ、少しずつ。
人は、削れる。
それでも彼は通い続けた。
忘れるたびに、また来た。
――忘れているから、来られる。
皮肉な話だ。
俺は止めなかった。
止められなかった。
理由はいくつも用意できる。
オーナーとしての立場。
賭けの公平性。
この場所の均衡。
だが、本当の理由は一つしかない。
俺は、彼が来なくなる夜を想像できなかった。
忘れられることより、来なくなることの方が、怖かった。
彼が俺を見て「誰だ」と言うたび、胸の奥が静かに潰れる。
それでも、 「初めて会ったな」とは言えなかった。
それを言った瞬間、俺が積み重ねてきた時間が、すべて嘘になる気がしたから。
俺だけが知っている。
俺だけが覚えている。
彼が、どんな顔で笑ったか。
どんな冗談を言ったか。
どんな声で、俺の名を呼んだか。
それらは、もう彼の中にはない。
だが――消えていない。
俺の中に、溜まっていくだけだ。
彼は言った。
「俺の頭は、あんたを他人だって言ってる」
それは、正しい。
そして、こうも言った。
「俺の指は、あんたの前でコインを回すのが一番落ち着くって」
それも、正しい。
だからこそ、俺は――初めて、怖くなった。
もし彼が、記憶を取り戻したら?
もし彼が、俺が見てきたすべてを知ったら?
感謝するか。
憎むか。
哀れむか。
どれでもいい。
それでもいい。
だが――
俺を、選ばなかったら?
それだけが、どうしても受け入れられなかった。
Chanceは、次の賭けを宣言した。
記憶を賭けない、と。
忘れない、と。
その言葉は、救いでもあり、刑の宣告でもあった。
俺はもう、「忘れられる側」に逃げられない。
彼がすべてを知ったとき、それでも俺の前でコインを回すかどうか。
それが、最後の賭けだ。
俺の賭け金は、ずっと前から決まっている。
――お前だ、Chance。
それ以外を、賭けたことは一度もない。
雨の降らない夜だった。路地の奥、かつてのカジノの扉は、今や音も立てずに開く。かつてChanceが感じたあの威圧的な重厚さは、もうどこにもない。ただの、古い木製の板に戻っただけだ。
中に入ると、まず鼻をくすぐったのは皮革と鉄の匂いではなく、甘ったるい芳香だった。テーブルの上には、山積みのチップの代わりに、二つの湯気を立てるカップが並んでいる。Chanceは慣れた手つきで三つ目の角砂糖を放り込み、スプーンでカチャカチャと無遠慮な音を立ててかき混ぜた。
「……あー、やっぱりこれだな。ブラックなんて、よく飲んでたぜ」
「お前がそれを望んだからだ。忘却の代償としてな」
カウンターの向こう側、かつて管理者として不遜に立っていた男――Mafiosoは、今はChanceの向かいに座っている。その手には、カードではなく一冊の古い手帳があった。Mafiosoがこれまで一人で書き溜めてきた、Chanceという男の『欠片』たちの記録だ。
「……三年前の秋だ。お前はそのジャケットを、自分には似合わないと言いながら買った。店員の熱意に負けたと毒づいていたが、その夜、俺に見せるためにわざわざ着て来たんだぞ」
「へえ。俺、そんなに可愛げあったかよ。……信じられねえな」
Chanceは笑い、記憶の断片を味わうようにコーヒーを啜る。Mafiosoが語る言葉は、Chanceにとって自分のことでありながら、どこか他人の物語のようでもある。失われた時間は二度と戻らない。けれど、こうして男の口から語られることで、それは新しい物語としてChanceの中に根を下ろしていく。
ふと、Chanceの視線が部屋の隅に落ちた。そこには、かつて記憶を精算するための装置だったトレイが、埃を被って放置されていた。
「なあ。もう、あいつは動かないのか?」
「……ああ。カードを配る理由も、対価を受け取る権利も、俺が捨てた」
Mafiosoは手帳を閉じ、その表紙を静かになぞった。それは、全知の管理者としての死を意味していた。誰の人生も支配せず、誰の記憶も削らない。ただ一人の男の隣で、過ぎ去った時間を語り聞かせるだけの、不完全な一人の人間への転落。
「俺はもう、お前を『正しく』作り変えることはできない。これからの日常は、俺の管理の及ばない汚れや、くだらない諍いで溢れるだろう」
「望むところだ。正解ばっかりの人生なんて、ギャンブルにもなりゃしねえよ」
Chanceはポケットからコインを取り出した。かつては欠落を埋めるための縋り付くようなリズムだった。だが今、彼はそれを回さない。ただ掌で弄び、やがてそれをMafiosoの手元へ滑らせた。
「これ、お前に預けるわ。チップの代わりじゃねえぞ。……また俺が何か忘れたら、その音で呼び戻してくれって意味だ」
Mafiosoは差し出されたコインを、大切に握りしめた。管理者としての冷徹な指先ではなく、微かに震える、一人の男の指で。
夜は、もう二人を切り裂くことはない。窓の外では、ようやく乾いた夜風が吹き始めていた。
精算は、まだ始まったばかりだ。語るべき夜は腐るほどある。二人は、同じ高さの椅子に座ったまま、終わりのない物語の続きへと、静かに足を踏み出した。