「目を奪われる」とは、きっとこのことなのだと思う。それは突然の出来事だった。海で彼女を見たとき僕は、目が離せなくなった。日焼けを知らない白い肌、手入れの行き届いたつややかな黒髪、儚げに伏せられた目。そのどれもが僕の心を捕らえた。何よりもその声。透き通るソプラノの歌声は、例えるならそう、海の声。岩場で一人、誰に聴かせるわけでもなく歌うその姿にどうしょうもなく惹かれた。
彼女が歌い終わったのか、こちらに気づく。僕はうまく声が出せなかった。あ、とか、う、とかそんな意味を持たない音しか、この喉からは出てこない。盗み見をしていたことを彼女は怒るだろうか、それとも恥ずかしがるだろうか、嫌われるのは嫌だ、なんて考えていると彼女はふわり、と微笑んでから海へ歩いて行ってしまった。
彼女のふくらはぎほどまでが、海へ沈む。僕は見ていた。海と彼女が1つの絵画のように見えて。この光景をもう少し見ていたくて。彼女の腰ほどまでが、海へ沈む。僕は怖くなった。彼女がこのまま波に流されて消えてしまいそうな、そんな気がして。それでも彼女は歩く。彼女の胸ほどまでが、海へ沈む。僕は止めた。声をかけた。うまく声が出せない不良品のこの喉で。出せるだけの声を彼女に届けたくて。それでも彼女は歩くのだ。彼女は、すべて海へ沈んだ。僕の不良品の喉は、人一人こちらへ呼び戻すこともできないらしい。
透き通るソプラノの歌声が、耳に残っている。手入れの行き届いた黒髪が、目に焼き付いている。ほんの一瞬の出来事だった。それなのに彼女はこれほどまでに僕の記憶の中に一生消えない程に焼き付いている。
もしも、僕が声を出せていたら、彼女は海に沈まなくてよかったのだろうか。
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