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久しぶりだね 更新嬉しいよ
陽に灼かれて
動物達は今日も、崩れ落ちた廃墟を通り過ぎてゆく。焦げた破片は粉々になり飛び散り、夕陽で茜色に染められていた。彼らの父は戦争で散っている。然し、その血が深く滲んだこの廃墟を気に留めない。故郷の為に戦い、命を散らした兵士達の苦しみを凝縮した、その灰は今や忘れ去られている。背広の胸に一輪の花でも挿して、呑気に歩いているのだ。
胸を突き破られるような思いで、一頭の竜が立ち止まった。企鵝のような模様をした黒毛を靡かせて、ジッと破片を見つめる。聳える廃墟の穴から覗く空の色を何に例えよう。藻掻いて呻き声を上げながら死にゆく兵士達の顔が浮かんだ。舌が掴める程に腫れ上がり、皮膚が爛れ、毛が燃え落ちたその体を。「私は死にたくありません」と力なく言葉を漏らして、渇いた口を動かす犬達を。竜は突然、ガーンと煉瓦で殴られたように頭が痛くなった。そして、吐瀉物が喉に込み上げてきた。咽喉を溶かすような酸っぱさに顔を顰める。到頭、その荒廃した建物から眼を逸らすと、前へ向かってゆっくりと歩き始めた。
岩壁に貼られた絵の中で、最も眼立っていたのは瑠璃のような毛をした青豹である。陸軍の制服を身に纏い、上の欠けた三日月の旗を握り締めていた。竜は此の写真を破り捨ててやりたいと牙を剥く。握り締められた拳には鉤爪が食い込み、血が滲んでいた。恩師を返せと泣き叫びたくなる。そうして腹の奥から絞り出したような「クソッ」という情けない声を投げつけ、花蜜を前にした蝶の如く酒場へと吸い込まれてゆく。切り刻まれたような心を癒やす為なら、何だってする。この穴を埋めてくれとばかりに、長机へ項垂れた。混合酒を一つとだけ言って、そのまま動かない。
──今日は、嫌なものを見た。ジリジリ灼かれて脂肪の剥き出しになった友人の姿が瞼裏から離れない。あの廃墟が、俺にそれを思い出させたのだ。
焦げた屍体の匂いがした気がした。考えると、精神が変になる。正常心を保たなければならないと涙を堪えて前を向いた。すると、背後から鈴の鳴る音が聞こえる。瞬発的に振り返ると、そこには双頭の鷲が居た。真夜中の空のような黒毛に、あの空に似た茜の嘴をしている。青い矢車菊の模様をした服は、皺一つも無い。双頭の鷲……左頭が竜を見つけるなり駆け寄ってきた。
「数年ぶりに会ったと思えば、此の世の終わりみたいな顔だね」
この嗄れた声はフェリクスだと竜が顔を赤らめる。微笑って「二年は経ちましたね」と恥ずかしげに角を撫でると、右頭が眼を細めて、首を長く伸ばした。胸が忙しくなり、拍動が速まるのを感じる。いつの間にか出された混合酒をサッと口にして、緊張を和らげようとした。
「先生は何処へ行った。暫くは他國に居たから、彼の噂すら聞いていないんだ」
パスカルが震えた言葉を漏らす。罪悪感にも似た重りが首の後ろに伸し掛かるようで、胸から何かが込み上げてきた。眼の下が熱くなる。黒毛なのに赤くなった気がした。
「もう……いや、既に大先生は此の世に居ません。ある限りの知恵を全て書き留めて、逝ってしまいました……」
「世の中、甘くないな」
竜からすれば、絶望を凝縮したような言葉だった。反論する暇も無く、フェリクスは笑顔でモスコミュールを頼み、パスカルは明様に不満そうな顔で嘴を触っている。竜は眼を細めて、睨むように二頭を見た。
「何で、お前が居て死ぬんだ?」
「なら」堪忍袋の緒を切らしたように机を叩いた。
「ならお訊きしますが、貴方が隣で支えていた筈なのに、どうして青玉さんは死んだのですか」
青褪めて、鯨に呑まれたような顔をする。その鴉にも似た羽毛を逆立たせて、泥でも吐くのではないかと思わせる程に口を大きく開けている。その途端、時間が止まったような錯覚に襲われた。その静寂に嫌気が差し、隣を一瞥すると、二頭は焦点すら合っておらずピタリと動かない。悪いことをしたなと竜は双頭の鷲を慰めようとする。赤い嘴が此方を向いた。
「嫌になった。今のは、酒で忘れよう」
「はぁ、はい」
腑に落ちない。誤魔化されたような気がする。奥底に掛かる靄を忘れるためにも、出された混合酒を一口。切り分けられ、挟まれた果実をチラリと見てグラスを置いた。瑠璃硝子で花や林檎が繊細に細工されている。或いは緋や黄に染まっていた。竜が無心にそれを揺らしていると、双頭の左頭が思い出したように眼を見開く。
「そういえば、今日の新聞見たかい」
「いいえ。最近はずーっと見てませんね」
嘘ばかりですから、とは答えられずに竜は笑った。恩師の死に嘘や本当の事を上手く混ぜ合わせて売り捌いた奴らを許せない、と握り拳に力を入れた。フェリクスは鞄の中に手を伸ばしゴソゴソと何かを探る。そして破れて色褪せた新聞を掴んで渡した。
飾り文字で綴られた新聞を読み進めながら、満面の笑みを浮かべる竜を見る。その竜は左側は黒、角は緋。右側は緋、角は黒。何より眼立つのは、左右の角が二股帽子のようになっていることである。そして気色悪い事に瞳孔は山羊に似て横長い。眼線を隣にやると、左手には口吻の長い純白の狼が居た。片耳が酷く欠けている。
「三大名家失踪事件のうちブクセン家の長男が今更見つかったって。名前も何もかも変えていたらしい」
腹立たしそうに道化師のような竜を指差す。眼を凝らして見てみると、狡猾そうな笑みを浮かべていた。
「三大名家って、ヘレッセン家とグラヴィナ家とブクセン家でしょう。全員暗殺されたんじゃなかったんですか?」噂で何億回と聞いている。
「ブクセンは隣國の軍事組織に金を注ぎ込んで助けて貰ったとさ。これで暗殺された二家の財産が手に入るかもとか、色々書いてたよ。お前、よく名家の晩餐会や舞踏会に同席してたから知っているのかと思ってな」
羽毛を逆立てて黄色い瞳を丸くした。そして、またグラスを握り口へと運ぶ。鋭い爪と柔らかそうな手を眺めて、竜は絢爛の眸を向ける。
「何見てる」パスカルが唇を尖らした。
「見せませんよ。それより、今ブクセンは何処に住んでいるのですか。訪ねたい」
「正気か?」
右頭が憂慮に堪えないと掴み掛かる。竜は首周りでモサモサとしている襟巻を撫でて睫毛を伏せる。上へ伸びて曲がった角を少し下に向けた。
「大先生の事も少し訊きたいから、行きます。生徒としてあの死に方は許せません。せめて生き残った彼を殴ってやりたい」
「乱暴は辞めなよ」
フェリクスが眉根を寄せる。竜は構わないといった様子で胸を張った。軍で鍛えていることもあり、筋肉質な腕を胸に向ける。拳も硬かった。
「狡猾な手で逃げて、金を注ぎ込んで自分の命だけ守るような糞垂れは地獄に堕ちるべきです。そんな悪魔みたいな奴、毛虫でも呑んでしまえばいい」
ドンと音を立ててグラスを置くと、こうしちゃ居られないとばかりに衣嚢から純金硬貨を出す。椿が描かれている事から他国では椿硬貨と呼ばれている物だ。
「早う教えてくださいよ。待てません」
「待ってろ」
高性能携帯電話を指の腹で触りつつ、友人と連絡を取っている。画質が異常な程に良い。まるで現実を映し出した様だ。ポンと音がしたと思えば、住所がズラリと他国語で送られてきた。この複雑な形を見るに漢字だ。
「……驚くなよ。デューディールドルフ、メイリーン通り十八番地」
有名な金融都市だ。此処には西欧含め世界的に有名なサン・モーレ銀行がある。竜はゴクリと唾を飲んだ。大金持ちの大富豪しか立ち入らない街に、今から踏み込もうとしている。視界を覆い尽くす黄金の大廈高楼。深夜でも真昼のような輝きが途絶えることは無い。
「じゃあ、行ってくる」
「拳銃を忘れるなよ。何されるか分からない」
フェリクスが布に包んだ拳銃を手渡しする。常に持ち歩いているのかと感心の眼差しを向けて、竜は陸軍式敬礼をした。そして硬貨を代わりに渡して酒屋から立ち去る。茜に染まった空には星々が浮かび上がり、もう日が暮れようとしていた。大鷲のように白毛の脚を振って走り、列車まで急ぐ。もう出ないかもしれない。路地樹を横切り、街灯に照らされた道を突き進み、石を蹴っているうちに、廃墟の事は錆びた記憶として葬られた。こうして彼も、隣を歩く獣と同じく廃墟を通り過ぎる。染みた父の血に気づかず通り過ぎる。そして円蓋の城の様な駅を眼の前にして立ち止まった。石造りの柱に凭れて呼吸を整えると、切符を買いにフラフラと自動券売機へと歩いた。脚がふにゃりとなって力が入らない。今にも膝から崩れ落ちるような思いで、切符を手にした。そして電光掲示板で番号を確認すると、丁度来た列車に忙しく乗り込み、竜は青い座席に腰を下ろした。そして、耳を澄ましたまま眠ろうと、首にある襟巻に顔を埋める。遠くはないが、流れてゆく短い時間とは違って心は永い。数十分と揺られて、外にある都市を眺めているうちに不安が込み上げてきた。
──大先生が、いつかブクセン家に短刀で刺されそうになったと言っていた。俺は大丈夫だろうか。
張り裂けそうな胸を押さえて、下唇を噛む。大丈夫だ。きっと。自分に言い聞かせて眼を閉じる。暫くの間は夢見心地で穏やかな表情をしていたが、いつの間にか冷や汗を滲ませて息を荒くしていた。
「熱いよ、痛いよう……ロスヴィル……たす、け……」
手を伸ばして藻掻いた。そこに友人の姿は、無い。耳奥に哄笑が響き渡った。アハハハハ。腹の底からおかしそうな声。皮膚が痛い。ジリジリと。獣が弾けた。バッチンと。手脚が墜ちた。バラバラに。形は違えど廃墟の記憶が思い出された。心の奥底を灼いた恐ろしい記憶が。
彼は過呼吸になって眼覚めた。もうデューディールドルフに着いたのだ。ぐったりと疲れて蹌踉めきながら列車から降りる。我ながらに過酷な夢を見たと汗を拭った。ふつふつと沸いた怒りの種を破裂させて、歩む。私情で殺められた恩師の敵を討つような思いを抱いてその黄金の街へと進んだ。
「十八番地、十八番地……」
ネオン一色に染まる賭場の前で漢字看板を読み進めながら歩く。高級食材店の周りで迷い、建物を見上げたりして途方に暮れる。街の光を浴びて、その筋を波のように揺らしている湖を眺めながら立ち止まっていると、腹の出た鼠が隣に来た。
「何かお困りですかな」調子の良い声だ。
「メイリーン通り十八番地を探しているのですが、迷ってしまって……」
金の首飾りと顔を交互に見て、眸をチラチラさせた。寝は腹と同じくらい胸を張って、自慢気に下顎を突き出す。
「案内しましょう。家が近いのでね」
「感謝します」
竜は口角を下げて身を縮めた。洗濯物のように干された漢字看板を通り過ぎ、大通りへと歩く。空は軽々しい格好をした竜が、雲を覆い隠す程の翼を広げていた。皮膜から漏れる月光の眩しさに手で眼許を隠す。この金融都市は星空が見えない。ただ、切り絵のような橋や柱からは紅紫の光が漏れている。そこに馴染んでいない竜と、慣れた道を庭のようにして歩く鼠。歩幅からして差は明らかだ。
「君、何処出身かね?」
「ヴェンリー共和國のシュネピリア出身です」
シュネピリアは地面も裂けて谷になるような極北の國である。この竜のように長い毛を持つのは極北雪竜と高山竜に限る。鼠は、「少し失敬」と手を伸ばして毛に触れた。細かく何層にもなっているからか、ブワッと沈み込んだ。
「珍しい……この辺は焔竜ばかりですよ。火山が連なっているのでね、過去には高山竜も居ましたが、今では耳にもしません」
頬を握ったりしていると、竜は少し不愉快そうな顔をして避けた。
「硬い鱗が羨ましいですよ。抜けると床が汚れるし、毛を刈ると後始末が大変ですから」
「そうか……ほら、あそこが十八番地」
指を差した先には、心臓が口から飛び出るような豪邸が聳えていた。城にも似たその豪邸には、丁度狙っていた影が伸びている。鼠に感謝を伝えて、小走りでその影を追いかけると、眼が合った。その二又帽子のような角と、横長の瞳孔を見るに間違いない。
「弟の生徒かい。長らく舞踏会に招待出来なくて申し訳ない。こんな時間に訪ねるなんて、何かあったのかな?」
薄気味悪い笑みを広げた緋の顔半分が見えると、影のような黒い鱗も同時に覗く。手元には尖った杖。そして聖書に描かれる様な濃紺の服を纏い、黄金の釦で留めていた。
「何故、姿を隠して……グラヴィナ家やヘレッセン家の葬儀に来なかったのですか」
「グラヴィナ家には後々行った。腹抱えて笑っていたがね、ヘレッセン家の可愛い弟達が亡くなったと聞いた時は悲しみで寝込んでいた」
檸檬を食べた時の様に眉を顰めて、悲劇だと顔で言った。わざとらしささえ感じる。
「う、嘘でしょう?」
「うん、嘘だ。何方にも笑ってたよ。悪かったね」
「涙一筋も流れなかったのですか」
竜は化け物を眼の前にしたと酷く青褪めた。悪魔だ。悪魔の子に違いないと確信した。
「悲しいと思わないよ。皆、自由になれて幸せ者だと思う。羨ましくて堪らない」
「貴方の愛してた青玉さんは」
「……誰、だろうね」
「知っている筈ですよ」
「部屋で話そう」
「ええ」
「喉が疼くから葉巻をくれ。何でもいい」
「はい、安物ですがどうぞ」
懐から太い葉巻を取り出すと、ふぅっと煙の様な火を吹いて点けた。先が夕焼け色に染まる。
「ありがとう」
木の頑丈な扉に細かい鍵を入れて、グルリと回して押し開けた。そして、ふぅっと紫の煙を玄関に充満させる。正面の彩色硝子が金の額縁に入れられた枯れた向日葵の絵画に反射している。床には紅い絨毯が敷かれていた。変に曲がった壺には一輪の薔薇。窓帷は金の糸で刺繍のようにして紋章を主張している。長靴を脱ぎ、竜は長廊下を見た。
「豪華ですね」扉飾りの値段を考えながら言った。
「貴族の家だと思っただろう。でも、これはグラヴィナ家やヘレッセン家のゴミやガラクタを飾ってみただけなんだよ」
「この家の宝は無いのですか?」
「あるよ。見せてやろう」
居室まで案内され、白い石を削った机や昆虫標本が飾られていた。そして通り道を覆い尽くすような肖像画には恩師の姿もある。叡智を含んだ眸をギラリとさせて、窒素に触れた極光のような鱗を燦然とさせていた。見惚れている暇もなく通り過ぎてゆくと、籠には檸檬や無花果が雑に詰め込まれている。その居るだけで胃もたれするような空間に、急な隙間が見えた。そこには黒光りする像が聳えている。高加索大兜虫に王冠と剣。そして黄、赤、白の三色と装飾の施された盾を持っている。その埃に塗れたその像が神殿の真ん中にあっても、不思議に思うことは無いだろう。恍惚として、その造形作品の前で崩れ落ちた。
「……素晴らしいだろう。僕の宝はコレだけで良い。僕が死んでも、この宝だけは守り抜こうと思う。それで、ねぇ。隠し味として青玉の骨はこの中にあるよ」
「……は、墓は……」
「墓に入る前に盗んだよ」
虫の屍を踏みつけるように、冷めて笑った。
「何故?」
震えが溝川のように氾濫する。今にも動顛してしまいそうなほど、酷く怯えた。頬に生える橙の毛を垂らして、黄金の化身のような眸を小さくした。眼の前の道化師は赤い赤い口を開けて笑う。笑っている。裂けた舌を覗かせて笑っている。
「別に凝った理由は無い。でもなぁ、寂しかったんだ。一頭で眠るなんて」
昏い眼には郷愁の影が落ちていた。窓からはサラリと月光が漏れ、二頭の姿を照らす。温もりを感じないや、と竜は襟巻に口吻を突っ込む。
「それだけですか」
「うん。彼だけは本当に弟と思っていた。誇りだよ」
口先を突き出すようにして、また煙を吹いた。そして誇らしげに像を撫で回す。埃の下にある煌めきは金箔か、それともコレ自体が金なのだろうか。ただ、息を呑んでその光景を眺めていた。高級品に埋まる部屋の、一角にあるその白い空間を。彼はただ、見ていた。
「嗚呼、彼はどのような人生を歩んできたのでしょうか」
耐えきれず、唇を緩めて言葉が漏れる。そうして、掴む前に花弁のように散った。道化師は嗤う。
「きっと、誇れるような素晴らしい人生だろう」