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ヘラは前開きの下着のホックを、胸を押し込めるように留めると、少し照れたようにこちらを見た。
そしてレースのブラウスを羽織り、ボタンに指を滑らせた。
俺はタオルで濡れた髪を拭きながら、ベッドに座りその動作を見ていた。
彼女に変わった様子はない。
いつものように部屋に来ると、それが当然であるかのように浴槽に湯を張り、俺を風呂に入れて、服を着せる。
まるで赤子のようだ。
そこに手錠とセックスがなければ―――。
衣服を整えた彼女が、少し濡れた赤髪から水滴を落としながら、テーブルを見つめた。
そこには例の本が置いてある。
【ギリシア神話全集】だ。
いつもは枕元に置いてあるのだが、情事中、邪魔になったり、万が一にも落としたりしたら一大事だと思い、テーブルに避難させたのだ。
「……………」
何気なく眺めたのだろうが、彼女はなかなかそこから視線を話さない。
話しかけた方がいいだろうか。
話しかけない方がいいだろうか。
わからない。
早くーーー
早く、行ってくれ――――。
「もし―――」
彼女はその布表紙の金色の刺繍を人差し指で触れた。
そして意味深にこちらを見つめる。
「―――何」
言うと彼女はふっと笑った。
「もしこれが読み終わって、もっと他に楽しい本が読みたかったら、買ってあげるわよ?」
「それはどうも」
俺は少し目を細めた。
「でも生憎、読書は苦手だ。読んでると眠くなる」
彼女はふっと笑うと、やっとその本から指を離した。
そしてロングスカートの裾をヒラヒラと靡かせながら部屋を出て行った。
俺は大きくため息をつくと、ダイニングテーブルからその本を回収した。
そしてそれを抱くようにベッドに再び横になると目を瞑った。
少女がコースターに書いてくれたメッセージの言わんとしていることは、はっきり言ってわからなかった。
だが、ごみ箱もなく、食器は彼が片付けるため、そのままにもできず、俺はコースターをバレないようにこの【ギリシャ・ローマ神話全集】の中に挟めた。
他に都合のいい隠し場所が見つかるまで、当分の棲家はここだ。
【このままだとあなたは殺される】
【このまま】とは何だ?
このまま何も考えずに生きていたら?
このままヘラと情事を重ねたら?
このままこの部屋にいたら?
このままスープを飲まなかったら?
このまま……
このまま……
殺されるーーー?
誰に?
なぜ?
どうやって?
では……どうすればいい。
ヘラに聞いてみたいがーーー。
少女がこのコースターに書いてこっそり教えるという“伝え方”を選んだ理由を考えると―――。
ヘラには言わない方がいい気がした。
かつ―――。
誰にもバレない方がいいような気がした。
◆◆◆◆◆
昼夜構わず見る例の夢は、日を追うごとに、より鮮明により具体的になっていった。
薄暗い工場には、シャッターが何個もある。
見える範囲だけでも四つだ。
水が垂れる音は、工場内に設置されている水道の蛇口から聞こえてくる。
こちらも四つ、横に並んでいる。
薄汚れた鏡と、黒くなった石鹸が、蛇口と同じ数だけ並んでいる。
ポニーテールの女性の背丈は、彼女が座り込んでいるためはっきりしない。
しかし細身の女性だ。
つなぎの作業着を着ている。
髪の毛の色は明るい茶色。金色に近い。
彼女が抱きかかえている人間の顔は、相変わらず見えない。
だが男だ。
確かに、男だ。
「お前が殺したんだ」
だいぶ鮮明になったとはいえ、男の声にはまだピンとこない。
でもそれは背後から聞こえてくる。
そして彼女は、その声に反応してこちらを振り返る。
つまりは、
ーーーその男と俺は一緒に工場に入ってきた。
知り合いか?同僚か?
「……この人殺しが……!!」
しかしその声はひどく冷徹で―――。
怒りに満ちていた。
ヘラはどうやら俺が何をしたのか、知っているようだった。
とても辛いこと。
それを忘れないといけない。
あの夢とヘラの言葉から、自分が何かを―――例えば殺人を犯してしまい、彼女が自分を匿っているのだと想像できる。
ヘラは俺の味方だ。
なぜならそうでなければ、彼女が自分を食事と昼寝付きで、家に匿う理由の説明ができない。
でも、そうなると今度は―――
【このままだとあなたは殺される】
困った。
今度は、少女のメモの説明ができない。
今日も夢に進歩があった。
例えば薄暗い工場。
工場の壁面、彼女の背後あたりに何かマークが貼ってある。
黄色の背景。
黒い三角形。
その前で手が何かを掴もうとしている。
なんだ?あのマークは。
夢の中ではあるが、俺は目を凝らした。
と、工場がだんだん薄くなっていく。
ーーーここまでか。
てっきり覚醒するのかと思いきや、場所は一転、重々しい和室に変わった。
今時珍しい続きの和室に、ところ狭しと黒い喪服をまとった人々が身を寄せ合い、肩を震わせて泣いている。
髪を綺麗にまとめた黒着物の女性が振り返る。
工場にいた女性と同一人物だろうか?
その顔は工場の女性と同様、はっきりしない。
「ーーーあなたが、殺したのよ……!」
その声に喪服の人間たちが一斉に振り返る。
――――!
その異様な光景に思わず息を飲む。
皆、顔が闇で見えない。
俺は遺影に視線を移した。
少し茶色がかった髪の毛。
通った鼻筋。
男性―――?
和室が遠く、薄くなっていく。
まだ終わるな。
まだ終わらないでくれよ……!
あと少し……待ってくれ。
もう少しで、見えそうなのに――――!
「――待ってくれ!」
俺は目を開けた。
大量の汗で髪の毛と、枕カバーが首に纏わりつく。
胸で息をすると、酷く乾いた喉が痛み、慌てて唾液を一口飲み込んだ。
「…………」
驚いたように少女がこちらを見下ろしている。
顎を滴る汗を手の甲で拭いながら、俺は身体を起こした。
「―――飯か?」
言うと少女は無言で頷いた。
俺は落ち着けるために手を目に移すと、二つの眼球を同時に強く吸った。
「―――そのままの体勢で、聞いてください」
頭上で凛とした声が響いた。
俺は思わず少女を見上げそうになるのを、必死で堪えた。
「実は、あなたがそのように目を覆う機会を窺っていました」
「――――」
俺は手の裏側で瞬きを繰り返した。
その間にも、少女の手は淀みなく主催の大皿をクロスの上に置き、そこにスプーンとフォークを滑らせ、食事の準備を続けている。
「あのカメラですが―――」
少女は言葉を続けた。
「音声は入りません。だから私が今話していることは、誰にも聞かれていません」
「――――」
音が入らない……?
「古いカメラなんです。祖母を見張るための。まあ、それは良いのですが」
少女は静かに続けた。
「この間のコースターは確認していただけましたね」
俺はその体勢のまま小さく頷いた。
トクトクと音を立てて、水差しからグラスに水が注がれる。
「あなたに私のわかる範囲のことをお話したい。でも、私にもそれなりのリスクが伴います。それはわかりますか?」
俺は再度小さく頷いた。
「一番のリスクは、あなたが私を信じてくれないこと………」
「――――」
「あなたが私を疑えば、あなたはあの女にそれを報告する。そうすれば、殺されるのはあなたではなく私になります」
「―――――!」
「でもそれで、あなたが助かるわけではない。あなたはどっちみち、時が来れば殺されます」
「―――――」
「私を信じてくれますか?」
俺はゆっくり手を外すと、少女を見上げた。
少女もカメラに背を向けて、こちらを静かに見下ろしている。
清く整った顔。清潔感の溢れる美人だ。
しかしその顔はヘラには全く似ていない。
記憶の中のポニーテールの女とも、喪服の女とも共通点は見つけられない。
少女は誰だ。
どうして俺にそんなことを言う?
もしかして、ヘラの回し者って言うことはないだろうか。
ヘラが俺を試すために、少女を使っているとは―――。
いや。それこそ理由がない。
ヘラに陶酔していた俺に、疑惑の種を植え付けたのは、この少女だ。
ヘラがわざわざ自分で種を植え付けさせて、それを回収するような無駄な動きをするとは思えない。
ヘラと少女は仲間ではない。
その大前提がないと、今のこの状況は説明ができない。
「―――君を……信じるよ」
俺は少女の頭が自分の顔をカメラから隠していること確認してから言った。
少女はふっと微笑むと、静かに水差しを置き、こちらに一礼をした。