「初めに言っておきますが、私が知っていることはあまり多くありません」
その日から少女は部屋に来て配膳が済むまでのわずかな時間で、俺に少しずつ話をした。
「あなたの正体も知りません」
俺は目を落とし、読書をしているふりをしながら、少女の言葉に耳を傾けた。
「なぜあの女があなたをここに閉じ込めているのかもわかりません」
その言葉の端々から、少女がヘラに対して好意的ではないことがわかる。
俺は鼻先を掻くふりをして、口元を隠し、彼女に問うた。
「なぜ俺が”閉じ込められている”と断言できる?俺は普段拘束もされてないし、見たところドアに鍵も取り付けられてないようだが」
彼女は垂れた黒髪を耳に掛けながら答えた。
「鍵はあります。ただしこの扉ではないです。この扉の奥にもう1つ扉があり、そちらについています」
「――――」
「そしてそこには。防犯装置もついています。外側からしか解除できないため、あなたが抜けだそうとすれば、警報が鳴ります」
背筋がゾッとした。
ありうる話だ。
しかし少女の正体と、その目的がはっきりしない限り、そのまま鵜呑みにするのは危険だ。
「君と彼女の関係は?」
言うと彼女は僅かに水差しを持つ手を震わせた。
「―――他人です」
「――――?」
思わず視線を上げ、慌てて戻す。
「どうして俺が殺されるとわかる?」
聞くと彼女は水差しについた水滴を、軽く布巾で拭きながら答えた。
「今日が何月何日か、わかりますか?」
唐突な質問に、俺は眉間に皺を寄せた。
―――何月何日……?
不思議なことに今まで考えたことがなかった。
何月何日だ?
季節は?
時間は?
「はは………」
俺は目を覆いながら笑った。
「気分は認知症の婆さんだ」
呟くと、彼女は布巾を傍らに置いた。
「皮肉ですね」
「―――何が?」
俺は目を擦りながら俯く。
「あの女があなたに飲ませていた薬は―――」
「?」
「認知症の祖母に飲ませていた精神安定薬です。それもめっぽう強い」
「――――」
俺は少女を見上げた。
ヘラと少女は“他人“。
認知症の祖母。
それはヘラの祖母か?少女の祖母なのか?
もしヘラの祖母であれば、「ギリシャ神話を寝る前に呼んでくれた祖母」と同じということになる。と、なるとこの【ギリシャ神話全集】も、祖母のものということになる。
それならそうと、祖母の話題を出した際に言いそうなものだ。
もし、少女の祖母であれば。
その祖母に安定薬を飲ませていたヘラは―――。
―――嫁?
つまり少女にとっては、義理の母親か?
この過程には明らかに一人、登場人物が足りない。
それは―――。
「君の父親はどうしてる?」
俺はつい、カメラの存在を忘れて少女に聞いた。
少女は慌てたように一瞬カメラを見ようとしたが、ぐっとこらえ、視線だけでこちらを見つめた。
「―――死にました」
少女は、怒りも悲しみも迷いも哀れみも、何も瞳に込めずに言い放った。
「殺されたんです」
……この人殺しが……!
背後から、あの声が聞こえた気がした。
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