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その日、ジャズバーの小さなステージで歌った。有難いことに客入りはなかなか良かった。前方は大勢の客で埋まっていたため、後方にいるであろうモリテンの姿を見つけられなかったのが残念だった。
先ずは『Moon River』『You’d Be So Nice to Come Home To』『枯葉』等のリクエストを交えたジャズスタンダードを歌い、後はオリジナルを披露した。
一時間はあっと言う間だ。そして最後はいつも全編英語に直した『白い華』を歌う。
律を、詩音を想い、大切な人を想い、罪と向き合う心のままに歌う。オリジナルのCDを出すとき、この曲は敢えてCDには入れなかった。音源にしたくなかったのは、歌も常に生きているものでありたいと、そう願った結果だった。
俺がこの曲を大切にしているから、その歌が人々の心を揺さぶる。だから詩音がこの世に生を受けた証と、この曲が産まれた意味がある。
この歌を歌い終わった後、必ず全員が涙する。俺の歌に共鳴してくれるのだろう。惜しみない拍手で包まれ、俺の舞台が終わる。
小さな舞台でも、歌える場所があればそれでいい。声が枯れるまで歌い、指が動かなくなるまでピアノを弾き、生涯現役のアーティストで在り続けたい。
深い孤独と闘う俺には、生きる意味としてこういう舞台が必要だから。
ライブ終了後は歓談の時間に入る。明るい欧米人はノリよく俺に声を掛けてくれる。これからも頑張って欲しいと握手を求められ、CDを購入してくれる。
見知った人間が多くなってきた今はCDが売れることが減った。その代わり次のチケットがきちんと売れるようになってきた。今度ワンマンライブを行う予定で、チケットの売れ行きは好調だ。小さなライブハウスを客でいっぱいにして、自分の力だけで歌うなんて最高に贅沢なこと。アーティスト冥利に尽きる。
チケットをあらかた売って声を掛けてくれた客の相手が終わると、ライブに来てくれたモリテンが最後に挨拶をしてくれた。
「博人のライブ、ほんまに良かった! 感動した!」
英語に混じって関西弁を聞くとは思わなかった。思わずありがとうと笑顔を返した。普段音にもプレイにも厳しいモリテンが、手放しで褒めてくれたのは初めてだったから嬉しかった。
モリテンは用意した物販のCDを根こそぎ買ってくれた。
日本――アウトラインで俺を宣伝して、買ったCDを販売してくれるらしい。モリテンにはなんの儲けもないのに。
彼は俺が十代の頃から支え、俺を応援してくれる父親代わりのことを常にやってくれる男だ。
今度いつか日本に帰った時、アウトラインで俺のワンマンライブができたらいいな。
もっと力を付けて彼のためにできることをしたいと思った。
「うーん…どうしよう…もう間に合わんくなる…」
モリテンの様子が変だ。始終ソワソワしていて、ぶつぶつ言っている。俺の方をじっと見つめ、何か言いたそうにしていた。
「モリテン、どうした?」
「あ、いや、博人…今、時間作れるか。少しでいいから、ここを抜けられるか?」
「今? あー、今すぐは無理かな。片付けもあるし」
「片付けなんか俺がしてやる! CDも完売したんやから、ちょっとくらい時間作れるやろ!」
急に声を荒げたものだから、驚いてモリテンを見つめた。「急にどうしたん?」
「…あああ、もう!! 俺、黙ってられへん! ここ放って追いかけろ!」
「モリテン、追いかけるって――」
俺の言葉を遮るように、彼が空色の封筒を差し出してきた。「お前やったらこれが誰からの手紙か、わかるやろ」
その手紙を見た瞬間、肌が粟立った。
そんな…まさか……。
「ほんまは黙ってろって言われてんけどもう無理や! 今やったらまだ間に合うから! さっき、サファイアのライブ見てから日本に帰るって、たった今、そこの海岸を歩いてったとこや! 早く追いかけろ! 博人!!」
モリテンが日本からわざわざこんな所まで来てくれた理由。
おせっかいな男だから、彼女を後押しして、この手紙を俺に渡すために一緒に来てくれた。
モリテンは、知ってたのだ。俺が律に惚れてることを。
彼らと何があったのかその全てを。
差し出された空色の封筒の表面を見て旋律が走った。
『新藤博人様へ
吉井律』
その淡く美しい空色の封筒には、RBの時から見慣れ、待ち焦がれていた、いつもの美しいクセ字が書かれていた――
律の手紙を見た俺は、はじかれたように店内を飛び出した。バーのすぐ近くにある砂浜へ走る。
さっき歌った、枯葉の歌詞が頭の中で巡る。
若い頃互いに愛し合っていた二人が別れざるを得ず、それぞれの人生を送ったあと、再び出会った時には北風に吹かれて舞う枯葉のようだったと慨嘆し、海岸の砂浜を歩く二人の足跡も波が静かに消し去っていく――
ただひたすら彼女の名を呼び、海岸の砂浜をライブ会場方面に向かって走った。
心はいつも彼女を求めてやまなかった。
美しい絹のような黒い髪。切れ長の瞳。泣き虫で、可愛くて、鈍感で、ずっと前から俺の心を掴んで離さない、唯一の女性(ひと)――
「律――――っ!!」
力の限り叫んだ。
かなり先を歩いていた、長く黒い髪の女性がこちらを振り返った。
まぎれもなく、律だった。
二度と会えるとは思っていなかったから、彼女の姿を見ただけでここでもう死んでもいいと思った。
全力疾走して彼女に追いつき、力の限り抱きしめた。この手に掴むために。
綺麗な黒い髪も、切れ長の瞳も、会えばすぐにキスしたくなる可愛い唇も、柔らかい肌も、全部、全部、本物――……
「あ、博人……どうして?」
「はっ……森、重……さんに聞いた! はあっ……律、がいるって……早く、会いに……行けって……はっ」
全力疾走したから息も髪も乱れて、すべてがボロボロになっている。運命の再会だというのに、このみすぼらしさはいただけない。でも、彼女に会えた。ほんとうに、それだけでもう胸が熱くなる。
「博人には言わないでって言ったのに……」
彼女は困った顔で笑った。「……あんな風に別れて、博人を傷つけてしまったから、顔見せることはできないなって思っていたの。でも……」
泣き虫が発動した。律の目から綺麗な涙が零れ落ちていく。
「森やんに聞いたの。博人が外国で歌っているって。だったら…頑張っている博人にファンレターを書いて、死ぬまで応援しようと思って。今の私にできることは、それくらいしかないから…。でも、博人の居場所や拠点のライブハウスはわからないし、手紙を出したくても出せないから…それで………」
「だから手紙を書いて、わざわざ俺のところに持って来てくれたんやな」
呼吸が落ち着いたので優しく尋ねると、彼女が遠慮がちに頷いた。
嬉しかった。RBの時から俺を応援してくれていた彼女が、今までどんな風に俺を想ってくれていたのかよくわかる。彼女がしたためてくれた手紙は、いつも俺だけを想って書いてくれた本物の気持ちだから。
「サファイアが海外でツアーする度に、メンバーのみんなが博人を探してくれて…中でも光貴が率先して…博人を探してくれたの。それでやっと最近、博人が拠点にしているライブハウスの場所がいくつか分かって……この近くでコンサートをしたら、会えるかもしれないからって、ツアーの会場にここを選んでくれて、おせっかいの森やんが博人に会いに行こうって、日本からついて来てくれて…。さっき博人のライブを一緒に見たの」
律も一緒にいたのか。後方はぜんぜん見えなかったから残念やな。
「あの…最後に白い華、歌っていたよね?」
「ああ。いつも、律と詩音を想って歌ってる」
「私…すごく嬉しくて…すごく、すごく、感動して。会場のみんなが博人の歌に感動していたよ。私の知らない所で頑張っている博人を邪魔したくないから、会わずに帰ろうと思って…だから手紙を、森やんに託したの……」
ぎゅうっと背中に回った手に力が込められた。
「博人。ほんとうは、ずっと、あ、会いたかった……」
「俺も」
強く抱き返した。ふたりで抱き合って、互いの温もりを確かめ合うように無言の時を刻んだ。
暫く経ってから気になっていることを尋ねてみた。「律。聞いてもいい?」
「うん」
腕の中で律が答えてくれた。
「急いで来たからまだ中身は読んでないけれど、さっき受け取った手紙の差出人が旧姓だったから気になって。…旦那とは別れたのか?」
手紙には確かに『吉井律』と記載されていた。律は、離婚したのか…?
「うん。家族も説得して、光貴とは離婚した」
「…そうか」
嬉しい反面胸中は複雑だった。彼に悪いことをしたという感情が胸中を占めた。手放しで喜べないのは、この恋の罪深さを浮き彫りにさせる。
「あの後、私の身体が治ってから離婚を進めたの。もちろん怪我のことは誰にも言ってない。原因は私の我儘だから、詩音のことを引き合いに出してそれを押し通した。あの新居も精神的に辛いって、光貴も一緒になってみんなを説得してくれて……もう修復はできないからって伝え続けた。説得に時間はかかったけど、全部、きちんと清算したの。その上で光貴は私のために、博人を探してくれたの……」
それを聞いて胸が痛んだ。旦那を苦しめた存在である俺のことなんか、一刻も早く忘れ去りたいだろうに、律のため…。
彼の懐の大きさや律への愛が、それだけでわかる。
旦那は律のことを心から愛していたのだ、と。
彼女を想うからこそ、繋いでいた手を離してくれた――
「離婚してから……ずっと、ずっと、ずっと、博人に会いたかった。貴方を探しに行きたかった。でも…もし、博人に好きな人ができて、他の人と幸せに暮らしているなら、新しい人生を歩み始めた博人を邪魔することはしたくなくて…。でも、会いたくて、会いたくて…苦しかった。博人と別れたことを何度も後悔したの。でもあの時は、全部投げ出して博人について行ったりできなかった。やっぱりそんなことは、だめなことだって思ったから……ごめんなさい」
「謝らないでくれ。俺もずっとお前に会いたかった。律のことは一日も忘れたことは無かったし、お前を手放したことを何度も後悔したけど、でも…二人で旦那を裏切って傷つけておきながら、あのまま一緒にはなれないって俺も思った。そんなことをしたら、旦那だけじゃなくて律まで一生、俺のせいで苦しめてしまうから。だから別れようと思った。律のことは諦めるしか無いって自分に言い聞かせて今日まで生きてきた」
律も俺と同じ考えだと知れて嬉しかった。胸が熱くなる。
「あの…森やんに聞いたけれど、アメリカに来る前に一生分の恋したって…まだ好きな女がいるって言ってくれたのは、私のことって、思ってもいいのかな…?」
自信なさそうに律が聞いてきた。
成程な。それでモリテンが急にバンドを組もうとか言い出したのか。随分突拍子もないことを言うと思ったら、俺の気持ちを聞き出して、律に伝えるためか。
でもまあ、彼の言ったことは半分本気だったのかもな。律と俺がヴォーカルをして、モリテンがギターを弾くなんて。そんな楽しいバンド、いつかやってみたい。会場はもちろんアウトラインで。剣も一緒にやってくれるかな。
それにしても相変わらず律は鈍感や。
「お前以外、他に誰がいると思う?」
そっと彼女の長く美しい黒髪を撫でた。愛しい女性(ひと)。ずっとずっと、この手に抱きたかった。
「俺が愛してるのは、律だけや。もう、離さなくてもいいな?」
深く律が頷いてくれた。
ふたりで手をつなぎ、海岸を歩いた。
砂浜に付いた足跡は枯葉の歌のように波にさらわれて消えていくけれど、俺たちふたりのこれからは、風や波に散って失うものではなく、踏み出した一歩は決して消えない絆の軸となる。
愛しい人を二度と見失わないように、彼女の肩を強く抱き寄せた。
夕日に照らされた俺たちの影が次第に重なってゆく。
罪の恋は花開き、燃え尽きて堕ちた。
花は時を経て、別の美しい花を咲かせて未来を彩り
新たな舞台に上がった俺たちの歌は、今、ここから始まる――
-完-