「あ、新谷さん!お久しぶりです」
ドアを開けてくれたのは、田中夫人だった。
天賀谷展示場で接客した際に、構造現場見学会に絶縁状態だった父親も呼び、新谷が仲を取り持った客だ。
去年引き渡しをしたばかりだが、今回の訪問を喜んで快諾してくれた。
リビングに通される。
箪笥もテレビのキャビネットも、全て備え付けなので、空間に置いてあるものと言えば、3人掛けのソファとローテーブルしかない。
「8畳でも物がないと、すごく広く感じますよねー」
夫人はニコニコと、アプローチ(初回接客)した2年前と全く変わらない顔で微笑んだ。
「住んでいて、お困りのことはないですか?」
「ないです!快っ適で!」
夫人の即答に由樹は笑った。
「床暖房もすごいぽかぽかで優しい温かさだし、夏もちょっと冷房つければ、すぐ涼しくなるし。電源切って買い物行っても、帰ってきてからも涼しくて。24時間換気しているはずなのに、不思議」
「熱交換してますからね」
由樹は微笑んだ。
「外の温度の影響を極力受けないように、廃棄する空気の中を通しているんです。屋内の温度に合わせてから入ってくる、って言うんですかね。平たく言うと」
「へえ、そうでしたっけ」
夫人は愛嬌のある顔で笑った。
「きっと新谷さんが説明してくれた中にその話もあったんでしょうけど、あのときはただただ、セゾンの家作りのすばらしさに、口を開けていたので…」
「そう言っていただけると…」
由樹は微笑みながら、彼女が淹れてくれたレモンティーを口に含んだ。
「でも、やっぱり一番は……」
夫人が言いかけた時、奥の部屋から泣き声が聞こえてきた。
「あ、やだ。起きちゃった……」
言いながら夫人が慌てて立ち上がる。
障子を開けると、そこに小さな布団が敷いており、赤ん坊が泣いていた。
「よしよし」
夫人が抱き上げる。テントウムシの着ぐるみのようなパジャマを着ている。
「わあ。璃子(りこ)ちゃん、大きくなりましたね」
由樹はもうすぐ1歳になる田中夫妻の一人娘を見上げた。
「新谷さんが見てくださったのって、生まれてすぐのときでしたっけ?」
「そうです」
「お祝いに貰った玩具、今まさに璃子のお気に入りですよ」
夫人は和室に置いてあるそれを指さした。
それは透明の大きな筒で、上からボールを入れると、回転しながら落ちてくるというものだ。
「入れるボールの色によって、音と光が変わるので、大人が見ていてもわりと楽しいんですよ」
言いながら、夫人がそれを動かして見せると、ぐずっていた璃子はそれを見ながら口を開け、やがて笑い出した。
「かわいいですね……」
夢中になって口を開けている口から、透明な涎が垂れるのを夫人はスタイで拭き上げた。
「うん。へへ。かわいいです」
言いながらピンク色のほっぺをプニプニとつつく。
「新谷さんはお子さんは?」
「あ、私は独身なので」
言うと、
「あれ?そうでしたっけ?」
と驚いている。
(そうか。その時は千晶と付き合ってたから……)
当時、由樹はこういう質問に対し、千晶に敬意を払って、きちんと恋人がいること、結婚を考えていることを客にも伝えていた。
「実は、彼女とは別れてしまいまして」
正直に言う。
しかし「代わりに彼氏は出来たんですけど」とはとても言えなかった。
「なんだー。残念」
言いながら、甘えだした葵を抱き上げ、その尻をポンポンと叩いた。
「新谷さんの子供だったら、男の子でも女の子でもかわいいと思うのになー」
その言葉に微笑む。
「うちの夫はね、実は子供あんまり得意じゃなくて不安がってたんだけど。いざ自分の子供が生まれてみるとメロメロのデレデレで。それはもう笑っちゃうくらい」
「そうなんですね」
由樹は目を細めた。
夫人の幸せそうな顔を見ればわかる。きっと見栄でも誇張でもなく、真実なのだろう。
もし千晶と結婚していたら、今頃千晶もこんな顔をしていたのだろうか。
そして―――。
もし由樹と付き合っていなかったら、篠崎も父親として、自分の子供にメロメロのデレデレになっていたのだろうか。
璃子の大きな瞳がこちらを見る。
その小さな手がこちらに伸びる。
由樹はその柔らかく温かい手に触れた。
「すべすべだ……」
穢れを知らないその小さな手は、由樹の指の感触を確かめるように撫でてから、ギュっと人差し指を握った。
「あ、んで、さっきの続きですけど」
夫人は合わさる指に微笑みながら続けた。
「セゾンを選んだ一番の理由は、新谷さんが一生懸命勧めてくれたからですよ」
「……!ありがとうございます!お世辞でも嬉しいです!」
言うと、
「いや。ホントにぃ!」
そう言って夫人は少し口を尖らせた。
「こんなに誠実そうな青年が、キラキラした目で説明してくれるんだもん!絶対嘘はないなって思って。それに……」
夫人は由樹を正面から見つめた。
「新谷さんは私たちの幸せを考えてくれたから」
夫人が壁を見上げる。
そこには百日祝でお食い初めをする璃子を見守る、夫人の父親の写真があった。
「やっぱり家だけがどんなに素晴らしくてもだめですよね。重要なのはやっぱりそこ住む家族なんだなって」
由樹は璃子の目を見た。
それはなんの曇りもなく、キラキラと輝いていた。
午後は2件の客宅を訪問してきた。
皆一様に「快適だ」と頬を緩めるばかりで、セゾンエスペースの家作りにも対応にも満足しているようだった。
「住んでいる人の幸せ……かあ」
新谷は車をコンビニに停め、ハンドルを握りながら考えた。
そう。家は建てて終わりではない。
そこから新たな人生が始まるのだ。
その中で笑っているお客様を想像できれば、
やはり……。
その時携帯電話が鳴った。
『……お前さ。俺からかける前に報告の電話をしてこいよ。一応上司なんだからさ』
「あ、すみません、もうそんな時間でしたか?」
上司の声に慌てて時計を見ると、一応定時とされている18時を回っていた。
『それで?今日は何軒回れた?』
「3件です!」
『何か掴めたか?』
由樹の声に何か感じたのか、篠崎が間を置いてから聞いた。
「……はい!おそらく!!」
『そうか。ならよかった』
電話口で篠崎が微笑んでいるのがわかる。
「……お客様の家作りを応援するときに、そしてお客様ご家族の幸せをイメージするときに……」
由樹は息を吸い込んでから言った。
「他社なんて、関係ないなって!」
『ぷっ』
電話口で篠崎が吹き出す。
『天賀谷まで行って、結局はそこに行きついたか』
「すみません………でも俺……」
『いやいいよ。それでいい。その“他社は関係ない”ってのを、お前がちゃんと“他社”を勉強したうえで言い切れたなら大したもんだ』
(あ……)
会ってないのに。
篠崎はここにいないのに。
新谷の頭には、あの大きな手が優しく乗せられた気がした。
『明日は何件だ?』
「明日も3件で、明後日が1件です」
『そうか。じゃあ、明後日帰ってくるんだな』
「はい」
言うと、篠崎は長い息をつきながら間をおいていった。
『じゃあ明後日は俺も定時で上がれるように調整するわ』
「本当ですか?」
『ああ』
言った後に、声を一層低くして囁いた。
『……寝かせないから、覚悟しとけよ』
電話を切り、由樹はコンビニの駐車場で一人真っ赤に染まった顔を覆った。
「……あの人、声だけで俺を尊死させられるんじゃないのかな……」
早く会いたい。
会って抱きしめてもらいたい。
田中夫人に会って、葵ちゃんを抱っこして、胸に芽生えた一抹の不安とほんの少しの罪悪感を溶解してもらいたい。
『馬鹿だな…』
そう言って抱きしめてもらえたら、
こんな“馬鹿”なこと、考えなくても済むのに―――。
そのとき携帯電話が再び鳴り響いた。天賀谷展示場からだ。
「はい、新谷です」
出ると、相手は猪尾だった。
『あ、新谷君、ひさしぶりっすー!』
「猪尾さん!そっか、今は天賀谷なんですもんね」
『そっすよー。それより、新谷さんにお客さんです。今、営業誰もいなくてー、対応できず待っててもらってるんですけど』
「お客さん?」
天賀谷展示場を訪ねてくる客などいただろうか。
既存客はみな由樹の携帯番号を知っているし―――。
『えっとね。………マキムラさんて人!』
「……は?」
天賀谷展示場につくと、牧村はリビングのソファにどっかと座り、こちらを見上げた。
「おお、セゾン君。お疲れ!」
「お疲れ!じゃないですよ。なんでいるんですか?」
思わず向かい側のソファに座る。
「なんでって、セゾン君がこっちに出張だって君んとこのスタッフさんに聞いて。俺もこっちに用があったからさー。いるかなーって思って」
言いながら胸ポケットを弄っている。
「これ、忘れないうちに渡しとくわ。借りたから返しておいてくれる?」
「………あ、はい」
由樹はその見覚えのありすぎるジッポライターを受け取った。
牧村がその反応を確かめるように目を細める。
「……なんですか?」
由樹は逆に目を開いて牧村を見つめる。
「いや、“誰のですか?”って聞かないんだなーって思って」
「え?」
「君、喫煙者じゃないでしょ。そのライターが誰のかなんてわかる?」
「………」
言わんとしていることが分かり、由樹は口を噤んだ。
セゾンエスペース八尾首展示場の中では、もはや篠崎と由樹の関係を知らないものはいない。天賀谷展示場でもなんとなく周知しているように見える。
しかし、他メーカーとなると話は別だ。
しかも相手はセゾンエスペースの宿敵ともいえるファミリーシェルター。
ここで変な噂を立てられてしまったら……。
自分は良くてもマネージャーの立場である篠崎に迷惑が掛かる。
「そんな怖い顔しないでよ」
牧村が笑う。
「言いやしないって。付き合ってんでしょ?」
「…………」
少し馬鹿にしたようなものの言い方に真意がつかめず、由樹は一層唇を結んだ。
「安心してよ。俺は別に言いふらす気はないし。もちろん偏見なんかもない。それどころか……」
牧村が膝に肘をつき、向かい側に座る由樹に顔を寄せた。
「俺もゲイだから」
◇◇◇◇◇
「あれ。展示場、電気ついてる」
天賀谷展示場に戻ったマネージャーは、事務所から展示場のドアを薄く開けて呟いた。
「客人?」
唯一事務所にいた猪尾を振り返る。
「ああ、はいっす。新谷君に」
「新谷に客?」
言いながら紫雨がモニターをつける。
「ええ。スーツをバリッと着こなした、えーっと何て言ったかな」
「……ああ。知ってる」
紫雨は表示されたモニターを睨み上げながら言った。
「ムキマラ君ね?」
「ああ、そうです。ムキ………あれ。そんな名前でしたっけ?」
猪尾が振り返ると、すでにそこには紫雨の姿はなかった。
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