第3章 I love you I miss you
side 岡崎 禄
髪を結ぶとき、
いつも固くぎゅっと目を閉じる癖がある。
何かを真剣に考えるとき、
唇をほんの少し尖らせる癖がある。
自分のことを話すときは照れくさそうなのに、人の話になると真剣に目を見てくる。
そういう細かいことを、ひとつずつ思い出せる人がいる。
宮崎彩夏。大学時代の同級生。
──初めて見かけたのは、夏の終わりだった。
学内の中庭に面したベンチに座って、文庫本を読んでいた。
風が強い日で、ページがぱらぱらと捲れるたび、彼女は左手でそれを押さえて、
何度も同じところを読み返してた。
淡いグレーのカーディガン。アイスコーヒー。
足元に置かれたトートバッグの横に、薄く折れた教科書。
そういう細かいものまで、やたらとはっきり覚えてる。
一目惚れだった。
すれ違いざま、ふと顔を上げたそのとき、
目が合った。
それだけのことなのに、息が詰まるほど綺麗だと思った。
向こうは、当然覚えていないと思う。
ただの一瞬。見知らぬ他人と視線が交差しただけ。
それでもこっちは、あの一秒で、なにか決定的に落ちてしまった。
後日、同じゼミだと知ったときは、
わりと本気で神に感謝した。
そんな信心、ないくせに。
彩夏とは少しずつ話すようになって、
名前を呼び合うようになって、
誕生日や好きな食べ物や、
地元の話を知るようになって、
それでもずっと、あの日の第一印象を上書きできないままだった。
ちゃんと気持ちを伝えたこともある。
二年の冬だった。
いつもどおり他愛ない話をして、ふざけて笑わせて。
帰り道が分かれる手前、どうしても言いたくなってしまった。
言葉を探して、喉の奥でぐちゃぐちゃになったまま、無理やり出した気持ちを。
一瞬驚いた表情を浮かべ、でも彩夏は、やわらかく寂しそうに笑って、
「ごめん、ろくちゃんのことは大好きだけど、そういうふうには思えないな」と言った 。
こちらの想いは叶わずあっけなく砕け散った。
それからなぜかまた、普通の友達に戻った。
ぎこちなくなるかと思ったけど、彼女は少しも変わらなくて、
むしろもう彩夏と話すこともないだろうと思っていたこちらが、何度もそれに救われた。
今も。大学を卒業して社会人になってからも。
彩夏とは途切れずに連絡を取り合っている。
たまに電話をしたり、LINEで近況を交わしたり。
でもいちばん多いのは、あいつが彼氏とケンカしたあと、
「話、聞いてくれる?」と、こっちに会いにくる時だ。
それは何の前触れもなく、ふいに通知が鳴る。
深夜のコンビニの帰り道だったり、休日の午後だったり。
たいていは決まって、彼氏と揉めた夜だ。
「ろくちゃん寝てた?」
「ごめんね、ろくちゃん、いま会える?」
ほんとはそんな話聞きたくもないし 、
「それ俺にいうことじゃないよね」って、思わなかった夜なんて一度もない。
けど、なんだかんだ、彩夏のわがままに応えて、
結局。
こっちがうなずいて。
着替えて、会いに行く。
それは駅前のベンチだったり、
ファミレスだったり、カフェだったり、
居酒屋だったり。
なるべく変な気持ち、
親密にならないような場所を選んで
話を聞いてやる。
最初は他愛ない話から始まって、
そのうち、彩夏の男の話になる。
浮気された。
また戻った。
今度こそダメかもしれない。
でもやっぱり、好きなんだよねって。
こっちは適当にうなずきながら、
それでも確信めいたことは何も言わない。
言わないまま、何年も経った。
一度気持ちを伝えた人間が、
いまさら何も言えない。
そう思って飲み込む言葉ばかりが、
どこかに、静かに積もっていく。
ずっと1人でいたわけじゃない、
何人かの女と付き合ったりもした。
友達の紹介だったり、向こうから好意を向けられたり。
そういうものには大抵応えていた。
彩夏をどうにか薄めたくて、
誰かに救われたかったのかもしれない。
でも、ダメだった。
ふとした瞬間に彩夏を思い出してしまう。
たとえば、彼女と食事に出かけた帰りの笑い声の向こうに、ふいに思い出すのは彩夏の顔だったり。
映画の感想を言われても
「これ彩夏が好きそうだな」
ってそっちに頭が飛んだり。
キスをするとき、
ベッドで抱きしめているときにさえ。
完全に隠していたつもりなのに、
もうダダ漏れだったんだと思う。
で、ある日泣きながらこう言われる。
「……ごめん、禄くんってなんか、あたしの事、全然見てないよね」
はい、正解。
それで、まあ、たいていフラれる。
引き止めたり言い訳をしたりする気もなかった。
それでいいと思ってた。
どこかで、そうなる事はわかっていた。
彩夏のことでいっぱいなこの頭の中を、
誰にも知られずにいたかった。
そしてたぶん、そんな自分のままじゃ、
誰とも、ちゃんと続けられないこともわかってた。
諦めたわけじゃない。
でも、手が届かないものがあるってことは、
もう何度もわかってる。
“ちゃんと好きだった”という気持ちを、
そのまま手のひらで温めているような日々。
触れたら壊れる気がして、
壊れるくらいならこのままでいいと思って、
でもほんとうは、壊れるほど近づいてみたかった。
そうやって、彩夏に会えない日々を。
彩夏のことで満たしながら、
今日も、なんでもない顔をして生きてる。