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「なんや、この小汚い男の子の童は」
──逃げている途中、そう言われた。
私は堺の街を土地勘もなく逃げていた。息を切らして迷い込んだのは|環濠《かんごう》の水音が響く、湿っぽい人気がない裏道。
土の濃い匂いと泥水の匂い。鼻が痛かった。思わず顔を顰めながら逃げていたら人にぶつかった。そしてべちゃりと地面に尻餅をついたのだ。
そのぶつかった人に、いきなり「小汚い男の子」と言われて呆気に取られた。
地面から見上げる視線の先には、上等な着物を着た……外国人みたいな男の人。
すらりとした長身に上質な着物を身に付け、金色の長い髪を風に遊ばせていた。
それに翠緑の瞳──すごい綺麗な人。
こくっと喉を鳴らす。
肩に掛けている白牡丹の羽織が天女の羽衣みたい。
遠くで工場の煙がたなびいていて、余計に神秘的に見えた。
「おい。童。ぶつかったら『ごめんなさい』やろ?」
流暢な関西弁にこの人は外国人なのに日本語も喋れるんだ? と思った。
それでもいきなり話し掛けられて、言葉が出て来ない。
童とか言われたけど私は十六歳。名前だって千里と言う立派な名前がある。性別も一応──女だ。
けど今は逃げるために髪の毛をメチャクチャに切って、ザンギリ頭。ボロを纏っているから男の子と間違われても仕方ない。
それよりも目の前に佇むこの人がとても美しく。
翠緑の瞳をじっと見つめ返してしまう。
あぁ、そうだ。私の家にあったグリム童話の絵本に出てくる王子様に似ている。
視線を合わせていると男の人は長い金髪は後ろに一括りにしていて、瞳は切れ長。口元に黒子があるのに気がついた。
そうやってつぶさに見ていたら、男の人は地に這いつくばって泥がついたの私の顎をくいっと、上にあげ「なんか言え」と言った。
その手つきはとても男性らしい手つきだった。
「んっ……」
いきなり首を上に向けられて少し苦しい。
そして私はみすぼらし格好をしているのに、まじまじと至近距離で見つめられて、居心地が悪くて視線を逸らしてしまった。
「この童。泥だらけやけど可愛い顔してるな。ふーん」
じっくりと翠緑の視線に見つめられたあと。
その瞳の視線は、私の後ろへと向けた。
「あぁ、なるほど。そうか分かった。お前、人買いから逃げて来たんやな。そうやろ?」
そう言われてばっと後ろを向くと、私をこの堺の街に連れて来た髭男が顔を真っ赤にして迫っていた。
逃げなきゃ!
ぼうっとしている場合じゃない、私のばかっ!
でも再び足に力を入れるけど散々走り回った足は震えて、一度倒れ込んでしまうと棒みたいに動かなくなっていた。
私はどうにか足を動かそうと焦っているのに、目の前の綺麗な人はゆるりと、私の背後に向かって声を掛けていた。
「おーい。おっさん。この子供はどうせ、お稚児さんとして変態ヒヒジジイに高く売ろうと思ってたんやろ? アコギな商売はいっときは甘くても、いつか廃るで。なぁ?」
その言葉にびっくりして、首を捻って後ろを見ると、はぁはぁと大柄な髭男が私の背後に追いついてしまっていた。思わず身を硬くする。
すると髭男は息を切らしながら、ギロリと睨んできた。まるで獲物を狙った熊みたいな眼光で怖い。
「はぁはぁ……このクソガキ、手間取らせやがって。ホンマ! おい、兄さんっ……って。なんやねんアンタ。その髪の色。カブキモノか? いや、それよりもこのガキを捕まえてくれたのには感謝するけど、こっちにも事情はあるねん。触れてくれるな。それにクソガキの行き先はもう決まってるしな。悪いなァ」
「クソガキか。そりゃええ。僕も欲しい。今、例のお茶会が決まってイライラしていてな。ふふっ。よし、気に入った。百圓出す。その童、僕が貰い受ける」
綺麗な人はパンと手を払ってニコリと笑った。
「えっ……」
──貰い受ける?
な、何を言っているの?
髭男もゴクっと息を呑んで驚いている。それもそうだろう。いきなり百圓を出すなんてどこのお大臣様だ。それとも成金なのか。
私も何かの聞き間違えたかと思った。
とにかく。見た目は良いが中身はキテレツな人のせいでまたもや驚いしてしまい、ポカンとしてしまう。
「なんや。足りんか。じゃあ二百圓や。ほら、受け取りや」
戸惑う私達に綺麗な男の人はばさりと懐から紙幣を惜しみなく。ぱあっと三散のようにばら撒いた。
それはまるで歌舞伎俳優が花道で桜吹雪を纏うぐらいに、圧倒的な光景。
ひらひらと舞う紙幣に、私は夢でもみているのかと思った。
髭男は「か、金だぁ!」と意地汚く散乱した紙幣を掴み始めた。
どうやら私より目の前のお金に興味が傾いたらしい。その方が私も助かる。
「じゃあ、これで交渉成立。このことは秘密。アンタを雇っている人には、このクソガキを逃したと怒られるかも知れんけど、それだけ金があったら充分やろ。はよ逃げや」
「に、兄さん。いえ、あなた様は一体……あっ! 嘘やろ。まさか……その口元の黒子に白牡丹の羽織。金髪の長髪……この堺を牛耳っている納屋衆の頭の一人、|藤井澪《ふじいみお》様ッ……!?」
藤井澪。
これがこの美しい人の名前。ぴったりだと思った。すると藤井様は口元の黒子に手を当てて。
「沈黙は金やで。|堺《僕》を敵に回したくなかったら、早よ消えろ」
ぴしゃりと言い放つと、男はひいっと情けない声を出しながら、お金を抱えて逃げ出したのだった。
髭男の背が遠くなる前に綺麗な人──藤井澪様は「じゃ、行くで」と私に声を掛けてから白い牡丹の羽織を翻して、元来た道を戻り始めた。
訳がわからない。
なんなんだこの人。
髭男がいなくなった今こそ、私は自由だ。
悪いけどこの人からも逃げ出した方がいいと思い、ぐっと足に力を入れた。
ずっと座りこんでいたお陰で、なんとか足は動かせそう。
足元には紙幣がまだ落ちている。これを拾って田舎に帰ろう──と、思った瞬間。
「そうだ。家は全部あいつらにぐちゃぐちゃにされて、無くなったんだ……」
大事にしていた茶道具は持って行かれてしまった。
蔵にある書物も奪われた。
自由になったのに帰るところがない。逃げることに必死でそのあとのことを考えてなかった。
私って本当にばか。
もうあの家で両親を弔いながら、代々引き継いだささやかな土地を耕し。四季折々の風景を見て、お茶会なんてできないのだ。
私は帰る場所もない子供なのだろう。
自由になったからこそ、現実が突きつけらてれしまい。泣きたくなってしまったそのとき。
前を歩く藤井様がぴたりと止まり。こちらを見向きもせずに声を発した。
「別にそこにおるほうが、ええならそうしとけ。けど、お前みたな童はすぐに次の人買いに捕まるだけやで」
「!」
「ま、僕のところに来たらそんな酷い目には合わせへん。ただ……少しばかり、僕の言うことは聞いて貰うけどな」
ようやくそこで藤井様は見返り美人みたいに、ゆっくりと振り向くと金髪をさらりと光らせた。
その艶っぽい動きにドキッととした。
「──い、行きます。ちょっと足が痛かっただけです」
これも一期一会。どうせ行くあても無い。この人には何か企みがありそうだけど、堺の商人と言うところに興味を持ってしまった。
しかも納屋衆と言ったら市政にも関与する豪商。大爺様の縁も感じて、人攫いより信用は出来るだろうと思った。
「じゃ、早よ着いておいで」
言葉と髪を軽やかに流して藤井様はサクサクと歩き始めた。私はこっそりと下に落ちていた紙幣を何枚か回収して、後を追うのだった。
藤井様は裏道をなんの迷いもなく、颯爽と歩いていく。
陽が落ちてもさすが堺の街はガス灯に明かりがついていて、裏道でも明るかった。
時折、表通りに通じる道の先にチンチン電車や看板、ビルディングの光などが見え隠れして、都会の華やかさが気になり。思わずふと立ち止まってしまった。
「凄い……自動車があんなに。洋服を着ている人までいる。確か、ああ言うのをもが……モダンガールって言うんだよね」
私とは雲泥の差だ。
それでも万華鏡のように、きらめいている景色に綺麗だと思っていると。
「何をモダモダ言ってんねん。さっさと歩き」
前を歩く藤井様に咎められてしまった。
「すみません。堺の街がとても鮮やかで、洋装の人が麗しいと思って……」
「えらい詩歌めいた表現やな。ってか、洋装なんか日本人に合わん。身の丈に合わんことをするほど恥ずかしいモノはないで」
藤井様はフンっと誰かに向けて言うように言葉を吐き捨てた。
なにか洋装に思いあたることがあるのかなと思った。
「そうですか。でも……藤井様は洋装がとてもお似合いになりそうでね」
すると藤井様は、はぁと深いため息をはいて私にズンズンと近寄り、私の鼻をきゅっと摘んだ。
「!?」
「坊主。僕におべっか使うなんて生意気やな。そんな安い言葉で僕がお前を見逃すと思ったか?」
そうじゃないと、首をブンブン横にふると手が離れて行った。
涙目で鼻先を庇うと、近くに藤井様のお顔があった。翠緑の瞳はこの夜景の中でも一番光を宿していた。
しかし、顔は不機嫌そのもの。
「次、ふざけたことを言うと堺港から海に捨てるからな。よそ見せずに黙ってついて来い。ええな?」
こくこくと何度も頷くと藤井様は白牡丹の羽織をはためかせて、再び前を歩き始めた。
私はそれから黙って白い羽織と。
夜空に浮かぶ、きら星みたいに光る藤井様の髪を見失わないように。前だけを向いて歩いて行くのだった。
そうして辿り着いたのは、随分と落ち着いた雰囲気漂う立派な日本家屋前。
広い道幅に整理された道。近くには電柱まであった。周りの立派な家の並びや門構えを見て、ここは裕福な居住地だと思った。
ここならアイツら。
──家に突然押し入ってきた『桐紋』を着物に背負った人達もおいそれと来ないだろう。
あの人達は突然私の家に訪れ。いきなり『着いて来い』と言ったのだ。
それで着いて行く人なんかいない。当然のように拒否したら、次の日には家のものを全て奪われた。
桐紋には心当たりがあった。でも関係があったのは大爺様の時代。今の私には関係ない。だからとても理不尽だと思った。
しかも家を荒らしたのは桐紋の人達じゃなくて、先ほどの髭男とか。粗野な人達だった。とても怖かった。
そうして私は宇治の山奥から京都に連れ出され、訳も分からず電車に乗せられて、堺の街に連れて来られた。
駅から車へとまた押し込まれそうになり。
このままじゃ何をされるか分かったもんじゃないと、隙を見てその辺に捨ててあったガラス片で髪を切り。塵箱から古着を拾って髭男から逃げ出してきたのだった。
そう思うと、随分遠いところまで来たと疲労感が体にずしりとのし掛かった。
「なにをぼうっとしている。取って食わんから、家に入れ」
藤井様はするりと門を開けて、日本家屋の敷地へと入って行く。
「っ、すみません」
疲れた体にもうひと頑張りだと檄を飛ばし。
小さくお邪魔しますと行って中に入ると、立派なお庭付きの家にびっくりする。
この門から奥へと家に続く綺麗な石畳みが伸びていて、そのまま藤井様は玄関に行くと思いきや。
「こっちや」と、庭の方へと歩き出した。
向かった先は庭。
庭師が剪定したであろう木々に。屋根が付いている井戸。しかも井戸用ポンプが設置されていた。
井戸周りには水捌けも整えられていて美観も美しい庭だった。
私の住んでいた家にもこんなのがあったらよかったのにと、思っていると。
藤井様がぴっと井戸を指差した。
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