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琴子は消毒の匂いと朝食の匂いが入り交じる市立病院の廊下を歩いていた。
急いで向かった甲斐もなく、昨夜は杉本鞠江に会えなかった。
アパートの前で夜中まで待ち、今朝も朝早く訪ねたが、いなかった。
勤め先の銀行に電話してみたが、急な不幸が入ったので二、三日休暇がほしいと彼女から直接連絡が入ったらしい。
もどかしい。彼女に会えば何かわかるかもしれないのに。
思考が右往左往していると、狭間から連絡があった。壱道の体調もほぼ回復したので、退院後の捜査方針を、彼も含めて病室で話し合おうと言うことだった。
待合室にはすでに狭間と浜田、小國が待っていた。
「おはようございます」
「ああ」
浜田がなぜかひきつった顔で応じる。
「その後、横山は何か話しました?」
「いやあ、新しいことは何も。言い訳ばかりで殺意を否定することでいっぱいいっぱいな感じかな」
昨日の取調室での琴子の態度を引きずっているのか、妙によそよそしい。
「そういう君は」小國が口を開く。
「昨日の夕方から何をしていた」
「ーーー櫻井の周辺を当たっていました」
「成果は」
「今のところありません」
浜田だけではない。異常なほど雰囲気が重い。
狭間が立ち上がる。
「ともかく病室に行こう。話はそれからだ」
連なって病院内を移動する。やはり何か様子がおかしい。
病室のある五階に着くと、東に向けてあるき出した。
病院内は朝だというのに、見舞客や病院関係者で溢れかえっている。
琴子は立ち止まった。
今しがたすれ違った男に何か感じたのだ。
振り返る。
黒いジャンバーのフードをかぶった男。向こうもなにか感じたのか立ち止まっている。
男が振り返る。耳まで裂けた赤い口、黒塗りされた目、黄色い鼻。
「ーーーピエロです!」
叫ぶが早いか、琴子が掴みかかる。
男はマスクを被ったまま、器用にそれを交わすと、ものすごい勢いで走り出した。
夢中で追う。
だがどんどん距離が離れていく。早い。
エレベーターに滑り込んだときには、三十メートルほど距離が空いていた。
間に合わない。
振り返ったピエロが両手を馬鹿にするように振る。
扉が閉まる。
琴子は脇の階段をあ駆け下りる。
一階についたがピエロはいない。
エレベーターを見る。
二階で停まっている。
遅れて他の刑事も息を切らしながら辺りを見回す。
「どっちに行った」
「階段に検問を敷く。応援と病院に連絡しろ」
「小國と浜田は二階を探せ」
「いや、二階で降りたとは限らないのでは?もっと上の階かもしれません」
「待って下さい」浅倉が叫ぶ。
「ピエロは何をしに?」
ーーー壱道さん!
琴子は階段を駆け上がった。
廊下は騒然としていた。右往左往する関係者。病室に飛び込むと、そこはもぬけの殻だった。
看護師の一人が床についた血液を拭き取っている。
「成瀬さんは!」
「誰かに刺されたそうで、今、治療室に入っています」
拭き終わるとそそくさと病室を出ていってしまった。
誰もいなくなった部屋で琴子は一人呆然と立ち尽くした。
「なぜ壱道さんに護衛を付けていないんですか」
それは、幸いにも壱道が軽傷で済み、不幸にもピエロを取り逃がしたどころか足取りさえつかめていない状況を確認し合ったロビーで琴子が発した言葉だ。
「昨日一日は警官を配置してたが、今日はこれから俺たちが来るからってさっき帰らせた」
狭間がきまり悪そうに答える。呆れて物が言えない。
「道に検問は敷いてるんですか」
「顔や正体がわからない以上、検問を準備してもな」
「じゃあどうやって捕まえるつもりですか。また壱道さんが襲われるのを待つんですか?」
黙る。
本当にこの男は捜査一課の課長なのか。我慢の限界だった。
「狭間課長。お言葉ですが、あなたは櫻井の殺害現場に行ったのに、殺しだと見抜けなかった。知らなかったとは言え、部下を三度も命の危険にさらした。目の前で犯人を取り逃がした」
「何が言いたい」
狭間の声色が変わる。
「あなたの判断と指示は的確ですか」
狭間は黙った。
他の刑事も琴子も黙る。
弁明できるならしてみろ。
しかし狭間は全く別の方向からせめてきた。
「木下さん、櫻井の事件から外すから」
「それが質問の答えですか」
「勘違いするな。これは今朝から決まっていたことだ」
「どうしてですか」
「自分でわからないか?君は昨日、取り調べを投げ出して、一人で出ていったそうだな。それで何の連絡もせず、そのまま帰ったそうじゃないか」
「違います。あれは、ちょっと話を聞いてみようと思い付いた人物がいたのでーーー」
「単独では、捜査も聞き取りも禁止されている」
言葉につまる。
「……壱道さんは何と言ってるんですか」
「成瀬の言うことは聞くのに、俺の言うことは聞けないのか。上司は俺だぞ」
それに残念ながら、とやけに勿体ぶってから狭間が言い放った。
「君を外してほしいと言ってきたのは、他でもない成瀬本人だ」
後頭部を鈍器で殴られたような衝撃が走る。
「今朝あいつから直々に申し出があった」
壱道さんが、私を外した?
「その意味を考えながら、自宅待機だ。いいか、これは命令だ。守れない場合は然るべき処分を検討する」
刑事たちが散っていく。
浅倉が何か言おうとしたが、そのまま踵を返し行ってしまった。
ふらつく足取りで階段を登る。
病室に入る。
ハンガーに掛けられたスーツ、紙袋に入った荷物がそのまま置いてある。壱道はまだ戻ってきていなかった。
なぜ急に琴子を捜査から外したのか。
一昨日のピエロとの攻防戦で、冷静に対処できなかったので失望されたのか。
女々しくも落ち込んで、面倒臭くなったのか。
横山を前に冷静さを失った琴子に失望したのか。
ポロポロと涙が頬を伝う。
滲んだ景色に鮮やかなオレンジ色が映る。
「これは」
涙を拭ってよくよく見ると、紙袋の中に見覚えのあるオレンジ色のファイルが入っていた。涙を拭いながら背表紙を見ると、几帳面な字で題目が書いてある。
捜査一課のロッカーにずらりと並んでいた西塔のファイルだ。
なぜここに。
パラパラと捲る。
ん。待てよ。
ファイルを捲る琴子の手が止まる。
ーーー確か櫻井って。
この上なく嫌な想像が浮かぶ。
笑い飛ばしたいくらいひどい課程だったが、それを軸に考えると、足りなかったピースがみるみる埋まっていく。
途切れ、こんがらがった事件の糸が、ほどけて繋がり、一本の線としてピンと張る。
手からファイルが滑り落ちる。
誰もいない病室の真ん中で、琴子は一人、膝から崩れ落ちた。