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慌ててカップを準備しながらため息をついていると、接客を終えた渡辺が事務所に戻ってきた。
「お、いつの間に客人が!」
上機嫌で笑いながらモニターの音量を上げる。
「今お住いの場所は賃貸ですか?」
「はい、アパートでー」
「お、資金の話だね」
渡辺は冷蔵庫からコーラを取り出しながら見上げた。
「リビングとか性能の話の前に、しょっぱなから金の話するなんて驚きました」
由樹もドリップコーヒーの袋を開けながら見上げた。
「なんで?客が金の話してきたんでしょ?それならいいじゃん。金が一番気になってんだから」
「…………」
「どっかで金の話は必須だろうしね。タイミングはある程度相手に任せるとしても」
言いながら渡辺は半分まで飲んだコーラを冷蔵庫に戻した。
「接客にテンプレなんてないんだから。客に合わせて、でしょ、すべては」
(奥が深いな)
由樹は盆を出しながらまた見上げた。
「それに、篠崎さん、奥さんが明らかに熱い視線送ってきてるのに、ご主人に遠慮なんてしませんでしたよ。それなのに、ご主人もへそを曲げたりしないで、大人しく話を聞いてるのは、なんででしょうかね」
渡辺は笑った。
「そんなの、単純明快。夫さえも、惚れさせてるからでしょ」
「……え」
「あれだよ、芸能人と同じ感覚。夫婦で一人の男優のファン、みたいな。始めから同じ土俵に立ってないんだよ、あの人の場合」
ディスプレイに映る夫の顔を見る。篠崎を認め、少し緊張したように、頷きながら一生懸命に聞いている。
「ま、惚れるの意味が、違うだろうけどね、君とは」
驚いて振り返ると、
「はは、冗談、冗談。どーれ、完成現場見学会のアポ取れちゃったから準備しよっと」
渡辺は笑いながら席に戻っていく。
身振り手振りを加えながら二人に話して聞かせる篠崎を再度見上げた。
(俺に、できる気がしないんですけど……)
ドリップコーヒーにポットのお湯を注ぎながら、由樹は大きなため息をついた。
たっぷり120分、夫婦は住宅ローンの仮審査から、土地の希望から、間取りのイメージまで、全て篠崎に託して帰っていった。
「……これ、もうご成約なのでは?」
客を見送った篠崎の代わりに、スリッパを片付けながら由樹は遠い目をした。
「勤め先も悪くない。夫婦の合算年収700万円だし若いから、そこそこの家は建つんじゃねえか」
篠崎はサンダルを脱ぎながら由樹に寄った。
「感想は」
「俺にできる気がしません」
由樹ははっきりと言い放った。
その魂が抜けた顔を見て篠崎が吹き出す。
「お前な。諦めんの早すぎだろ」
「だって。俺なんて、見た目、高校生だし、相手にされないし、話も視線も刺さらないし、説得力もなければ知識もなくて…」
いくらでも弱音が出てきそうな唇を篠崎の大きな手が塞いだ。
「わかったわかった。言いたいことは!」
篠崎が呆れたように笑う。
「今列挙したのも、もちろんお前の弱みだ。どう改善するかは自分で考えろ。しかし根本的なところだけは教えておくぞ」
手が由樹の口から離れる。
「お前はどういう家づくりをしたいんだ」
「……幸せが、実現できる家です」
「幸せとは具体的には」
「それは……」
由樹は頭を整理してから言葉を続けた。
「先ほど篠崎さんがおっしゃったとおり、光熱費やメンテナンスなどの維持費がかからなくて、地震などの災害にも強くて安心して過ごせ……」
「ストップ。それは一般論だろ」
篠崎の視線が由樹に注がれる。
「客が家に求めること。お前の言葉を借りるなら“幸せ”は個々に違う。
家族が一つに繋がれる家が良い、ばあちゃんの介護がしやすい家がいい、日当たりが悪い土地だけど、明るく陽の入る家を建てたい、孫たちがいつでも泊まりに来られる家にしたい。
客は、この展示場に、何かの夢を持ってきている。
そこを聞かないで、いきなりセゾンの性能の話をしたって刺さらない」
(……確かに)
「あとは金についてだけど。前にも話したと思うが、家というのは個人で買うには、一生で一番高い買い物だ。金の心配がない奴なんていない。
だから客から金の話が出たら、そこをとことん聞いてやるんだ。
セゾンは高い。俺たちも客も知っている。だから営業はこの話題から逃げようとする。だが、そうじゃない。そこから逃げたんじゃ、家は建たない。高いと言いきった上でなぜ高いかを説明すれば、客は納得する」
(……確かに!)
「性能の話、特徴の話は、言ってしまえば最後でいい。客の夢と、不安を、聞き切ってからでいい。じゃないと、同じ方向を向けないだろ?」
「……同じ方向?」
篠崎は軽く息をついた。
「家作りは対面じゃない」
言いながら由樹の腕を引っ張り、自分の横に並ばせる。
「同じ方向を見て、やるんだ。客も、営業も、設計も、工事課も」
……同じ方向…。
「全員の視線の先にあるものは……もうわかるな?」
口の端を上げながら見下ろす。
「お客様の幸せ、です」
「正解」
篠崎は微笑んだ。
(……もう、だめだ)
由樹は溢れるものを抑えきれずに、篠崎をただ見上げた。
「おい。何で泣く」
「すみませ……なんか、感動して……」
「アホか」
大きい手が由樹の顔を隠すように抑えながら、頭を撫でる。
「………もし、俺、クビになったとしても、あなたから家を買いたい」
篠崎が吹き出す。
「馬鹿。そうならないために今必死に教えてんだろうが」
頭をクシャクシャと撫でられる。
「まあ、展示場デビューは早かったな。わかってはいるんだけど、ちょっと理由があってな」
「理由……?」
「実は、時庭展示場からセゾン撤退の話が出てな。ある程度の成績を展示場として残さないとだめなんだと」
支部長と話していたのは、そのことか。
「だからお前にも即戦力になってもらう必要があったんだが。どう考えても早かったな」
展示場の外に客の気配を感じて篠崎が姿勢を正した。
「指導はやはり継続する。だが、知識習得はもうしまいだ。接客だろうが、打ち合わせだろうが、引き渡しだろうが、全部俺に同行しろ」
(全部………?)
夢のような提案に涙が止まる。
(……待って。すごい。殺し文句…)
由樹は信じられない思いで篠崎を見上げた。
(しかも無理やりキスまでして、く、咥えようとまでしたのに、それを引かずにここまで面倒みてくれるなんて…)
「あの……」
(もしかしてこれ、期待していいんじゃねえの…?)
「どうして昨日、俺のこと、助けてくれたんですか…」
「は?そりゃあ」
今なら、篠崎から信じられない甘い言葉が聞ける気がして、由樹は瞳を輝かせた。
「決まってんだろ。それは、お前がここでゲイに戻っちまったら、千晶ちゃんに悪いから、だろ」
「………」
「せっかく掴みかけてる“普通の幸せ”ってのを台無しにしたくないだろ?」
「…………」
黙った由樹に、篠崎が首を傾げる。
「おい、お前まさか、紫雨に変なことされて、また男もいいかななんて思ってねぇだろうな」
「……いえ、大丈夫です」
「危ねぇな。お前はホント、綱渡りのピエロみたいな奴だよ」
篠崎が笑う。
「落ちたら地獄だぞ。ちゃんと渡り切って、千晶ちゃんのこと幸せにしてやれよ」
自動ドアが開く。
「いらっしゃいませ」
篠崎が由樹の脇を抜ける。
由樹は物陰に隠れながら、ため息をついた。
(……篠崎さん、すみません。俺もう、とっくに落ちてるみたいです……)