ユカリは覚悟を決めて焼け焦げた街の方へと歩いていく。滅びた街を慰めようと川風が吹き込み、湿り気を帯びた焦げた臭いが漂っている。夜の帳に覆われたかのように真っ黒な残骸の敷き詰められた大地をさざなみ揺れる黄金の川面が縁取っている。その岸辺に揺れていた運航船は船旅を祈る合図のように輝かしい白い帆を張って、不幸を帯びた陸から離れて行った。
集団が船から降りている。数はノンネットの率いる加護官たちと変わらない二十から三十人だ。そして、朝日に煌めく大河を背景に、まるで死の使いのような黒い衣を身に纏っている。それが炭の街へと入ってくると、その姿は溶けて消えてしまっているかのように見える。
彼らに気づいた時点でユカリの歩調は少し緩やかになる。
「また焚書官だ」とグリュエーが言った。
「また?」
「魔女の牢獄でも出会ったよ」
「ああ、そうだね。鉄仮面もつけてる。間違いない」
「グラタードかも?」
「かもしれないけど、彼が率いていた焚書官たちがもう回復したとは考えにくいかな。第三局とやらがどれくらいの規模か知らないけど」
チェスタが率いていた第二局の焚書官はオンギ村へ来た時点では二十人にも満たなかったはずだとユカリは思い返す。その後、ヘイヴィル市へとやってきた時は三倍以上の人員がいたはずだ。一つの部局がさらにいくつかの部隊に分かれているということかもしれない。
ユカリは続ける。「だとすれば補充されていてもおかしくないのかな。いうなれば首席が率いる本隊なわけだし。でもグラタードさんの時は魔導書の気配を感じなかったんだよね」
ユカリが近づいてきていることに相手方も気づいたようだった。
「とりあえず無害な旅人に徹するのが一番だよね」ユカリは囁く。「まずは目的を探って、それで」
「でも今ユカリは焚書官だよ?」とグリュエーは囁いた。
「何言ってるの、それはノンネットと対立しないための方便で……。あ、そうだった」
今、目の前にいる焚書官たちがこのまま城砦へ向かえば、ほどなくユカリがノンネットについた嘘がばれてしまう。その目的が何であるにせよ、救済機構の僧侶だと嘘をついて警戒されないわけもなく、下手したら捕まえられて取り調べられてしまうかもしれない。ユカリは背中に冷や汗が流れるのを感じる。
「ど、ど、どうしよう?」
「臨機応変に頑張って」とグリュエーに突き放される。
焚書官たちと対面して、現状では考えられる限り最悪の出会いだとユカリは気づく。
鉄仮面の集団の中から進み出た人物は角の燃える山羊の鉄仮面をかぶっていた。かつてはチェスタがかぶっていたものだ。ユカリはノンネットの言葉を思い出す。つまり目の前の彼こそがチェスタの後継であり、最年少の首席焚書官であり、生家を焼いた第二局を新たに率いる人物だ。あるいはこの少年もあの場にいたのかもしれない。
その山羊の仮面がチェスタから受け継いだ物なのかは分からないが、意匠は完全に同じだ。仮面に顔の上半分が隠されてはいるがまだ少年と言える年齢だと分かる。
そしてユカリは、護女ノンネットや加護官たちに対して、この人物に成りすましている状況だった。
慌てて、しかし落ち着いて、まるで寒さから逃れるようなふりをして、炎のように赤い布飾りの被り物を引っ張り下げて俯き、ユカリはおそるおそる近づいていく。
「これはこれは、どなたかは存じませんが、聖女会の護女様ではありませんか」首席焚書官の声は時を告げる喇叭のようであり、まだ声変わりの途上にあるようだった。「いったいぜんたいお供も連れず、どういった御用向きでこのような戦場跡へいらしたのでしょうね? 私の知る限り、護女様は常に加護官をお連れとのことですが、姿も形もない」
「グリュエーがいるけど」という風の音はユカリにだけ聞こえた。
「さすが首席」と焚書官の誰かが言った。「慧眼です」
それほどのことだろうか、という疑問を挟むほどユカリは軽率ではない。
とりあえずオンギ村の狩人の娘だと、生まれ故郷を逃げ出して義父を求めて彷徨っているはずの娘だと、誰にもばれずに済んだようだ。彼らがあの時にあの場にいたのかどうかは、鉄仮面のせいで分からない。
そして彼らの囁きが聞こえてくる。「護女にしてはでかくないか?」「あくまで目安だと聞いたことはあるが」「いやそれにしても」
ユカリは囁きを払い除けるように咳払いし、魔法の歌をうたう時のように、少し低めの声で答える。
「拙僧どもはこの地にて故郷を守るため勇敢に戦った戦士たちの傷を、また彼らに降りかかった病を癒しているのです」何とかノンネットっぽく敵対的に聞こえないように話そうと苦心する。「皆さんはどういった御用ですか? 何かお手伝いできることがあればいいのですが。ご覧の通り、この街は無残にも焼き尽くされてしまい、焚書する余地はないかもしれませんが」
少年首席焚書官は首を傾けて城塞の方を見やる。
「あそこにいるのは傷病人だけということですね?」
「どうだ? どうなんだ?」と脇に控えた焚書官が言った。
ユカリはいかにも神妙に見えるように頷いて答える。「はい。加護官たちと街の生き残った方々で何とか医療活動を行っております」
焚書官の一人が早口で言う。「お見事。名推理です、首席」
「なるほど。それに関しては我々もお手伝いできそうにありません」少年首席焚書官は本当に残念そうに言った。「ですが我々は常に魔導書の厄災に怯える無辜の信徒のために働いております。この焼野原にも痕跡があるかもしれませんからね。調査するまでですよ。聖女会の護女様に我々を止める権限や理由はありませんよね?」
背後で焚書官が付け加える。「ありえない。首席を阻めるわけがない」
このデノクの街に魔導書があるという噂でもあったのだろうか。だとしてもそれは今、合切袋の中に入っているのだが。
「もちろんありません。とはいえ同じく人々の救済を願う者同士。授かった務めは別物ですが助け合えることもあるでしょう。その時にはまず私を尋ねてください。決して他の加護官に、話しかけたり、じゃなくて、その、つまり、まずは組織の長同士で話すべきでしょうから」
少年は仮面の向こうでじっと値踏みするようにユカリを見つめる。そしてようやく、そのまだ幼さの残る口元に微笑みが浮かぶ。
「それもそうですね。まずは、私たちは私たちの、貴方がたは貴方がたの仕事をするまでです。私の名前は一。貴女は?」
「エイカです。どうぞお見知りおきください」
その瞬間、焚書官たちがざわつき始める。舌打ちが聞こえ、小さく悪態をついているのが聞こえる。
友好を保つうえで何か間違ってしまったことは確かだ。
「我々には護女の実り名を名乗れないと、そういうことですか」サイスが悲し気に呟く。「まあ、いいでしょう。いずれ第八の聖女に選ばれる、かもしれないお方だ。下賤な焚書官に名乗る名など持ち合わせておりますまい」
何かとんでもなく侮蔑的なことをしてしまったらしいことはユカリにも分かった。実り名とやらが何なのか分からない。虚ろ名とはまた別なのだろう。こういうしくじりを助けてくれる人は今そばにいない。
サイスは焚書官たちに向き直る。
「さあ、我々は我々の勤めを果たすまでです。街の調査を始めましょう」
ユカリに対する怒りのためか、焚書官たちは声を合わせて大いに鼓舞し合った。
「そういえば」とサイスがユカリを呼び止める。「護女には身長、体重に規定がありませんでしたか? 言いにくいですが貴女は」
「でかすぎる」と後方の焚書官が言った。
「控えろ」サイスが部下を叱る。「あまりに失礼な物言いだ」
叱られた焚書官が別の焚書官にどこかへ連れて行かれる。
「あれはあくまで推奨規定なので」とノンネットが言っていた言葉を何とか思い出してユカリは答えた。
「ああ、そうでしたか。無知を晒して恥ずかしいばかりです。申し訳ない」そう言うと、サイスも他の焚書官たちも仕事へと戻っていった。
もはやユカリに目をくれる者はいないと思いきや、一人だけ女性の焚書官がユカリの方を見ていた。鉄仮面をつけているので確信は持てないが、見覚えがある。それは見えない蛇を操るルキーナと名乗った焚書官のようだった。
まさか勘づいたのか、と焦ってユカリは被り物をさらに目深にかぶる。
しかしルキーナらしき焚書官はそのまま他の焚書官たちと同様に瓦礫の調査を始めるようだった。
とりあえず砦にやってくることはなさそうだ、と安心し、ユカリは再び焼け焦げた街を戻る。何を調べているのか知らないが、これだけの街を全て調べ上げるのにどれくらいの時間がかかるのだろう。
ユカリは砦の近くまで戻ってきて、ふと道の端で少年が一人で泥をこねて遊んでいる姿を見つける。砦へたどり着いたばかりの時に話した少年だ。
ユカリはそばへ行って屈みこむ。
「ね? どうしたの? 一人なの?」
少年は泥団子を捏ねくるをやめはしないが、ユカリの問いに答える。
「ううん。違うよ。みんなと一緒だよ」
「みんなって?」
ユカリは念のために辺りを見回すが他に子供の姿などない。
「えーっと、友達かな。仲間って言った方がいいかな」と少年は言う。
「どこにいるの? そのお友達」
「どこって砦だよ。決まってるでしょ」
子供が丘の上の砦を見上げ、ユカリも釣られて見上げる。無傷の城砦が雲の少ない青空の中に浮かんでいる。
ユカリがここ数日で気づいたところでは、子供の怪我人は少なかったが、病人は大人たちと同様の割合でいるようだった。しかしそもそも他の街に縁者のいる健康な子供はすでにここを立ち去っていたので、何らかの理由で身内の全てが砦を離れられない子供だけが残っているというわけだ。
「遊ぶにしても砦を離れない方が良いよ。恐ろしい人攫いか……」お化け、と言おうとしたが言葉にする前に不適切だと気づいてとどまった。「何か危険な者がいるかもしれないからね」
そう言ってユカリは手を差し出すと子供は泥団子を置き、素直にユカリの手を取った。
二人して砦へ、丘を歩いて戻る。
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