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とくめい
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kurara
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一歩踏み出すたびに、背後に残した光が遠ざかっていく。
振り返ってはいけない。
あそこは、僕が行っていい場所じゃない。
再び闇へと消えていこうとした、その時。
「元貴…?」
夜の静寂を切り裂いて、聞き覚えのある声が届いた。
心臓が跳ね上がる。
振り向きかけた瞬間に、それが誰の声なのか確信して、慌てて袖で顔を拭った。涙の跡を、必死に服に擦り付けるようにして隠す。
一度大きく息を吐き、感情を殺してから振り返ると、街灯の向こうから藤澤が走ってくるのが見えた。両手にはスーパーの買い物袋を下げていて、中に入った牛乳パックや野菜が走る振動で音を立てている。
「こんな時間になにしてるの、もう八時だよ」
藤澤は元貴の目の前で足を止め、視線を合わせようと少し屈む。
「……別に。今から帰るとこ」
元貴はわざとぶっきらぼうに答え、視線を斜め下の地面に落とした。
本当は、心臓が痛いほど脈打っている。あんなに消えたいと思っていたのに、名前を呼ばれた瞬間、堪らなく嬉しくなった。けれど、今の自分はあまりにもボロボロだ。その惨めさを悟られたくなくて、声は自然と棘を帯びる。
「えぇ…?こんな時間に?遅いね、クラブ?」
藤澤が心配そうに元貴を覗き込む。
「……うん。まあ。そんなとこ」
咄嗟についた嘘が、チクリと胸を刺す。
クラブ活動なんてやっていない。そもそも、学校に居場所さえないのに。
「そっか。お疲れ様。頑張ってるんだね」
藤澤がふわりと、昨日と変わらない穏やかな笑みを浮かべた。その無垢な信頼が、元貴の心を刺す。
嘘をついた。先生を騙した。
罪悪感から目が泳ぐ。弁解しようと口を開きかけたが、また閉じてしまった。
藤澤は、少しだけ笑みを消し、元貴の全身をチラリと見た。街灯の光の下で、腫れ上がった額や、ボサボサの髪、そして汚れの目立つ服が露わになる。そして何かを察したように少しの間黙り込んだが、あえてそこには触れなかった。
「……もう暗いし、送ってくよ」
「は? いらない。一人で帰れるし」
「門限、超えてるでしょ?園に連絡はしたの?」
「…………」
痛いところを突かれ、元貴は黙り込む。今は大騒ぎになっているか、あるいは見捨てられて捜索すらされていないかのどちらかだろう。
「俺の手伝いしてもらってたって言えば、怒られないよ。…ね、一緒に帰ろう?」
藤澤の口から出た「一緒に帰ろう」という言葉が、元貴の鼓動を強く打った。
かつて、あおぞらこども園で藤澤と共に過ごしていた頃。周りと馴染めなくて、施設から飛び出したあの日。外でトラブルを起こして藤澤が呼び出されたあの日も。藤澤はいつもそう言って手を差し伸べてくれた。
あの時と同じ、手の温もり。
今、この冷たい夜の空気の中で、その記憶が鮮明に蘇り、元貴の視界を急激に滲ませていく。
(……やばい、また…)
必死に堪えようと、慌てて下を向いて誤魔化した。ボロボロの靴の先を見つめ、鼻の奥をツンと突く痛みに耐える。
「……わかった」
数秒の沈黙の後、元貴は「仕方なく」というニュアンスを精一杯込めて、小さく頷いた。
「よし。じゃあ、これ。一つ持ってくれる?」
藤澤はそう言って、買い物袋の一つを元貴に差し出した。
「……重い」
「ごめんごめん。ちょっと買いすぎちゃった」
元貴は不満げに呟きながらも、しっかりと袋を受け取る。片手でビニール袋を握りしめ、俯いた。
心配してくれているのは、嫌でもわかった。
もう小学五年生。大人の言葉を素直に受けとって喜べる年齢は過ぎた。 けれど、心配されているのを分かった上でも「ありがとう」なんて言えなかった。
弱みを見せたくない、慰められたくない。そうしてしまったら、きっと泣いてしまうから。
元貴は視線を地面に縫い付けたまま、必死に瞬きを繰り返した。
一人で歩いていた時はあんなに冷たくて怖かった夜道が、藤澤と歩いているだけで、少しずつ色彩を取り戻していくように気持ちが落ち着いていることに気づく。
きっと、涼先生は先生だから声をかけてくれただけ。絶対そうに決まっている。けれど。
先生に会えたことが、心配してくれたことが、気づいてくれたことが、堪らなく嬉しかった。
睫毛の先に溜まった熱い雫が、今にも重力に負けて零れ落ちそうになる。ここで泣いたらすべてを白状してしまうことになる気がして必死に耐える。
(泣かない。絶対泣くもんか、)
唇を噛み締め、奥歯を鳴らす。だが、そんな張り詰めた心に、頭上から穏やかな声が降ってきた。
「もとき」
その響きには、これまでの人生で聞いたどんな言葉よりも深い慈愛がこもっていた。元貴の背負っている闇をすべて包み込もうとするような、あまりに優しい声。
元貴は目線を下に落としたまま、喉の奥から絞り出すような硬い声で答えた。
「……なに」
「あのね、この前伝え忘れてたことなんだけど。決めた曜日以外でも、来ていいんだからね」
「……なに突然」
虚を突かれた元貴は、思わず視線を藤澤へ向けた。
「いま思い出しただけ。忘れないうちに言っとこうと思って」
藤澤はふわりと、夜風に溶けるような笑みを浮かべた。
それが嘘であることは、元貴にだってすぐに分かった。自分がなぜ約束の日でもないのに、あの建物の前にいたのか、藤澤にはお見通しなのだろう。
元貴が「約束」という名目でないと一歩踏み出せないことも、不安な時は周りから不機嫌に見えてしまうくらい尖った口調になることも。
藤澤はそれらを知っている上で、あえて「たった今思い出した」という下手な芝居を打ち、逃げ道を作ってくれている。
「……あっそ。でも僕、忙しいから。あんま来ないと思うけど」
元貴は顔を背け、精一杯の強がりを吐き捨てた。
声が震えないように、冷たく、突き放すような口調を選んだ。今の自分にはそれしかできない。
「そっか。最近の小学生は忙しいもんねぇ」
藤澤は元貴のトゲのある言葉を、真綿で包むように優しく受け流した。そして、歩調をさらにゆっくりと緩めて、語りかける。
「暇つぶしでも、なんでもいいからさ。フラッと来てね。俺、元貴に会えたらすっごい嬉しいから」
真っ直ぐな、一点の曇りもない笑顔だった。
「助けてあげたい」という義務感ではなく、ただ一人の人間としての温かい気持ち。
(嬉しい……?そんなわけあるか、)
そんな優しい言葉にも、元貴は悲しくも疑ってかかってしまう。こんな自分に会ってなんの意味があるのだ、と本気で思っていた。
僕みたいな、嘘つきで、汚いガキに会って、嬉しいなんて。先生だから、面倒なことになったら困るから、そんなこと言ってるんでしょ。僕、騙されないからね。
元貴は、その言葉を真っ直ぐ受け止めることができず、乱暴に目を逸らした。
「……あっそ」
もう一度、そっけない返事を返すのが精一杯だった。
けれど、目の奥はじんわりと熱い熱を帯び、胸の奥底で固まっていた冷たい氷が、光に当てられ、音を立てて溶け始めている。
二人の影が、街灯に照らされて長く伸びては縮む。
ビニール袋が揺れる音と、二人の足音だけが、静かな夜の街に響いていた。
藤澤は、元貴が嘘をついていることも、額のアザも決して追及しなかった。
施設へ帰れば、またあの地獄が待っている。けれど、この坂道を登り切るまでの数分間だけは、あの頃の「元貴」でいられるような気がした。
首筋の痣も、額の腫れも、消えるわけではない。
けれど、聞こえてくる温かな声が、その痛みを少しだけ遠ざけてくれているような気がした。
コメント
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続き楽しみにしてます!
いつか、元貴くんが心の底から笑える日が来ますように
更新ありがとうございます😭 涼先生の言葉を素直に受け取れない描写に心が痛くなりました…おそらく元貴くんは、常日頃から誰一人信頼しないスタンスなのだろうな…その上、自己肯定感がとてつともなく低いから、まず自分自身に対する拒否反応が働くのだろうな… 涼先生に、元貴くんの仮面を剥いであげて欲しいです! 続き楽しみにしています!