────三年後。
「イーリス。おい、イーリス! そろそろ出発するぞ!」
荷物をトランクに纏めて、慣れ親しんだイルフォードの豪邸に別れを告げる。大した広さでもないのに随分と値段の張った家だ、と回顧しながら、ローブの裾を揺らす。髪の色を染めるのはやめた。ヒルデガルド・イェンネマンという、ありのままの自分で、今までより自由に生きようと決意したからだ。
「待ってよ、お師匠様。髪がまだ跳ねてて……!」
「寝坊するのが良くないんだろ。ほら、急げよ。飛空艇のチケットも取ったのに、遅れたら無駄な出費になってしまうだろう?」
アバドンとの戦いのあと、目を覚ましたイーリスは酷く反省した。自分の中にあった欲望に負け、そそのかされて力を貸してしまったことに、一時期は自殺さえ考えるほど憔悴していたが、ヒルデガルドが全く気にしなかったどころか『君が私と戦う以外で何をしたんだ?』と言われて、少しずつ前向きに戻っていった。
「ごめんよぉ、ボクが目覚まし時計を合わせるのを忘れたばっかりにギリギリになっちゃって……。ところで、飛空艇の行き先にあるホウジョウってどんな所なの?」
「鬼人《オーガ》という魔物の国さ。連中は元々人間で、島からは絶対に出ないという誓いのある変わった奴らでな。そこで三泊ほどしようかと」
戦いが終わったらホウジョウを訪ねるという約束だったが、アバドン・カースミュール討伐の折に受けた《デメント・ブリンガー》の槍の影響に加えて、自らが放った《クリア・デザイア》の後遺症もあり、彼女は一年も意識を失ったままで、目覚めたときには自分の中から魔核が欠片ほどしか機能していないのに気付き、体調が万全になるまでの時間を要した。
ただ、最後まで魔核は元に戻らなかった。彼女の大魔導師としての生命は緩やかに終わりを迎え、以降はイーリスという愛弟子の育成に力を注いだ。
「楽しみだね。みんなも行けたらよかったのに」
「暇なのは私たちくらいだからな」
アーネストは相変わらず大陸をまわってロード級の危険な魔物討伐に繰り出している。多くの部下を失ってしまったが、補佐にはイルネスがついた。傷ついた魔核の復元が目的で、ミモネも『絶対に村には帰ってくること』を条件で許可している。
一方、アッシュとアベルは、ティオネからの勧誘もあってエルヒルト大商団のマスコットキャラクターとして雇われ、シャブランの森周辺の環境整備と彼らの生活の保護が対価になっている。特にアッシュは一部の層から根強い人気があった。
魔塔の魔導師たちは以前に比べ、研究熱心な者が増えた。クレイ・アルニムの首都襲撃事件以来、ヒルデガルドに頼るばかりでは良くないと考えを革めた者たちが心血を注ぎ、新たな技術もいくつか完成に迫りつつある朗報を各地で耳にした。時代はこれからきっと大きく進むだろう、とヒルデガルドも満足げな話だ。
「そういえば、ここ最近、必死になって何を作ってたんだ?」
特に課題を出したわけでもないのに、イーリスは毎日のように外出を続け、帰って来ては魔法薬の研究に没頭していた。なにをしていたかまであえて詮索しなかったが、ここ数日はのんびりと過ごしていたので「もう終わったのか」と尋ねる。
彼女は頬をぽりぽり掻いて、少し恥ずかしそうにしながら。
「いやあ、魔法薬って想像以上に奥深くて、これじゃあいくら時間があっても足りないなって思っちゃったんだ。それで、ほら、不老不死の薬なんてまだ材料もないし作るのも随分先になるだろうから、若返りの秘薬くらいなら、ってさ」
「……ハハ、あまりお勧めはしないけどな」
どれだけの出会いや別れが待っているかも分からない。たった三十年に満たない人生でさえ、何人を見送ってきただろう? これから、もっとたくさん繰り返されることだろう。以前までのように戦いの果てではなくとも。
その都度、悲しく、苦しく、心を閉ざしてしまいたい気持ちを殺してでも前に進まなくてはならない。常人ならば壊れてもおかしくない生き方だ。
「やあ。どうも、お二方!」
敷地の外から手を振っているのは、冒険者ギルド所属のプラチナランク冒険者、エルンとクオリアの二人組だ。いつもよりラフな装いで彼女たちを待っていた。
「エルン。いつも着てるでかい鎧はどうした?」
「いやあ、実は俺、冒険者をやめるんだ。今月でさ」
彼の視線が、隣に立つクオリアに向く。少し頬が紅い。
「……ほお。それはめでたい話だな?」
「ありがとう、大賢者様。あっ、それはそれとして……」
ぽん、と肩を叩かれたクオリアが杖を手に、軽く振ってポータルを開く。
「今日からしばらくお会いできないのが残念です、ヒルデガルド様」
「君たちの邪魔をしなくて済むだろう、クオリア」
茶化すと、恥ずかしそうに笑いながら俯いた。
「ポータルをありがとう。気に入りそうな土産を買ってこよう」
「結婚式も参加してくださいますよね?」
「もちろん。今や私など肩書きだけの人間ではあるが」
軽い握手を交わして、いざ出発。ポータルを潜って飛空艇の搭乗を急ぐ。イーリスの寝坊ですっかり時間も迫っていて、ポータルを開いてもぎりぎり乗れた。起こせばよかったものをよく眠っていたので放置したのもあり、ヒルデガルドも何も言わず、間に合ったことだけを二人で喜んだ。
「ボクたちの部屋、七階だって。前の墜落から色々と増築したらしいよ」
「相変わらず、私の名前は使われたままなんだな……」
乗るのが恥ずかしいと思うのが半分。また墜落したりしないだろうか、という不安が半分。かつてはクレイやアバドンの策謀によって墜落したが、かといって本当にワイバーンのような魔物の襲撃がないとも限らないのだ。
船長も変わっておらず、今回も大勢の冒険者が警護に当たっている。前回の教訓を生かし、連携も強めているのが特徴だと事前の説明があった。それから船内を歩く二人をすれ違いざまに見つけた初老の男が振り返って挨拶に声をかける。
「よう、元気そうだな! 久しぶりじゃねえか!」
「ダンケン。今回も君が中心になってるのか?」
ゴールドランクの冒険者であり、みんなの頼れる兄貴分。クレイグ・ウォールという可愛がっていた若者を失ってからは引退も考えていたが、結局は冒険者で居続けた。これ以上の犠牲者が出ないよう、新人の育成を中心に携わっている。
「俺も今日は非番なんだが、ティオネちゃんから飛空艇のチケットをもらってよ。たまには旅行でもって気を遣ってもらっちまって。あんたらはどこへ?」
「ホウジョウで降りる予定だ。首都の長と知り合いでね」
ダンケンが顎をさすりながら「ほお~」と驚いて目を丸くする。大陸と島国の国交を結ぶのに一役買ったのはイルネスだが、やはりヒルデガルドも関わっていたのかと、その顔の広さに感心した。今やどこへ行っても彼女を知らない者はいないだろう。
「ま、お互い旅行を楽しもうや。俺はカジノにでも行くかねえ」
「ああ、それじゃあ、また会おう」
ダンケンと別れ、七階へ向かう途中でイーリスがふと言った。
「なんかさ。たった数年で、すごく色んな経験をしたよね。ボクは途中からだけど、ホラ吹きセリオンの一件から始まって、アッシュたちに会って、イルネスやシャロムみたいなデミゴッドと肩を並べて……。アバドンのような神域に達した魔物とも出会った。なんだか夢物語でも見てきたみたいな経験だなぁ」
船内の地図を広げてルートを確かめながら歩くヒルデガルドは、ぼんやりと「数奇な運命というものはあるものさ」と振り返った。なにせ自分も、僅かな期間であったとはいえ、神の領域にまで至ったのだから。
「お師匠様はホウジョウで、アバドン以外の、その、なんだっけ。現人神──っていうのに会ったんだよね? どんな魔物だったの、その鬼人って」
「……ああ。とても力強くて美しい女だったよ」
どんなときもまっすぐで、諦めるということを知らず、その命が果てる瞬間までを戦い抜いた、ホウジョウ最強の魔物。誰より明るく、滞在している間も、ずっと縁の下の力持ちでいてくれた。ヒルデガルドは、彼女の笑顔を思い出しながら。
「私にとっては二人目の師と言ってもいいくらいの大切な人だよ」
やっと部屋に着いて荷物を置き、窓の外を眺める。飛空艇内で最も上質なロイヤルスイートと呼ばれる部屋を取っていたので、広々と使いやすく、設備の整ったキッチンまである。ずっと生活していられそうな快適な空間だった。
「部屋で料理がしたいときは、三階の受付で申請を出せば食材を用意してくれるんだって。実はボク、最近になって料理も始めたんだけど、何か作ろうか」
アベルやアッシュがいなくなって軽食ばかりだったが、せっかくなら何か出来たほうがいいだろう、とヒルデガルドのために勉強していたのだと腕前を披露する機会がやってきて、自慢したさに、ふんふん鼻を鳴らす。
「うむ、そうか。じゃあ、これを。材料はここに書いてある」
そういって懐から取り出した数枚の紙を手渡す。
「……これ、料理のレシピ? なんだか変わってるね」
「ホウジョウではよく食べられているものなんだ。大切な友人からもらったんだよ。久しぶりに食べたくなってね、自分で作るつもりだったんだが、君に頼むよ」
「ん! じゃあすぐ行ってくるから待ってて!」
イーリスが部屋を出ていったあと、窓辺にある椅子に腰かける。ひと息ついて、ゆっくり目を瞑った。
「やっと約束を果たせるな、ヤマヒメ」
彼女の言葉に救われ、彼女の力で勝利を掴み取った。彼女の墓前で感謝を伝えられる日がようやくやってきた事を嬉しく思い、期待が胸で膨らむ。
「何もかも笑い飛ばせれば最強だよな。自由気侭に、君のような強い生き方を、私も実践してみるとしようか」
誰もが語り継ぐ、ヒルデガルドという大賢者であり英雄の歴史。彼女らしい方法で創り上げられていく、人々の心に大きな変革をもたらした物語の裏にある、たくさんの仲間たちとの出会いと別れ。その全てを糧にして、悼むのではなく、これからも共に歩む気概で、彼女は微笑んだ。
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