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この物語はフィクションであり、実在の人物・団体とは関係ありません。痛々しい描写やグロテスクな描写が含まれます。
また、登場人物の苦悩や死は決して美化されるものでもありません。
心身の状態によっては、読了にご注意ください。
༒༒༒
鉄の拘束具が両手両足に喰い込んでいる。
全身がぶるぶるとガタガタと、制御不能なほど震えている。顎がカクカクと勝手に動き、歯がカチカチと鳴り続けた。
(やだやだやだやだやだやだやだ……)
喉が詰まって声にならない。目を開けようとしても、瞼が硬直している。叫ぼうとしても、息が吸えない。
「……この子の目です。噂通りなら、死神の目を──」
「ふうん……確認のしようはないけどね。売り手は“確かに視えてる”って言ってた」
その声を聞いた瞬間、ブラインドの心臓はばくんっと跳ねた。
足先が冷える。指先の感覚が消えていく。汗が耳の裏を伝うのに、その冷たさすら感知できない。
息が詰まる。脳が悲鳴を上げる。心拍が限界を超え、白目が剥きそうになる。
「始めましょう。器具を」
「麻酔は?」
「いらないって言ってたよ。ほら、“神の目”に麻酔は効かないとか──」
──バカなことを言うなッ!ふざけんなッ!
叫ぼうとした瞬間、口に詰め物が押し込まれていることに気づいた。唇は既に裂けそうで、顎が外れそうだ。舌の先が痺れている。
「切ります」
ざく。
音がした。
皮膚のどこにも触れていないのに、音だけが直接、鼓膜の内側に刺さってきた。
「──っ、ん゛んんっ!! ん゛ー!んぐッッ!!」
喉をふるわせるだけのくぐもった叫び。
意味にならない声。だが、確かに全身で絶叫していた。
拘束具がギシギシと音を立てるほど暴れた、その直後──
ぐしゃっ。
みぞおちに、誰かの膝がめり込んだ。
「ん、ぐぅ……っ、ぶっ……!」
口から詰め物と一緒に、胃液と唾がこぼれ落ちる。
喉が焼けるように痛い。呼吸ができない。涙が勝手に噴き出して、視界は滲み、顔面がひくひくと痙攣する。
(怖い──怖い怖い怖い怖い!!!!)
声にならない悲鳴が、脳内に充満していく。
助けて、誰でもいい、神でも死神でも、殺すなら一瞬で殺してくれ。
なのに、“目”だけを残して、切り取ろうとするのか──
「い゛……や゛……だ……やだやだやだッ!!!!」
叫んだ。ただひたすらに。それしか出来ないから。
喉が裂けそうなほど振り絞った声は、肺が潰れるほどに、喉が焼けるほどに、魂のすべてを使って。
──刺された。
まぶたの際。涙腺のすぐ上。
“そこ”に、刃が触れた。
熱い。痛い。違う、“痛い”なんてもんじゃない。視界の奥で、世界が破裂する音がした。
メスの切っ先が、まるでガラスの破片のように水晶体に触れたとき──
ぐちゃっ。
眼球の裏で、「何か大事なものが砕けた音」が聴こえた。
「め……っ、やっ……目が……っ!やめて、やめて、お願い……っ……!!」
嗚咽まじりの絶叫が、口の奥で泡立った。
涙が止まらない。鼻水が混ざる。呼吸が詰まり、胸が焼け焦げそうだった。
「助けて……ッ、誰か……誰かあ……っ!!」
全身が引き裂かれるように暴れた。
拘束された手足が引きちぎれるならそれでも構わないと、本気で思った。
そのとき──
刃がもう一度、こちらに向かって振り下ろされた。
(やだ、やだ、やだ、やだやだやだやだやだ──)
「──や゛──め゛──ろおおおおおおおおおッッッ!!!!」
魂ごと張り裂けた絶叫とともに──視界が、真っ白に爆ぜた─────
「ッッああああああああああああああああ!!!!!!」
喉の奥から、破裂するような絶叫が噴き出した。
飛び起きた。跳ねるように、ベッドから上体を起こす。
息ができない。
肺が焼ける。喉が裂けて血が出たかと思うほどの痛み。汗でシャツは背中に貼りつき、震える手が布団を握りしめる。歯の根が合わない。全身がガタガタと震えていた。
ここは──病室じゃない。手術台でもない。
静かだ。優しい木の揺れる音、子供たちの無邪気な笑い声、壁にかかる古い時計の針音が、かすかに聴こえる。
それでも、視界には何も映らない。
(……夢、だ。──また、あの夢……)
うなじをつたう汗が冷たい。背骨の奥がずっと震えている。
体が“その時”の痛みを、すべて記憶していた。
「……っ、はっ、は……はあっ……ッ!」
何度も息を吸おうとして、うまくいかず、かすれた声を吐いた。
バタン。
ドアが開いた。
「ブラインド!?大丈夫!?」
「今の声……夢見たの!?」
「だいじょぶ? ねぇ……ねぇ!」
小さな足音が駆け寄る。子供たちの声が、次々と彼の耳に降ってきた。彼らの言葉は、心配に満ちている。けれど、その優しさが、今は刃物のように痛かった。
ワイズ──いや、通称ブラインドは震える腕を布団に沈め、かすれた声でやっと答えた。
「……ごめん、大丈夫……」
それは嘘だった。
何一つ、大丈夫なんかじゃない。
僕の地獄は続いている。
まだ、あの光景も、声も、痛みも──すべて、生きていた。
༒༒༒
「……ブラインドは?」
食堂の丸机を囲む子どもたちの中に、彼の姿はなかった。
銀のトレイには朝食が並び、パンの香りが漂っているというのに、彼だけがいない。
ニアは、本を持ったまま、ゆっくりと顔を上げた。子どもたちの声はざわめいているが、彼はすでに答えを知っていた。
──音が、聴こえる。
2階の、廊下の突き当たり。
かつて“B”と呼ばれた少年が住んでいた部屋。今や、ブラインド・バースライト──ワイズの部屋となっている。
そこから、ピアノの音が微かに漏れていた。
軽やかなメロディ。
指の動きは流れるように滑らかで、和音には温かさがあった。
それは、まるで子守唄のように優しい旋律で、もし誰かが眠っていたなら、そのまま夢の中へと誘われてしまいそうな、そんな音──
……いや、違う。
そんな綺麗なものじゃない。
誰かのために弾いている曲じゃない。
──これは、ブラインド自身のための音だ。
鼓動の代わりに音を出している。心を落ち着かせるために。見えなくなった目に、意味を持たせるために。真っ暗な世界で、唯一“形”を与えられるのが、この音だけだから。
──そう。ブラインド・バースライトは、『盲目の少年』でありながら、世界レベルのピアニストだった。
目の前にある88鍵の配置は、記憶ではなく、彼の中にある音の誘導。
彼は絶対音感を持つ。
たった一度聴いた音を再現し、和声を聴き分け、旋律に色をつけることができる。だが、彼が本当に好きなのは演奏ではなく、創ること。
──“解答のない世界”に音を奏でる。これほどまでに美しく滑稽なものはない。
目が見えなくても、譜面が上手に書けなくても。彼の頭の中には、無限の音が広がっている。いま弾いているのも、即興で作ったものだった。音が言葉になるよりも早く、彼の指が語っていた。
けれど──
旋律は、徐々に沈んでいく。
和音が暗くなる。リズムが崩れる。左手の低音が、ゆっくりと、しかし確実に彼の思考を引きずり込んでいく。
ブラインドは思い出していた。
あの声を。あの目を。
母の狂気と、信者たちの笑顔を。
「──視えているんです、この子、“死神”が」
あれが地獄の始まりだった。
母親に売られた。
何の前触れもなく、優しい声で髪を撫でながら、その手は、ブラインドを臓器商へ差し出していた。
眼球一つ──厳密には角膜と水晶体──通常なら400万円。だが、“死神の目”という嘘を添えて、彼女は言った。
「800万円でいかがでしょう?」
その金で、家族が救われるわけではなかった。
母は、その金で何を買った?贖罪か?酒か?信仰か?
──いや、何も買えていなかった。
実際に彼女が手にしたのは、800万円を称した偽札だった。
印刷の滲んだ紙。透かしも何もない、ただのゴミ。けれど、ブラインドにはそれが“本物”かどうかすら、確認できなかった。
見えない目に差し出された、“無価値な紙切れ”。
──最低で、最悪の、嫌がらせ。
目が使えないってことは、金の価値すら見抜けない。
神の目なんて本当はない。
笑われた。嘲られた。
盲目の少年が、希望を失う姿を、彼らは娯楽にした。
目を取られた代償は、何ひとつ、救いにならなかった。
信じた母に裏切られ──その先で視えたのは、永遠の闇だった。
……そして、母は死んだ。
裏切った報いだったのか、それともただの口封じだったのか。
あんなにも派手に僕を売ったくせに、死んだ時は誰にも同情されなかった。
最期の頃、彼女は強盗や違法薬物に手を染め、何度も捕まり、名前がニュースに踊った。そして、僕の目を勝手に臓器売買に使った件を、『Lと名乗る人物』が追求したと聞いていたが──厳密には『初代B』が追求し、暴いたらしい。こっちに越してから初めてその事実を知った。
そして──2003年5月19日。
母は、留置施設の中で操られたように自らの両目をくり抜いた。爪でなのか、器具でなのか、はたまた食するためのフォークか──ハッキリはしてないが、記録には、“両眼を抉った後、心臓発作により死亡”とだけ残されていた。
誰にも看取られず、誰にも悲しまれず、まるでこの世に最初から存在しなかったかのように──裏で、息を引き取った。
あの時、僕が目を売っていなかったら。
この事件は、世に出ることもなかっただろう。
臓器売買の事実も、母の狂気も、他の子供たちが何人も“生贄”にされていたという事実も──
すべて、闇の中に埋もれたままだった。
そして、僕自身も──目を売らなかったら、きっと、心臓を取られていた。
だから、僕は思うようにしてる。
“目を売って、寿命を買ったんだ”って。
傷口に意味を与えるために。
この瞼の裏の闇に、名前をつけるために。
選ばされたんじゃない。選んだんだ。
そう思い込まなければ、僕の人生は、ただの“犠牲”で終わってしまう。“なぜ生きてるか”を、正当化できなかった。
──じゃあ、妹たちはどうした?
長女と次女。
イカれた宗教団体に追われていたあの日々、ずっと一緒だった。
3人で、手をつないで、盗んできたパンをわけて、人の金を奪って──生き延びていた。
汚い飲食店の裏で見つけたコンテナの中に、次女を押し込んだあの日。「ここにいろ」って言ったのは僕だ。
あの子は、あの後どうなった?
誰かに拾われたのか。連れ去られたのか。もしくは、まだ、あの中で……。
わからない。何も。
こうなったのは、全部、神のためだった。──いやはや、神への尊厳など無視していうのであれば、神のせいである。
父は神を信じ、天国へいくため、1000万円の借金を抱えた。何に使ったのか知らないが、教会か、布教か、幻覚の中の天国か。
家族は、その“神”のせいで生贄にされた。
神なんて、最初からいないのに。
帰る家が見つかっても、あたたかいベッドや、美味しいご飯がそこにあっても──
世界を見る目は、もう無いのに。
もう僕は何も──
何も──
見ることは出来ないのに──ッ!
ジャアアアアァンッ!!!
ブラインドの右手が、ピアノの鍵盤を叩きつけるように打ち鳴らした。
鋭い不協和音が、部屋に鋭利な刃のように響き渡る。
「……ちくしょう……っ」
その声は、怒りとも悲しみともつかない、魂の剥き出しだった。
──すると、背後から、小さな声がした。
「……くぅんっ」
ビクッと肩を揺らす。
振り返らなくてもわかる。
その声は、彼にしか向けられない。
盲導犬・パッチ。
小さな鼻をすり寄せて、不安げに彼の背中を見つめている。ブラインドは眉をしかめ、無意識に黒縁メガネを外した。
飾りでしかないそれを、額にずらして、震える指先で目元を拭う。
黒い瞳も、赤い瞳もない。
あるのは、何も映さない、真っ白な瞳だけ。
それでも、そこから溢れる涙は、ちゃんと温かかった。
「……ごめんな、パッチ……」
ぽつりと零して、彼はパッチを抱きしめた。
あたたかい。ぬくもりが、確かに返ってくる。
人間には信じることができなかった優しさが、この毛並みの中にだけ、今も残っていた。
ブラインドは、パッチの首に頬を押し当てたまま、しばらく、何も言わずに震えていた。
༒༒༒
季節は、秋。
紅葉の葉が乾いた風に舞い、ワイミーズハウスの庭に積もっている。コートの襟を立てるほどの冷え込み。子どもたちの笑い声も、少しだけ落ち着いた色を帯びていた。そんな空気の中で、ブラインドの元に、一通の封筒が届けられた。
内容は、臓器移植の打診だった。
提供者はあのBeyond Birthday──『初代B』だ。
僕は目を疑った。いや、目なんて無いし、文字も読めなかったけど、それでも手が震えるほどの衝撃だった。
──部位:角膜・水晶体(両目)
──条件:死後3時間以内に採取、及び移植許可済
──提供者本人の署名および証明文書あり
──移植受容者:W.W.H所属 Wyise Bieyes
あの、Beyond Birthday。
かつてLを超えるために、人を殺し、ゲームにした、“最悪のB”。
微かな嫌悪感はありつつも、尊敬はしている。やったことに関しては賞賛できないが、彼の頭脳は確かだ。
彼が殺人を犯したその日から、Bという文字が重くなった。そして、僕は“その後始末”として生きている。
そのBが──自分の目を、譲ると?
ブラインドは、迷った。
あの人の目を、受け取っていいのか。
殺人犯の“視界”を、自分の中に入れて──本当に、生きていけるのか。
けれど、結局、彼は言葉を選ばずにただ一つの選択をした。
「……会いに行くよ、B」
──だって、自分も同じだ。
人を殺して生きてきた。
生きるためにやむなしに殺した命がある。
ブラインド・バースライトもまた、“綺麗な人間”ではない。
だったら──どうせこの先、ずっと何も見えない人生なら。
Bの目を、受け取ろう。
それが罪だとしても。罰だとしても。2代目Bとして、君を継ぐ──そう心に誓った。
༒༒༒
──まだ目が見えていた頃の話だ。
ワイズの両眼には、世界の“色”が確かに映っていた。けれど、それは美しいものではなかった。
血の着いた壁、腐ったパン、蛆のわいた排水口──そんなものばかりだ。その夜も、空腹だった。三日ろくに食べておらず、水すら口にしていない。
腹が鳴るのを抑えるため、布で締めつけていた腹部は、もう感覚すらなかった。
彼は、ふらふらと街へ出た。灯りの少ない夜道。人影がひとつ、足早に歩いているのが見えた。男だ。手には鞄。綺麗な腕時計も──たぶん、金を持っている。
ワイズは、その男を追った。無言で。
布で隠し持った斧──握る指が汗ばむ。
何も考えないようにしていた。考えたら躊躇してしまうから。
この歳じゃ働けない。
何より、働いたところで1000万の借金は返せない……ならば、やるしかないのだ。
──生きるために。
人気のない路地に入った瞬間──ワイズは、走り出していた。
「っ──!」
振り返る隙すら与えず、男の首筋に斧を深く突き刺した。
鈍い音がした。背骨に当たったらしい。血が噴き出し、地面に音を立てて降る。
まだ、動いていた。男の体が痙攣するようにのたうつ。
ワイズは何度も斧を振るった。骨が砕ける感触。皮膚が裂ける感触。
そのすべてを、彼は覚えていた。
そして──息を引き取った男性から金を奪った。その場でポケットをまさぐり、腕時計も奪った。
それだけでは終わらない。
彼は男の片腕と片足を切り落とした。
汗で滑る斧を握り直しながら、関節を断ち、骨を折り、皮膚を引き裂いた。
“臓器売買”──そこに持ち込めば、それらは「部品」として値がつく。たとえ使い物にならなくても、欲しがる奴はいる。
ワイズは、腕と足を袋に詰めて持ち帰った。
──いつもの路地裏に戻ると、ゴミ箱の裏でパッチがじっとこちらを見ていた。
狭い路地裏、光なんてない。
ワイズは袋の中身を一部引きずり出して、目の前にドンと落とした。血の混じった液がべちゃりと床を汚す。
「……ほら、飯。取ってきた」
袋から出たのは、男性の右足。根元から切り落とされ、まだ体温の残るような肉だった。
パッチは、その異様な“食料”をただ見つめた。まったく動かない。怯えても、驚いてもいない。ただ、見ていた。
「なんだよ、いらないのか?」
ワイズが眉をひそめて言った。
「せっかく、苦労して手に入れてきたのに……。お前、腹減ってたんじゃなかったのかよ」
パッチはだらりと垂れた尻尾で、ゆっくりと後ずさった。
目は虚ろで、声も出さない。だが、その拒絶ははっきりしていた。
「……肉なら何でも食べると思ったんだけど……」
苛立ちと空しさが入り混じる中、ワイズは乱暴に足を袋へと戻した。
「これは食べないか」
血のついた床に袋がこすれる音が、いやに生々しく耳に残る。
「……じゃあ、いいよ。これは売りに出す。金になる」
袋の口を締め、ワイズは肩をすくめた。
鼻の奥に、血と鉄の匂いがこびりついて離れない。
パッチは隅で震えたまま、ぴくりとも動かず、ただワイズの手元を見ていた。
その目に浮かぶのは、恐怖か、嫌悪か──あるいは失望か──
「らんらんらーん!けらっけらっけらっけらって感じでもあるが……むしゃむしゃむしゃ」
ワイズは路地裏にうずくまり、湿った段ボールの上で口を開けた。
「これで、これで……ご飯が食べれる……!ふふっ、ふはっ……やった……やったぁ……!」
スプーンもフォークも何も無い。震える指で取り出した残飯まじりの米を、ぐしゃぐしゃのまま手でわしずかみにし、口に押し込んだ。
「ふはははははは、うめぇ、うめぇ……」
何度も何度も、ひとり笑いを繰り返す。
異様に乾いたその声が、夜の壁に吸い込まれていく。腹の足しにもならない量なのに、口いっぱいに詰め込みながら、ワイズは目を細めた。
袋の中にある腕と足──あれが、今夜の“金”になる。
今夜は凍えずに眠れるかもしれない。
久しぶりに、靴下を買えるかもしれない。
その笑みには、幸福など一滴もなかった。ただ、飢えが満たされる──という、生存本能だけが、彼を笑わせていた。
その後、ワイズは捕まらず、逃走した。
斧についた指紋は、降りしきる雨で流され、現場に残された痕跡も、夜風と水で洗い流された。
DNA鑑定に回すような有力な証拠もなく、防犯カメラは運悪く──いや、運良く──死角。
誰も、何も見ていなかった。
そして──ワイズは知らなかった。
夜道で襲ったあの男が、誰であったのかを。
それが、後にロサンゼルスを驚愕させた存在──ビヨンド・バースデイの父親だったなどと、夢にも思わずに。
༒༒༒
そして訪れる──1月21日。
気温は低く、道行く人の吐息が白く溶けていく。ロサンゼルスの冬は、冷たいはずなのに、ブラインドには温度が感じられなかった。
パッチはあの日、“拾った時と同じように”ブラインドの足元に寄り添い、首を傾けた。
「……行くよ、パッチ」
盲導犬用のハーネスをつけ、手荷物だけを持ち、彼は初代Bの元へと向かった。
タクシーに乗り込む。
無言のまま病院名を告げ、窓から入る風の音だけを聞いていた。
到着したのは、ロサンゼルス郊外の医療拘束特別病棟。
看板に名前はない。外から見れば、ただの古びた大病院。
病院の自動ドアが開いた瞬間、ひんやりとした空気が顔をなでた。漂うのは薬品の匂いと、洗い立ての白衣の布の匂い。
ロサンゼルス市内・特別医療拘束病棟。
ワイズは、パッチのリードを軽く持ち直した。
「ここだよ、パッチ」
パッチは静かに歩いていたが、どこか落ち着かない様子だった。足取りが慎重すぎる。ときおり立ち止まって、鼻先で空気を嗅ぎ、耳をピクリと動かす。
「こんにちは──」
受付から、柔らかな女性の声が響いた。
「……あの、失礼ですが、ワイズさん、でいらっしゃいますか?」
その声に、ワイズの足が止まる。
(……この声……)
どこかで、いや、何度も聞いた気がする。
誰だっけ。でも、見えないから、分からない──
「はい。ワイズです」
返事をしながら、ワイズは胸の奥がざわつくのを感じていた。
「ご案内します。あちらへどうぞ」
リードの先で、パッチが小さく鼻を鳴らした。明らかに、落ち着きがない。ブーツの底が床を擦る音に、ワイズの靴音だけが混ざる。
「……犬、好きなんですか?」
「まあ……。拾ったといいますか……。それより──彼、焼身自殺に失敗したと……聞いていましたが」
ワイズが、ぽつりと問う。
「──ええ」
看護師の歩みがわずかに緩む。
「生きて……いたんですね?」
数歩歩いたあと、看護師が口を開いた。
「……はい。搬送されてきたとき、正直、私たちも“まさか”と思いました。警察病院からの連絡がなければ、遺体だと思ったかもしれません。それくらい、状態はひどかったです」
「……どのくらい、ひどかったんですか?」
「警察病院から搬送されてきたんですけど……全身、もう、ほとんど丸焦げで……。皮膚は焼け落ちてて、骨が露出してる箇所もあって。最初は“生きてる”って分からなかったくらい。──もう、病院は大混乱でしたよ。記者は押し寄せるし、病院の出入口をふさいで。“連続殺人犯が生きてる”って、ニュースが一斉に流れたもんだから……騒然として」
ワイズの手が、そっとポケットの中で握られる。
「それだけじゃなくて、被害者の家族も……押しかけてきたんです。『なんで助けるんだ!』『殺せ!』『娘を返せ!』って……罵声が飛び交って、泣き叫んで……。でも、私たちは、1つの命を前にして、答えを出せなかった」
ふと、看護師は笑みのようなものを浮かべたが、それはただの疲れた表情だった。
「……搬送されてきたのは、深夜でした。警察病院から。外傷報告書なんて意味を成さないほど、全身──焼け落ちていて。皮膚が……もうなかったんです。喉も、口腔も焼かれていて……心電図だけが、辛うじて……彼の“生”を証明していた。──付き添ってきたのは、南空ナオミさんというFBIの女性で……ずっと傍らで泣いていました。『私のせいで……もっと早く気づいていれば、こんなことには……』って……。あの時、私、彼女に付き添ってたんです。あなたのせいじゃないって。誰のせいでもない、って。でも……本当は、わからなかった。何が正しくて、何が間違いだったのか」
看護師はあの日を思い返す様に言葉を綴った。
──その時、ドクターが病室の外で携帯を持って、誰かと激しく言い合っていたのが聞こえました。
「L、という人物からの電話でした。……私、忘れられないんです。その時のドクターの怒声」
『お前は悪魔かッ!?』
「その言葉が、病棟中に響きました」
『もう、喋れないんだぞ……!!顔も焼け落ちてる、喉も潰れてる、皮膚はない!骨も出てる!そんな状態の人間を──お前は生かせっていうのか!?人道ってなんだ!?あんたの言う“正義”ってのは、こんな地獄に人間を縛り付けることなのか!!』
「……電話の向こうで、Lは静かにこう答えたそうです」
『──“殺す”ことのほうが、非人道的ではないのですか?』
その瞬間、ドクターは怒鳴り返しました。
『お前は……お前は、その目で彼を見ていないから、そんなことが言えるんだ!!見に来てみろ!!神経が生きてて動いてる!麻酔なんか効かない!痛覚がそのまま生きてる!!』
医療の現場に立つ者として──皮肉にもドクターは“死”を望んだ。
何せ──彼はドクターだ。
“人間が感じる痛み”を、知りすぎるほど知っている。熱傷、神経の露出、壊疽による発痛、拘縮による引き裂かれるような激痛──永遠に苦しむことになる。
それでも、Lは命令を変えませんでした。
『ドクター。あなたは今──人命救助を、放棄なさるのですか?』
『……違う!!“助ける”ってのは、ただ生かすことじゃない……!』
ドクターは、嗚咽交じりに怒鳴り返す。
『生き地獄に縛りつけることが正義だって言うなら……お前の正義は間違ってる!!』
そして、Lは静かに言った。
『あなたは医師です。正義を語る前に、命を繋いでください』
その一言で、通信は終わった。
看護師は静かに目を伏せる。
「私はその時、初めて知りました。人間の命を“生かす”って、あんなにも重いことなんだって」
「………………」
「すみません。看護師なのに、こんなこと言っちゃいけませんよね……」
彼女は微かに首を振る。
「──でも、この仕事をしていると、どうしても“死”が日常になる。何人もの死を見てきたせいで、命の重さを……忘れてしまいそうになるんです」
その言葉には、職業的な矛盾と、それを背負い続けてきた者の静かな苦しみがにじんでいた。
「……でも、正直なところ、あのとき病院の誰もが思ってました。──これ、本当に“生かす”のか?って」
静かな、けれど重い沈黙が落ちる。
「治療じゃない。延命でもない。ただ、“死なせるわけにはいかない”って、そういう理由だけで、焼けただれた身体を繋ぎ止めて。私たち、あの人を、ただ“この世に縛り付けていた”だけだったんです……」
声は、どこか遠くを見るような口調だった。けれど、怯えているというよりも、“慣れてしまった”ような諦めの色があった。
「本当は──私達も殺してあげたかった」
ワイズの足が止まる。パッチも静かに立ち止まった。
「……殺すって言ったら、語弊がありますけど」
看護師は、小さく苦笑して、続けた。
「彼がどれだけ痛がってたか……それを“痛い”って言えないって、どれだけ辛いか──わかりますか?」
「………………」
その言葉に、ワイズの肩がほんのわずかに揺れた。
「……わかります」
「……痛いくらい……わかります……」
深く、重い──痛み。
それは、他人に説明なんてできない。
それでも、同じ痛みを知っている者同士にだけ通じる“色”がある。
看護師は立ち止まり、ワイズの顔をじっと見つめた。彼の真っ白な瞳から、少しだけ涙が滲んでいた。
その姿に、看護師はそっと視線を落とし、そして──再び語り出した。
「最初に処置したのは、気管切開でした。口からの挿管ができる状態じゃなかったから……直接、喉を開いてチューブを通しました」
声のトーンは落ち着いていたが、言葉の一つひとつが重かった。
「肺も焼けていたせいか、呼吸は浅くて、すぐ血中酸素が下がって。定期的に酸素濃度をチェックして、でも、モニターが壊れてるのかと思うくらい、変わらない数値で……。点滴の針も、すぐダメになるんです。静脈が焼けてて、薬剤がうまく入らない。抗生剤は……効かないどころか、薬液がそのまま組織を壊していって──」
「それでも──彼は目を閉じなかった」
彼女は、一呼吸置いて、静かに言った。
「まるで──目だけが生きてるみたいに、ぎょろぎょろ動いてて……あんな状態なのに、目だけは、まったく無傷だったんです」
ワイズは息を呑んだ。
それがどういうことか、身体が先に理解してしまった。
エレベーターは4階で止まった。
扉が開くと、そこは真っ白な廊下。
数名の看護師がこちらを横目に通り過ぎたが、誰も言葉を発しなかった。
「……だから、医師たちは、彼の目を──“神の目”と呼んでいたんです」
──神の目。
その言葉が、胸に重く沈んだ。
そうだ。僕も神の目に踊らされたひとりだ。
神の目を持っている、と嘘をついた母。それを“売り”にした宗教団体。そして──奪われた、自分の視界。
「……眼球は、ほんとうに奇跡的だったんです。全身があんな状態だったのに、目だけは、損傷が浅くて……視神経も、生きていて」
そう語る彼女の声は、どこか震えていた。
「呼びかけると、瞳孔が光に反応して収縮しました。……追視もできて。目が、ちゃんと、こっちを“見ている”んです」
彼女は一瞬、言葉を探すように目を伏せてから、続けた。
「それだけじゃありません。人が動けば、それを追って視線を動かしたり……誰かの顔を、まるで“見つめる”ような、そんな仕草もして……」
言葉を重ねるごとに、彼女の表情には畏敬の色が滲む。
「全身が痛みで硬直していても、目だけは、自由だったんです。……まるで、本当に──彼の意思と魂が、残っていたみたいに──それこそ、本当に──“神の目”が存在しているんじゃないかって」
ワイズは一瞬、言葉を失った。
「いや……そんなの、あるわけ──」
言いかけて、口をつぐんだ。
──あるわけない。
そう言いたいのに、それを否定しきれない“自分”がいる。
(……だって、僕は──“死神の目”を持っているって言われて、本当に、目を奪われたことがあるんだ)
あの時の記憶が、背骨を這い上がってくる。
意識が薄れる中、メスの冷たさ。切り裂かれる感触。耳元で響いた言葉──「これが、神の目……!」
(まさか……まさか、あの人──)
まるで悪寒そのものが皮膚の下を走ったように、背筋に冷たい汗が伝う。
(……僕の目を持ってる……なんて、ことは……)
言ったそばから、自分でもおかしな疑念だと思った。
けれど、Bの“目”があまりにも異常すぎると聞かされるほど、その可能性が笑い飛ばせなくなる自分がいた。
(違う、そんなわけない。神なんていないんだ──絶対に)
「……大丈夫ですか?」
看護師が、ワイズの顔を覗き込む。
「……すみません、少しだけ、昔のことを思い出してしまって」
言葉を濁しながら、ワイズは額に浮いた汗を拭った。
まさか──そんな偶然があるはずがない。
けれど、それでもどこかで“因縁”を感じずにはいられなかった。
神の目。
それは、かつて自分から奪われた呪い。
今、目の前に現れた、もう一つの呪い。
(……これが、本当に“同じ場所”に繋がっていたとしたら──)
笑えないな。
「──それでも、彼は生き延びました」
彼女の声は、静かだったが、どこか誇らしげでもあった。
「治療の甲斐あって、全身に及んだ壊死は一部を除いてなんとか食い止められて……心臓と脳の活動は安定したんです。皮膚は、人工真皮で覆いました。移植に耐えた部分だけでも、最低限の再生ができたことが、ほんの僅かな救いでした。でも……」
言葉を選ぶように、彼女は眉を伏せる。
「四肢の一部は、壊疽が進行してしまっていて……切断せざるを得なかった。関節も拘縮して、もう自力で動かすことはできません。声帯も、完全に焼けてしまって。……もう二度と、声を出すことはできない状態でした」
耳に届いたはずの言葉が、脳に届くまでに少し時間がかかった。いや──脳は理解していた。ただ、心が、それを拒んでいた。
(……それでも、生かしたんだ)
骨を削り、声を奪い、手足を切ってまで──生かす意味が、どこにあったのか。
正義だとか、人道だとか、そんな言葉では到底拭いきれない現実を、いま、彼は正面から突きつけられていた。
(……どれだけ苦しかっただろう。どれだけ、痛かっただろう)
彼のあの瞳だけが、奇跡のように生き延びたという。その瞳で、どんな地獄を見せられたのか──
「……あの、実はですね」
看護師がふと足を止め、声のトーンを少しだけ下げた。
「この移植の話を、最初に持ちかけたのは、私なんです」
ワイズは驚いて顔を上げた。
「あなたが……?」
「ええ。正直、病院内でも議論がありました。“殺人犯に臓器提供の権利を認めるべきか”って。でも……あの人の“目”だけは、どうしても残さなきゃって、そう思ったんです」
彼女の声は静かで、でも確かだった
そして、ほんの少しだけ目を細めて、語った。
「眼だけは──眼窩の火傷が浅かったおかげで、視神経が一部、生きていたんです。奇跡みたいでした。あんな状態で、視覚だけが……まだ彼の中に残っていたんです」
そこまで言った彼女の横顔が、ふと硬くなる。
まるで、自分の中の“答え”に触れてしまったかのように。
「……でも、本当は、私たちは気づいていたんです」
「気づいていた?」
「彼の目が“特別”だってことに、です」
彼女の声が、少し震えた。
「通常、眼というのは熱に極端に弱くて──まず最初に死ぬ器官のひとつなんです。視神経が傷ついた時点で、回復はほぼ絶望的。医学的には、あの状態から“視覚が残っていた”なんて、到底あり得ない。だから、私達は確信したんです。彼の目には、科学では説明できない“何か”があると。もしそれが本当に“神の目”であるなら、我々の常識では辿り着けない領域にも届くかもしれない。盲目の人間が、視力を“完全に取り戻す”──そんなこと、今の医学では夢物語でしたが、もしかしたら……この“目”を使えば、その夢が叶うかもしれない」
彼女はそこで、一拍置いた。
「だから、私たちは……ワイズさんを“適合者”として選びました。神に授かった目を別の誰かに繋ぐという、倫理の境界すら超えて」
「……それで、彼に直接話を?」
看護師はそっと頷いた。
「はい。でも、彼は……喋れませんでした。喉も焼けて、発声器官は壊れていたので。でも……目だけは、ちゃんと動いたんです」
彼女はほんの少し、息を整えるようにして言葉を継ぐ。
「だから、こう提案しました。“YESなら、目をぐるりと一周、円を描くように動かしてください。NOなら、動かさないでいてください”って──」
そして、彼は──動かしたんです。
「本当に、迷いなく。眼球をぐるりと、円を描くように。たった一度。それだけでした」
それが、彼の返事だった。声を失っても、体を失っても。彼は、まだ“意志”を持っていた。
それ以上に、強くて儚い決断だった。
ワイズは、目を閉じたBの姿を想像した。
「……ありがとう」
ワイズは、そう呟いた。
誰に向けた言葉だったのか、自分でもわからなかった。けれど、自然と声になっていた。
廊下の突き当たり。
ガラス越しの個室。
その中に──Bがいた。
いや、厳密には、Bの“死体”が横たわっていた。
「……今、角膜と水晶体を摘出している最中です」
看護師が低い声で告げた。
その声は、どこか祈るように、息を殺していた。ワイズには何も見えなかった。けれど──痛いほど、想像がついた。
白衣を着た医師たちが、慎重に作業を進めている姿。血が流れないように、眼球の表層を扱う指先。
かつて“神の目”と呼ばれた器官が、今、自分の体の中へと“受け継がれる準備”をされているという現実。
手術台の上で、彼の顔にメスが触れる感触すら──感じられる気がした。
皮膚の下で筋肉が乾き、角膜を覆っていた涙腺の膜がそっと剥がされていく音。
見えていないはずの光景なのに、脳裏には、はっきりと焼き付いていた。
──ああ。
これが、Beyond Birthdayの終わりか。
そして、僕の始まりである。
ワイズはガラスの前で立ち尽くした。
パッチが一度、ワイズの足に鼻を寄せる。
けれど、何も言わなかった。彼もまた、何かを“感じて”いるようだった。
「……準備が整い次第、手術室にご案内します」
看護師の声が、いつもよりも優しく響いた。
ドクターが、Bの個室から出てきた。
マスクとゴーグルを外しかけた手が、血のついた手袋の存在を想起させる。
「ワイズさん、はじめまして。これから手術に関する説明をしますから、こちらへついてきてください」
「はい……」
ワイズは頷き、パッチのリードを握り直した。
その手には、ほんの少しだけ汗が滲んでいた。
ドクターに続いて廊下を歩く。
重い靴音だけが静かに響き、空気の密度が少しずつ変わっていく。
その後ろ姿を、看護師は見つめていた。
小さく、呼吸のように言葉を吐き出す。
「──頑張ってね。“お兄ちゃん”」
ワイズは振り返らなかった。
けれど、その言葉は、確かに心の奥に届いていた。
(……妹か)
あの時、コンテナの中に隠した次女。──そうか、生きていたのか。
あの子の顔をもう一度この目で見れるのなら──この視界が、たとえ呪われていても──その目で、生きていける気がした。
もう、怖くない。
༒༒༒
──そして、2月2日。
移植手術は、成功した。
角膜と水晶体は適合し、拒絶反応も、初期には見られなかった。
世界の寿命が見えた。
人々の顔を見るたびに、チラつく名前と数字。
通りすがりの子ども、テレビに映る政治家、すれ違った誰か。
妹の寿命も──残り少ない時間も、そこにはっきりと視えていた。
それなのに、自分の寿命だけは、どこにも見えなかった。鏡に映る“目”は、視えているのに──“僕の名前と命”はどこにもない。
奇妙で仕方がなかった。
自分の存在が、この視界に含まれていないこと。
誰かを救おうとすればするほど、その寿命が“数字”として、リアルに突きつけてくる。
それは未来予知でもなければ、奇跡でもなかった。
まさしく──死神の目だった。
あの人は、本当に、持っていたのだ。この世界の“終わり”を視る目を。
──その呪いを、今、ブラインドが受け継いでしまった。
最初に壊れたのは、パッチだった。
彼は何かに怯えるように吠え続け、ある日──狂ったように、僕の手を噛んだ。
盲導犬失格。
保健所へと連れていかれ、二度と戻ってこなかった。
その日から、何もかもが崩れ始めた。
移植から一週間も経たずして、体の拒絶反応が始まった。体が自分の一部となったはずの眼を「異物」と認識し出したのだ。
目の周囲に膿が溜まり、発熱が続き、顔面は次第に腫れ上がっていった。眼窩から出血し、瞼が開かなくなり、痛みに震える身体は日に日に蝕まれていく。
見たくないのに見えてしまう。
誰かの寿命。
誰かの“終わり”。
──それでも、自分だけは、見えない。
僕の名前も寿命も、どこにもない。
怖くて、
寂しくて、
堪らなくて。
僕は狂ったように笑うことしか出来なかった。
死を見るための目は──まさしく“自分が、死ぬための目”だったのだ。
そして、ブラインドは鏡を打ち砕いた。
砕けたガラスを拾い上げる。
鋭く光った破片を、握り──
“この目”を、突き刺した。
それが、僕の見た“最期”だった。
誰の目にも映らないまま──
──僕は、死んだ。
──2月13日、午後1時21分。
ブラインド・バースライト、死亡。
角膜移植による急性拒絶反応と全身性ショックにより、死亡。
彼の死は誰にも知られず、彼の視た世界も、その瞳と共に、完全に失われた。
コメント
3件
今回もすごく面白かったです…。クオリティが高すぎて毎回のめり込んじゃいます。原作をリスペクトしつつオリジナリティ溢れる作品を作ってくださりありがとうございます😭✨ビヨンド大好きなので登場してくれて嬉しかったです笑