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 この物語はフィクションであり、実在の人物・団体とは関係ありません。痛々しい描写やグロテスクな描写が含まれます。 広告が癪に障るため、敢えてグロ指定していませんので、ご注意ください。

 また、登場人物の苦悩や死は決して美化されるものでもありません。

 あまり重く捉えずに読んで頂けると嬉しいです。


画像



 2002年8月22日。


 BB連続殺人事件が終わった日だ。

 いや──ビヨンド・バースデイが捕まった日、と言うべきだろう。


 『僕ら』の先輩が捕まって、Lに挑むってことがどういうことか、身をもって証明した。

 その日を境にして、確かに僕らの世界は変わった。

 8月22日を超えてBeyond、新しく生まれたBirthday世界がある。

 今、僕の目の前には──世界の寿命が見えている。

 人々の頭上に浮かび上がる名前と寿命。

 はじめてそれを見たとき、僕は恐怖よりも好奇心を覚えた。

 「世界の終わり」を測れることがどれほど美しく素敵な事か。僕は思い知らされた。

 これこそが命の輝き。

 死があるからこそ、命は燃える。

 死こそが、命を輝かせる。

 


 ──これが本当の死神の目か。



 ● ●



 車体が揺れるたび、担架の足元が微かに軋んだ。

 救急車の車内には、血と焦げた肉の混ざった匂いが漂っている。鋭く鼻を刺すその臭気に慣れていない若い隊員が、口元を覆って背を向けた。

 担架の上に横たわっているのは、全身の皮膚を失ったビヨンド・バースデイだった。

 顔面の輪郭は崩れ、鼻腔は潰れ、口唇の位置すら曖昧だった。髪は焼け落ち、頭皮は炭化し、部分的に白骨が覗いている。

 それでも彼は、まだ生きていた。

 「あ……あ……あ……」

 喉の奥から漏れる声。言葉にならない呻きが、肺の底から押し出されるように、断続的に響いていた。

 呼吸は不規則。吸気ごとに喉がかすれ、焼けた気道の中で血泡が立っていた。

 「気管、焼けてる。挿管急げ!」

 「心拍、低下中──三十八、いや三十七!」

 救急隊の一人が無影灯のスイッチを入れ、天井の白い光が男の胸元を照らした。

 肋骨の間が、かろうじて上下している。呼吸を補助するバッグバルブが交互に膨らみ、酸素が肺へ送り込まれていく。

 「この人、助かるんですか──?」

 張り詰めた声が飛んだ。

 同乗していた女刑事──南空ナオミが、ストレッチャーの脇に身を乗り出していた。

 沈着冷静を絵に描いたような彼女の顔に、明らかな焦りが浮かんでいた。

 その時──心電図の波形が途切れた。


 ピーッ──


 と一筋の直線音が、車内の空気を裂いた。

 「心停止!」「心拍ゼロ!」「コードブルー、AED準備!」

 救急隊員が叫び、ナオミが言葉を失う。バッグバルブが取り外され、胸骨圧迫が始まる。

 車体は激しく揺れている。だが躊躇いはない。AEDのパッドが炭化しかけた胸に貼り付けられた。

 「充電完了──ショック行くぞ!」

 「離れて!」

 バシン、と乾いた音が車内に響いた。

 Bの身体が痙攣するように一度跳ね、沈黙が訪れた。

 次の瞬間──モニターが再び微弱な波形を描いた。

 「戻った……!微細波形、心拍回復!」

 「戻ってる、でも不整脈。持たないぞ、早く病院に──!」

 だが、蘇生直後の空気の中で、背後からもうひとつの声が割って入る。

 背後に座っていた青年が、ポケットから携帯を取り出していた。

 赤い髪を後ろに流し、横髪を三つ編みにした異様なスタイル。救急車の白い光の下で、その姿は浮世離れしたほど整っている。しかし、その目の奥には危うさが宿っていた。

 彼の名前は、ドクター・マキナ。

 20歳そこそこにして医師免許を持つ、天才と呼ばれる男。

 その口元に浮かぶ笑みは、医師のものではなく、獲物を前にした捕食者のそれだった。

 ワンコールも鳴らないうちに、応答があった。

 〈──Lです〉

 マキナは薄く笑いながら言った。

 「……『マザー』。こいつを生かすつもりか?」

 一瞬の沈黙。

 通話口の向こうで、かすかに空気がざらついたように感じた。

 Lの声色が、僅かに低くなる。


 〈……その呼び方はやめていただきたい〉


 ははっと軽くあしらうと、マキナは顎で、炭化した血肉の塊と化したビヨンド・バースデイを指した。

 「……この男、本当に生かすのか?」

 短い間があって、通話口からLの声が返る。

 〈生かせそうですか?〉

 マキナは一瞬だけ、目を閉じ、そして開いた。

 焼け焦げた男の顔をもう一度見下ろす。

 「……生きてるのが奇跡って感じかな」

 低い声が、車内に落ちる。

 「いや、奇跡どころの話じゃない。有り得ない」

 ナオミが顔を上げた。救急隊員も手を止めそうになる。

 マキナは淡々と続けた。

 「なにが有り得ないって……──目だけが、生きてるんだよ」

 炭化した皮膚の奥、濁りきったはずの瞳がまだかすかに光を宿している。呼吸も循環も、すでに限界を超えているのに──眼球だけが死を拒んでいた。

 「医学的に説明不能だ。これは、奇跡に等しい」

 マキナは呟き、次の瞬間、声を潜めて言った。

 「……この男、いくらだ?何万ドルでも払う。俺に譲ってくれないか」

 救急隊員たちが凍り付く。

 ナオミの顔から血の気が引いた。

 「──な、何を言って……」

 通話の向こうからも、Lの冷ややかな声が落ちた。

 車内の空気が凍り付いた。

 ナオミが息を呑み、救急隊員たちは目を逸らす。

 携帯の向こうで、Lの声がひどく冷ややかに響いた。

 〈……ドクター・マキナ。あなたは患者を、研究材料と勘違いしていませんか〉

 「──勘違いしてない」

 マキナは即答した。声に迷いは一切なかった。

 「むしろ──逸材だ」

 赤い瞳が細められる。

 「なぜなら、こいつは殺人犯だ。どうせ死刑だ。……だったら、俺が殺しても、実験材料に使っても構わないだろう?」

 「はあ?」

 冷ややかな理屈。

 その口調は医学的見解を述べるように淡々としているのに、背筋を這い上がるほどの狂気を孕んでいた。

 マキナはポケットから小型のペンライトを取り出すと、焼け爛れた顔の奥──その目に光を当てた。

 「……とんでもねぇな」

 瞳孔が反射する。生理的にあり得ないはずの反応が、確かにそこにあった。

 「なんで目だけ無傷なんだよ……」

 吐き捨てるように呟き、マキナは片眉をつり上げた。

 そして低く、確信めいた声で囁く。

 「──この目、人間のものじゃないな?」

 その言葉に、ビヨンド・バースデイの瞳が揺れた。

 かすかな動揺。

 焼け焦げた肉体が動かぬ中、その目だけが、真実を暴かれたように震えていた。

 マキナの口元に、獰猛な笑みが浮かんだ。

 「……解剖したいなぁ」

 呟きは独り言のようでいて、明らかにBに向けられていた。

 「その目ん玉……くり抜いて、俺のものにしていいか?」

 赤髪の隙間から覗く双眸が、狂気に輝いていた。

 「なあ……その目、俺に寄越せ」

 ペンライトがぎらつき、ベッドに横たわるBの眼球だけが生き物のように光を返す。

 呻き声が漏れた。

 「……っ……」

 拒絶とも恐怖ともつかぬ声。

 マキナの指先が、今にも目に触れようと迫ったその瞬間──

 「やめなさい!」

 鋭い声が空気を裂いた。

 ナオミだった。

 彼女はストレッチャーの脇に立ち、マキナの手首を叩き落とした。

 「あなた、医師でしょう!患者に何をしているの!」

 マキナは一瞬驚いたように目を丸くし、すぐに愉快そうに笑った。

 「……はは、いい顔するなぁ、ナオミ刑事」

 その笑みは、止められたことを咎めるのではなく──抵抗されたことに喜んでいるようだった。

 そこへ、携帯のスピーカーから抑揚のない声が割って入った。

 〈……ドクター・マキナ〉

 いつもの抑揚のない声だった。だが、続いた言葉には鋭い熱が混じっていた。

 〈あなたは医師です。患者を助けるためにそこにいる。その立場を忘れて、彼の命を奪おうとするなら──あなたはただの人殺しです〉

 マキナの笑みがぴたりと止まった。

 〈彼を生かしてください。解剖ではなく、治療を。あなたの技術はそのためにある〉

 ナオミが安堵の息をつく。

 だがマキナは、わずかに目を細めて携帯を握りしめた。

 「あんた……相変わらずだな」

 受話器を下ろすと、彼は焼けただれた男の頭に手を伸ばした。焦げた皮膚に触れることも厭わず、その頭を子供をあやすように撫でる。


 「……俺は、今すぐにでも殺してあげたいよ」


 吐息のような声が車内に落ちた。

 だがすぐに肩を落とし、皮肉げに笑う。


 「……Lに、負けたか」


 その言葉が終わるのと同時に、救急車が減速を始めた。

 窓の外に高い塀が現れる。ゲートが開き、サーチライトが白い閃光を浴びせる。

 ──カリフォルニア・メディカル・ファシリティ。

 担架はそのまま病院棟へと押し込まれ、マキナは白衣の袖を整えると、表情を切り替えた。

 「マザーの頼みなら断れん。──治療を始めよう」

 その声は落ち着いていた。だが誰も、その瞳の奥に燃える欲望を見抜けなかった──



 ● ●



 無影灯が落ち、鋭い光が手術台を照らす。

 「熱傷面積、体表の八割……Ⅲ度」

 アシスタントが声を震わせる。数字にして告げられるだけで、絶望を思わせる重さだった。

 「気管チューブ確認!酸素流量十リットル!」

 麻酔科医が叫ぶ。

 火災の熱と煙を吸い込み、気道は焼けただれ、腫れ上がっていた。挿管はギリギリ、チューブが通ったのは奇跡に近かった。

 「血圧、五十を切った!ノルアドレナリン上げろ!」

 循環モニターがアラームを鳴らし続ける。心拍数は不安定に跳ね上がり、次の瞬間には急降下する。

 「静脈路、確保困難!皮膚が炭化して針が通らない!」

 「なら骨髄に入れろ、脛骨からIO(骨髄注射)だ!」

 看護師がドリルで骨に穿刺し、生理食塩水と輸液を押し込む。

 「血漿製剤、急げ!赤血球濃厚液もだ!」

 全身の毛細血管は焼損し、循環血漿が漏れ出している。輸液しても、すぐに皮下へ滲み出してしまう。それでもやらなければ、血圧は維持できない。

 「壊死組織、デブリードマン(切除)開始する」

 マキナはメスを握り、黒く炭化した皮膚を切り裂いた。焦げた肉片の匂いが、手術室いっぱいに広がる。

 「このままじゃコンパートメント症候群で四肢が壊死する。……切れ」

 裂皮(エスカロトミー)。焼けて硬化した皮膚を切り開き、下の組織を圧迫から解放する。刃が通るたび、ジュッ、と熱を帯びた肉の音が立ち上がる。

 「……心拍、三十!心停止!」

 「アドレナリン投与!胸骨圧迫!」

 手術室の空気が一気に張り詰める。

 モニターが一直線のフラットラインを描く。

 「……戻れ!戻れよ!」

 マキナの手が胸骨圧迫に加わる。骨が折れる感触が掌に伝わっても、ためらう余地はなかった。

 AEDが準備され、パドルが押し当てられる。

 「三百ジュール、クリア!」

 ドンッ──患者の身体が小さく跳ねた。

 モニターが一瞬だけ脈を描く。

 「……戻った!心拍、四十二!」

 「だが、このままじゃ……」

 誰もがわかっていた。全身火傷八割以上──医学的には、救命率はゼロに等しい。

 それでも、手を止める者はいなかった。

 「血圧、また落ちてます!」

 「ノルアド再投与!乳酸リンゲル追加!」

 看護師の声が飛び交う中、マキナは額の汗を乱暴に袖で拭った。

 「……はっ、全身バーベキューじゃねぇか」

 吐き捨てるように言いながらも、手は止まらない。

 炭化した皮膚を切り裂き、焦げた肉片を鋭利に削ぎ落とす。

 「血管も神経も炭になってる……。動脈閉塞、静脈壊死、筋膜も全部アウト。……普通はここで“終わり”だ」

 モニターが不規則に跳ねる。波形が消えかけるたび、マキナは舌打ちをして薬を指示した。

 「俺の腕なら助けられる?──俺の手は神の手じゃねぇぞ、笑わせんな。これはもう、死神に首の根っこ掴まれてんだよ。……それを無理やり引き剝がせってか」

 鉗子を強く握り、焦げた組織を切開する音がいやに響く。

 「……ったく、Lのクソ野郎め。あんたの命令だから従ってやってるがな……」

 声は低く、苛立ちと諦めの混じった吐息のようだった。

 「俺なら“殺してやる”ほうがよっぽど慈悲だと思うぜ」

 だが、手術器具を操る指先は恐ろしいほど正確だった。愚痴を垂れながらも、誰よりも執拗に血流を確保し、壊死組織を切除し、肺への酸素供給を必死に繋ぎ止めていた。

 「……クソッ、こんな使いもんにならねぇ後継者生かしてどうすんだ。俺のモルモットにしたほうが百倍マシだろうが……」

 マスクの奥で呟き、笑うのか呻くのかわからない声を漏らしながら。

 「……よし、デブリードマン完了。壊死組織、残さず切除」

 助手が器具を受け取る。緊迫した空気の中で、マキナの声だけは妙に落ち着いていた。

 「皮膚欠損は……全層。移植は不可能。人工真皮を貼るしかねぇな。──持ってこい、全在庫だ」

 「は、はい!」

 看護師たちが慌ただしく走る。

 「血圧は?」

 「……70台で不安定です!」

 「なら昇圧剤追加。輸血はOマイナスを全量、すぐにだ。……心筋が焼けてても、このくらいの拍動は持つはずだ」

 まるで当然のように言い切る。

 マキナの手元は狂うことなく正確にビヨンド・バースデイを繋ぎ止めていく。

 血管吻合は髪の毛よりも細い糸で、焼けた静脈と人工血管を繋ぎ合わせ、失われた気道は人工気管で補強し、呼吸を確保する。

 常識では不可能とされた処置を、彼は次々と現実にしていった。

 「──な?俺は殺すのも解剖も得意だが、生かすのも得意なんだよ」

 唇の端を吊り上げる。

 「クソッタレな話だがな……こんな奴でも、俺にかかりゃ生きちまう」

 モニターが再び安定した波形を描き始めた。

 脈拍は規則的に戻り、血圧もわずかに上昇する。

 Bの身体は、ぎりぎりのところで「死」から引き戻されていた。

 「悪ぃな、助けちまって。お陀仏にしてやりたかったが、あんたはまだ死ねないみたいだぜ」

 皮肉げに笑いながらも、マキナの瞳はぎらぎらと輝いていた。

 「……まっ、生かしてやったんだ。感謝しろよ、『ビヨンド兄さん』」



 ● ●

 


 ──長い手術が続いた。

 全身に及ぶ壊死組織の切除、人工皮膚の移植、呼吸補助のための気管切開。体中にチューブが通され、無数の管が機械と繋がれていく。

 それでも、心拍はかろうじて安定を取り戻し、ボロボロではあるが、男はベッドに横たわっていた。


 ビヨンド・バースデイ。


 モニターの電子音が一定のリズムを刻む。

 その傍らで、ドクター・マキナはカルテに手を走らせていた。

 「……医学的に説明できない」

 マスク越しに呟く声は低く、冷静だった。

 「全身Ⅲ度熱傷、視神経はとっくに焼け落ちてるはずだ。普通なら目玉なんざ灰みてぇに濁って、溶けてる……。だが……眼球そのものには損傷がない」

 マキナは片手でライトを持ち、焦げ跡の残る瞼を持ち上げる。

 濁っているはずの角膜は透明で、虹彩はわずかに光を返した。

 「無傷どころか……生理反応が異常に強い。まるで眼球だけが、他の組織とは別の生命活動をしているようだ」

 カルテに書き留めながら、ふとペンが止まる。

 「……それに──」

 赤い髪を揺らし、マキナは身を屈める。

 「なぜお前は……その状態で死なない?」

 声が低く、熱を帯びていた。

 「呼吸は止まりかけ、循環も限界を超えてる。なのに……お前、生きてるじゃねぇか。……不死身なのか?」

 焼け爛れた肉体を、興味の対象としか見ない視線でなぞる。

 「お前の身体……どうなってんだよ」

 マキナは唇を吊り上げ、耳元で囁いた。

 「なあ、ちょっと……解剖させてくれよ」

 Bの瞳がかすかに揺れ、ふいっと逸らされた。

 拒絶。

 「……なんだよ、つれないな」

 マキナは口元を歪め、声を潜めて続けた。

 「他人を殺しておいて……自分は清く死ねると思うなよ」

 手が頭に置かれる。子供を諭すように撫でながら、吐息混じりに告げる。

 次の瞬間、赤い瞳が怪しく光る。

 「……俺が殺してやってもいい」

 にやりと笑う。

 「だが──お前の“目”には興味がある」

 指先で瞼の縁をなぞりながら、恍惚とした声を落とした。

 「だから、生かしてやる。俺のために……な」

 マキナはライトを消し、しばし黙り込んだ。

 そして、不意に口元を歪めると、ベッドの脇に腰を下ろした。

 「なあ、B」

 まるで旧友にでも話しかけるような調子だった。

 「……なんで事件を起こした?」

 Bの顔は炭化した肉の仮面と化していたが、その奥の瞳だけが、わずかに動いた。

 問いから逃れるように、光を逸らした。

 マキナはその仕草を見逃さない。

 「おい、何目逸らしてやがる。こっち見ろ」

 ぐいっと、片手で顎を掴み上げた。

 焼けただれた皮膚が軋む音がして、Bの顔が無理やりこちらへ向けられる。


 「……白状してから死ねよ」


 その言葉は冗談ではなく、心底からの要求だった。患者を助ける医師の声ではない。──解剖台に縛り付けられた実験体に向ける研究者の声だった。



 ● ●



 ──ビヨンド・バースデイの脳裏に、かすかな記憶が滲む。炎に焼かれた視界の奥で、幼い日の庭の光景が蘇った。


 ワイミーズハウスの広い庭。

 そこに迷い込んだのは、一匹の野良猫だった。

 痩せ細り、骨ばった背中。人間の影に怯えるくせに、餌を求めて近づいてくるその姿。

 誰も構わなかった猫に、毎日パンを分け与えていたのが──Aだった。

 「食べなよ」

 Aはいつだって笑っていた。

 ある朝には、自分の皿にあったトーストをそのまま懐に隠して持ち出した。

 「僕はいいんだ。君が食べなよ」

 そう言って、冷たいミルクと一緒に猫へ差し出した。

 Bは、その横顔をじっと見ていた。

 ──初めて自分を“友達”だと思ってくれた人間。世界のすべてが敵に見えていた自分に、ただ笑って手を伸ばした存在。


 だが、ある日。

 猫は車に轢かれ、道端に転がるただの肉の塊になった。Aはその小さな亡骸を抱きしめて、何時間も泣き続けた。子供が泣き疲れて眠るまでではなく、本当に、声が枯れるまで。

 ──どれほど慈悲深く、どれほど優しい心を持っていたか。

 そのとき、Bは悟った。

 「ああ、この人は……生きるには優しすぎる」と。

 そして事実──Aは死んだ。

 Lの後継候補に選ばれた瞬間。

 「何万という命を抱えて、その頭脳を使え」と命じられたとき。

 Aはその重みに押し潰され、自ら命を絶った。

 ワイミーズハウスでは有名な話だ。

 ──Aの死。

 その衝撃は施設全体を揺るがし、誰もが言葉を失った。

 Aを慕う者は多かった。

 皆Aが大好きだった。

 まるで皆の兄のように、優しく、強く、完璧だった。

 ──しかし、彼には甘える相手がいなかった。

 皆の支えであり続けるAには、誰ひとりとして寄りかかることは許されなかった。

 だからこそ。

 唯一心を明かしてくれたのが、二番目にやってきた少年──Bだった。

 弟のように可愛がられた。

 無邪気に笑って、時に一緒に悪戯をして、どこにいても彼の隣に立つことが許された。

 Bにとっても、それは救いだった。

 「死ねばまた会える」と、何の疑いもなく信じていた。


 ──なのに。


 診察室の白い灯の下。

 ドクター・マキナが欠伸を噛み殺し、片腕を大きく伸ばした。

 袖口から覗いた腕時計が、ぎらりと光を放つ。

 その瞬間。

 Bの目が大きく見開かれた。

 ──それは。



 世界にひとつしかない、Aの腕時計だった。



 「……っ」

 Bの焦点が、ぎらつく金属に釘付けになる。

 息が荒くなる。声にならない声が喉の奥で掠れた。

 「ん?」

 マキナが視線に気づき、にやりと笑った。

 「なぁに見てんだよ」

 腕をわざと持ち上げ、時計の文字盤を光にかざす。

 「そんな熱い視線で見られたら──俺まで焼けちまうぜ」

 軽口。ふざけているようで、だがその言葉の一つ一つがBの心を抉る。

 Bの目がわずかに震え、かすかな呻きが喉から漏れた。

 Aの遺品を当然のように腕に巻き、揺らすように見せつけるその仕草は、あまりにも無神経で、あまりにも挑発的だった。

 マキナは椅子のキャスターを軽く蹴って、ベッドの横に滑り寄った。

 「……さて。そろそろ検査するぜ──まずは形だけでも“医者”らしいことをやっとかねぇと」

 マキナは白衣のポケットからペンライトを取り出した。

 患者がどんな状態であれ、最初に確認するのは“瞳孔反射”。意識や神経の機能が残っているかどうか、最も基本的で確実なサイン。

 ──ただし、この男に関しては、理屈のほうが先に崩れていた。全身がⅢ度熱傷で、視神経は炭と化している。反応があるはずがない。

 それでも、マキナは口角を吊り上げた。

 「基本。瞳孔反射……普通なら脳幹を介して反応する。けどお前……神経、焼けてんだろ?」

 焼け焦げた瞼をぐいと持ち上げ、光を差し込む。

 ──瞳孔は、律動的に収縮した。

 マキナの目が爛々と輝いた。

 「……おかしいなぁ。断線した電線が、勝手に電気通すようなもんだぞ」

 マキナは立ち上がり、壁際の機材へと歩いた。

 そこに鎮座しているのは、灰色の筐体にモニターを備えた眼科用装置──OCT(光干渉断層計)。

 「これはな、光を干渉させて網膜の断面を“生きたまま”覗き込む機械だ。顕微鏡でも解剖でもなく──切らずに奥の構造が丸見えになる」

 彼は機械を軽々と患者ベッドの傍まで転がしてきた。

 「網膜の層がどう並んでるか、神経線維が生きてるか、血管が詰まってるか……ぜーんぶバレちまう。便利な機械だぜ」

 傷だらけの顔の前にOCTのスキャンヘッドをぐいと押しつけ、強引に光学アライメントを合わせる。

 機械が低い電子音を立て、断層像がモニターに描き出された。

 「……はは。おいおい、これは──」

 マキナの赤い瞳が愉悦に細められる。

 モニターに映った像は、常識を逸脱していた。

 本来なら幾重にも層をなしているはずの網膜が、不規則にうねり、まるで『人間の遺伝子配列に似て非なる“別のコード”』を組んでいるかのように。

 血管像も異様に発達しており、通常では考えられないほど強固に眼球を栄養していた。

 「人間の目じゃねぇな……。この眼球だけで、臓器が“永遠”に持つかもしれねぇ」

 マキナはOCTの画面を乱暴に閉じると、新しい機械を持ち込んだ。

 「次はERG(網膜電図)だ。光を当てて、網膜が電気信号を出すかどうか測る。……つまり“見えてるか”を直接確認する機械だな」

 ゴーグルのような電極をBの顔に装着する。

 「普通なら……全身Ⅲ度熱傷、視神経焼損。網膜の電気活動は消えてる。ゼロだ。波形が出る余地なんてない」

 装置のスイッチを押した。

 ピカッ。

 閃光刺激が繰り返されるたび、モニターに波形が走った。

 「……っ……ははははっ!」

 マキナの肩が震える。

 「ゼロどころか……人間の百倍はデカい振幅だぞ……。神経が焼き切れてんのに、どうやって伝達してんだ……?こりゃ……」

 だが、次の瞬間。

 モニターのグラフが異常に膨れ上がり、まるで脈打つ心臓のように振動を繰り返した。

 「……な……っ!?ば、馬鹿な……!」

 マキナの笑みが消えた。

 赤い瞳が見開かれ、額に汗がにじむ。

 「網膜だけじゃない……!眼球全体が、まるで生き物の器官みてぇに、単独で発電してやがる……。おい、どうなってんだこれはっ……!」

 椅子を蹴って立ち上がり、モニターに顔を近づける。

 「視神経は死んでんだぞ!?繋がるはずがねぇ!なのに……脳にフィードバックが走ってる!?こんなもん……生物の仕組みじゃねぇぞ……!」

 あのマキナが同様している。

 両手では数え切れないほどの死刑囚や動物を解体してきたマキナにとって、これは異例の自体だった。

 「お前……何者だ?」

 モニターの波形を背に、マキナはじり、とベッドに歩み寄った。

 「その目……どこで手に入れた?何をした? 薬か?遺伝子改造か?それとも──義眼の最新技術か?」

 返答はない。

 ただ、焼け爛れた唇から、掠れた呼吸音が洩れるばかり。

 マキナは額に手をあて、狂ったように笑った。

 「いや、違う……そんなレベルじゃない……」

 眼球は完璧に視神経と融合し、まるで生まれたときからそこに存在していたかのように綺麗に繋がっている。

 「こんなもん、神の目としか言いようがねぇ……」

 だが──マキナの笑みがふと止まり、低く唸るように声を落とした。

 「……まさか。お前」

 ベッドに身を乗り出し、Bの顔すれすれに迫る。

 「生まれたときから──その目、だったなんて……言わねぇよな?」

 包帯でぐるぐる巻きにされた顔の奥から──

 「く……くくくく……」

 炭化した喉を震わせるように、笑いが漏れた。

 マキナの赤い瞳が一瞬、大きく見開かれる。

 「……ッ!?」

 彼は思わずガタリと音を立てて後ずさり、壁に肩をぶつけた。

 震える手で口元を押さえ、掠れた声を吐き出す。

 「……ありえねぇ……ッ」

 心拍計の電子音が無機質に響く中、Bの笑いだけが不気味に室内を満たしていた。

 マキナは、額に浮いた冷や汗を拭いもせず、瞳を爛々と輝かせた。

 「やっぱりだ……やっぱり……。解剖したくて堪らない」

 舌で唇を湿らせながら、モニターとカルテを何度も見比べる。

 「この目……いや、この遺伝子……!ただの変異じゃない。人間の枠から逸脱してやがる……。こいつを開けば──不死身の臓器の答えが見える」

 自らの声に酔うように、机を叩きながら独白を続ける。

 「永遠に動く心臓、死なない細胞……!夢物語じゃない。こいつの中に“因子”がある……最高のサンプルだ。俺の研究を完成させる因子が!」

 マキナの呼吸は荒く、まるで恋人を前にした青年のように熱を帯びていた。

 「しかし、どうする?摘出はしたくない……視神経と融合してる今の状態を壊したら終わりだ。生きたまま……生かしたまま解剖しなくては……ッ」

 しかし──彼の表情に影が差す。

 「だが、ここは警察病院……警察共がうじゃうじゃいる目の前で、勝手に切ったら俺が捕まる」

 握りしめた拳が小刻みに震えた。

 「……クソッ……こいつが死ぬのを待つしかないのか?……いや……いやだ。今、生きてるうちに……この奇跡を逃すわけにはいかねぇ」

 彼は机の上の器具を一つ一つ手に取りながら、震える声で呟いた。

 「やれることは……全部やる。DNA、血液、眼底、組織サンプル……全部、残してやる……!どんな手を使ってでもな」



 ● ●



 白い蛍光灯の下、アリスはカルテを睨んでいた。

 ページをめくるたびに眉間の皺が深くなる。

 「……おかしい」

 小さく呟いた声は震えていた。

 血液検査の結果、DNA鑑定の数値、細胞培養の反応──どれも通常の人間ではあり得ない。

 「血液型の一致率が……存在しない?全世界のデータベースに、どれも該当がない……」

 ペンを走らせながら、彼女は記録を確認する。

 「染色体の並び……人間の遺伝子に類似しているけど、一部が……未発見の配列……」

 アリスは手を止めた。

 カルテの脇に置かれた眼球のスキャン写真──そこにはあり得ないほど澄み切った角膜と、光を捉えて離さない虹彩が写っていた。

 「……これは、ただの突然変異じゃない」

 通常、人間のDNAは23対の染色体から構成されている。だが、Bのサンプルではその一部に──人類のゲノムデータベースに存在しない“未知の塩基配列”が組み込まれていた。

 「免疫系の反応もおかしい……外傷や感染に対して、炎症反応がほとんど出ない。細胞死のシグナルが働いていない……まるで壊死しない身体……」

 アリスはカルテを閉じて、手を組む。

 「……これ、人間じゃない。人間の皮を被った別の種」

 思わず背筋が冷える。

 「もし、これが本当に遺伝子レベルの“別種”だとしたら……生まれた時点で、病院には異常なデータが残っているはず」

 アリスは震える指でメモを書き加える。

 「出生時の染色体検査……臍帯血の保存……母体データ……」

 彼女の脳裏に浮かんだのは、Bが生まれた病院。そこに初期データがあるはず。

 「……でも、そんなの、調べられるの……?」

 アリスは自分で口にした疑問に眉を寄せた。出生データや臍帯血の保存は病院に残ることもあるが、20年以上前のものが追跡可能なのか。それ以前に自分にそんな能力も権利もない。

 無理か。

 いや──

 「Lなら……調べあげられる……?」

 ふと頭をよぎったその可能性に、胸の奥がざわめく。

 カラカラカラ……。

 背後で椅子が軽やかに回転する音がした。

 振り返ると、マキナが椅子に腰かけ、無造作にくるくる回っていた。片肘を背もたれに掛け、赤髪を揺らしながら、じっとこちらを眺めている。

 その視線は、観察対象を測る研究者のものだった。

 アリスは思い切って声をかけた。

 「……そういえば、ドクター」

 「ん?」

 「ドクターは……Lと、直接連絡が取れるんですよね?」

 「取れるぜぇ〜……」

 マキナはポケットから携帯を取り出し、ひょいと指先で振ってみせた。

 くるくる回る赤髪に合わせて、銀色の端末が光を弾く。

 「なんだよ、そんなに見つめて」

 片目を細め、にやりと笑う。

 「俺よりも──世紀の名探偵様のほうがいいってか?」

 わざとらしく肩をすくめ、椅子から身を乗り出す。

 「なぁアリス。連絡取りたいなら──まずは俺を通せよ。俺を喜ばせてくれたら、考えてやらなくもない」

 軽口。だがその奥に、ぞっとするような悪意が潜んでいた。

 「手始めに……そうだなぁ」

 マキナの指先が伸び、アリスの胸元を軽くつついた。

 「俺に、その心……預けてみないか?」

 赤い瞳がいやらしく細められる。

 アリスは一瞬絶句し、そして深く息を吐いた。

 「……ふざけないでください」

 呆れたような声。だが、その手は無意識に後ろへ引かれていた。

 「ふざけちゃいねぇよ」

 マキナは笑みを崩さないまま、すっと彼女の両手を掴んだ。

 「俺は本気だぜ、アリス」

 ぐっと距離を詰める。白衣の胸元から香る消毒液の匂いに、彼女は反射的に顔を背けた。

 「……俺と結婚してくれよ」

 囁きは甘く、それでいて冷たかった。

 マキナはアリスの耳元に顔を寄せ、両腕を顔の横でがっちりと拘束する。

 逃げ場を与えない、獲物を追い詰める捕食者の姿。

 「俺となら、退屈しねぇ。なぁ……アリス」

 息がかかるほどの距離で、彼は笑った。

 アリスは目を閉じ、必死に声を絞り出した。

 「……それは……私が“兄の妹”だからですか?」

 一瞬の沈黙。

 やがてマキナの口元が、ぞっとするほど冷酷に歪む。



 「……それ以外に、何がある?」



 ためらいもなく。まるで当然の理屈を言うかのように。赤い瞳が光を宿し、彼はさらに顔を近づけてきた。

 その瞬間、ばしんっ──!

 乾いた音が病室に響いた。

 アリスの手のひらが、マキナの頬を強く打っていた。

 「……っ!」

 マキナは一瞬、驚いた顔をした後、わざとらしく頬を押さえ、

 「あいたた……」

 ふざけた調子で笑った。

 「俺を叩くってことは……」

 赤い瞳が細められる。

 「お前も叩かれる覚悟があるんだな?」

 その手が彼女の首にかかる。

 指先が喉元を軽く締め上げ、もう片方の手が高く振り上げられた。

 「歯ぁ食いしばれ。舌噛むぜ」

 「ひっ」

 アリスは涙を滲ませ、ギュッと目を瞑る。

 張り詰めた一瞬の沈黙。

 ──そして。

 「……なぁんてな。冗談だよ」

 アリスの頬に軽くキスを落としたマキナは、にやりと口角を上げた。

 「怖かったか?」

 首にちゅっとキスを落とす。

 「でも、癖になっちまうだろう?俺で興奮したか?」

 アリスはキッと赤い顔で睨むと、マキナは心底楽しそうに笑った。

 「まっ、叩いたことは許してやるよ」

 だが、すぐに首を傾け、赤い瞳で彼女を射抜いた。

 「……ただし」

 喉を撫でるような声。

 「俺に、キスしてくれたらな」

 そう言って、彼は自分の頬を指先でトントンと叩く。

 「ほら……早く」

 アリスは目を見開き、言葉を失った。

 「……っ」

 視線を逸らし、唇を噛む。

 「……最低です」

 かすれる声を残して、渋々と顔を近づけ──頬に小さな音を立ててキスを落とした。

 「……ちゅっ」

 マキナはその瞬間、ぞくりと肩を震わせて笑った。

 「……ああ、いいね。その顔。たまんねぇな」

 マキナは頬に残る感触を愉しむように目を細め、にやりと笑った。

 その手の中で携帯が小さく光っている。

 「……あれぇ?もしかして──ずっと通話中だったか」

 わざとらしく携帯を耳に当て、口角を吊り上げる。

 「マザー、見てたか?俺のアリス、えっちだったろ?」

 「なっ……!」

 アリスの顔が一瞬で真っ赤に染まる。

 涙目で携帯を見つめ、かすれ声を漏らした。

 「……Lさん……」

 受話器の向こうから、いつもの抑揚のない声が響く。

 〈……セクハラですよ〉

 わずかに温度を下げた口調で、Lは冷ややかに言った。

 〈私はあなたの低俗な遊びに付き合っている暇はありません。こちらには“やるべきこと”が山ほどあるのです〉

 マキナは肩を揺らし、悪びれもなく笑った。

 「やるべきこと?世界中のアダルトサイトでも漁ってんのか?」

 その一言に、病室の空気がぴしりと張りつめた。

 アリスは顔を覆い、絶句する。

 「っ……最低……!」

 受話器の向こうで、わずかに沈黙が落ちる。

 そして、冷たい声が返ってきた。

 〈……ドクター・マキナ。あなたの口の軽さには本気で辟易します〉

 Lの声音は平板でありながら、明らかな苛立ちが混じっていた。

 〈こんなのが“D”を名乗っているなんて……ありえない〉

 マキナは赤髪をかきあげ、にやりと笑った。

 「ホントだよなぁ」

 受話器を肩に挟み、カルテをペラペラとめくりながら気の抜けた声を出す。

 「あんたみたいな──頭だけの無知探偵が“L”名乗ってるなんて、ありえねぇよ」

 軽口。だが、その声音には侮蔑が混じっていた。

 アリスは息を呑み、思わずマキナを見た。

 受話器の向こう、Lはしばし沈黙を保った。

 その静けさが、かえって不気味な圧を生んでいた。


 〈……言いたいことはそれだけですか?〉


 「いや、まだある」

 カルテをぱらぱらとめくりながら、マキナはさらりと言葉を差し込む。

 「──なぁ、マザー。Bが生まれた病院って、どこだ?」

 〈……はい?〉

 少しばかりLの声に混じった訝しさ。

 「出産時のデータだよ。出生記録、臍帯血、何か残ってねぇか?」

 〈……犯人が生まれた病院?〉

 Lは淡々とした声で返す。

 〈そんなもの調べたことはありません。必要性を感じたこともない〉

 マキナは肩をすくめ、鼻で笑った。

 「だろうな」

 Lがわずかに間を置く。

 〈……まさか、ビヨンド・バースデイの出生記録が欲しいのですか?〉

 「違ぇよ」

 マキナは即座に否定し、赤い瞳を細める。

 「欲しいのは──“母親”の方のデータだ。妊娠中の検査、血液、臍帯……全部だ」

  〈……そんなものを集めて、何に使うつもりですか〉

 Lの声は変わらず平板だが、わずかな警戒が滲んでいた。

 マキナは鼻で笑い、カルテを閉じて受話器を持ち直す。

 「決まってんだろ。──あいつの“目”だ」

 声が低く、興奮を抑えているのが分かる。

 「普通じゃない。人間の目じゃねぇ。視神経は焼けてるのに反応するし、光を食ってるみたいに網膜が生きてる。視力検査もやったが──3.6、ありえねぇ数値だ」

 赤い瞳が獲物を狙う猛獣のように光る。

 「……後天的に得られた目でも無いようだし……生まれつきみたいだぜ。一体あいつの母親は何をしてた?どこの人間だ?」

 Lは短く沈黙し、低く答えた。

 〈……わかっているのは、彼の母親は、まだ幼い頃──列車の横転事故で亡くなっています。それ以上の情報はありません〉

 「……その母親、本当に死んだのか?」

 マキナはじっと受話器を見つめる。

 「目だけ生きてたり……しなかったか?」

 〈そんなわけないじゃないですか〉

 Lの声は淡々としているが、少しだけ冷ややかだ。

 〈あなたは“神の目”でも信じているんですか?〉

 マキナは鼻で笑った。

 「信じたくなかったがなぁ……」

 視線はカルテの写真に落ちる。そこには、焦げた顔の奥でまだ輝きを失わない双眸があった。

 「……こうやって目の前に現れちまったら、認めざるを得ないだろ」

 受話器を耳に押し当て、声を低く落とす。

 「──いいから母親を探し出せ。残骸でも、血でも、何でもいい。全部引っ張ってこい」

 〈……、無茶を言わないでください〉

 Lの声が一段冷たくなる。

 〈彼の母親は既に亡くなっています。列車事故の犠牲者です。遺体は焼損し、データも散逸しているはず。……いくら世界規模で調査できるとはいえ、生態情報を今さら掘り起こすのは不可能に近い〉

 「不可能?──Lがそんな言葉使うとはな」

 マキナは鼻で笑い、赤い瞳を細める。

 「いいからやれよ。世界中ひっくり返してでも、母親の“痕跡”を見つけろ」

 〈ドクター・マキナ……あなたは医師でありながら、命令口調をやめるつもりはありませんか〉

 「やめるわけねぇだろ」

 低く嗤いながら、机を指先でトントン叩く。

 「──俺にとっては、これは世界で一番重要なオペだ」

 短い沈黙。やがて、Lの声がひどく重たく落ちてきた。

 〈……わかりました。やるだけはやってみます。しかし、期待しないでください。あなたの要求は前例のないほど異常です〉

 「異常上等──期限は一日だ」

 〈……っ、はい?〉

 「聞こえただろ。最短一日で母親を見つけ出せ。骨の欠片でも血痕でもいい。臍帯が冷凍庫に残ってりゃ最高だ。何でもいいから、とにかく持ってこい」

 通話口の向こうで、Lが珍しく言葉を失った。

 〈……正気ですか。数十年前の犠牲者を、一日で探せと?〉

 「ああそうだ。寝ずに食わず、目の下隈だらけになっても探せ。俺の命令は絶対だ」

 〈……あなたは本当に無茶を言う〉

 Lの声はいつになく低く、わずかな苛立ちが滲んでいた。

 〈世界規模で情報網を動かすことはできますが……結果が出る保証はありません。それでも私にやれと?〉

 「──これは遊びじゃねぇ。ビヨンド・バースデイの目は、医学を超えた存在だ。母親を知ることが、その謎を解く鍵になる」

 少しの沈黙。やがてLが深いため息を吐く。

 〈……わかりました。やれるだけやってみましょう。しかし──責任は取りませんよ〉

 「責任なんざいらねぇ。──てめぇはいつでも解答だけ持ってこい」

 


 ● ●



 後日。

 Lは本当にたった一日で結果を出した。

 「──驚いたよ」

 カルテを受け取ったマキナは、端末に表示されたファイルをざっとスクロールする。

 妊娠経過、血液検査、出産記録、母体の既往歴──

 どれも、何の変哲もない。

 異常値もなく、先天的な遺伝病も見られず、あまりにも普通すぎる。

 〈ご覧の通りです。母親の記録に目立った点はありません。事故死したという事実も確認済み。臍帯血も、標準的な保存期間を過ぎて廃棄されています〉

 「……クソ、拍子抜けだな」

 マキナは顎を掻き、鼻で笑った。

 「こんなもん、普通の母親から生まれた人間のデータだ。──なのに、あの目かよ」

 マキナは端末をパタンと閉じ、赤い瞳を細めた。

 「……こりゃあもう、子孫ども掻っ攫ってDNA鑑定だな」

 ペンを指先でくるくる回しながら、わざと軽い調子で言い放つ。

 「それか──あいつに子供を産ませるか」

 〈……〉

 通話口の向こうで、Lが沈黙した。やがて、冷ややかな声が返る。

 〈ついていけません。あなたの発想は常軌を逸しています〉

 マキナは声を立てて笑った。

 「逸してんのはいつものことだろ?俺が普通だった試しがあるか?」

 Lの声が低く響く。

 〈……なぜそこまで、その目を知りたいのですか〉

 マキナは顎を掻き、ペンを回しながら口角を上げた。

 「決まってるだろ。俺は──『無限の命』が欲しい」

 その声にはいつもの軽さはなく、異様な熱があった。

 「ビヨンド・バースデイの目は無傷だった。全身が炭みたいに焼けても、あの双眸だけは無傷だった。──仕組みと構造さえ分かれば、永遠の心臓が出来るかもしれない。人間は死なない生き物になる……初めて、人類は“生き物”をやめて、不死身になるかもしれない」

 Lは短く息をついた。

 〈……妄想にしては、ずいぶん執着していますね〉

 マキナはふっと鼻で笑い、しかしすぐに目を細める。

 「……覚えてるか?Aのこと」

 Lの沈黙を無視して、続ける。

 「忘れたなんて言わせねぇ。あいつは誰よりも賢く、優しかった。荒くれ者ばかりのワイミーズで、唯一俺を庇ってくれた人だ。俺にとっては……神そのものだった」

 声がわずかに低くなる。

 「でもな。あのAが“L”になった瞬間、壊れた。世界の重みを背負わされて、自分を押し潰して……自害した」

 赤い瞳が鋭く光る。

 「──俺は許せなかった。そんな世界も……お前もだ」

 吐き捨てるような声に、怒りと悔しさが滲む。

 「Aの死を受け入れられなかった。……だから“復活させたい”」

 ペンが机に転がる。

 「ビヨンド・バースデイの目の正体さえ分かれば、無限の命も臓器も作れるかもしれねぇ。死んだ細胞を蘇らせて、人間を“壊れない”状態にできるかもしれない。後継者だの探偵だの──もういらねぇ」

 その声は確信に満ちていた。

 「マザー、“あんたが死んでも、生かし続けられる”。世界の秩序も、人の寿命も、俺の手で塗り替える。……無限の命を、この手にするため──」

 〈……戯言です〉

 Lの声は静かだったが、その芯は鋼のように揺るぎなかった。

 〈命に限りがあるからこそ、人は恐れ、愛し、後悔し、成長します。死は悲劇ではなく、人を人たらしめる絆です〉

 声色がわずかに強まる。

 〈あなたの望む“無限”は、ただの支配です。終わりなき命は価値を失い、善も悪も形骸化する。人間の選択も努力も、すべてが無意味になるでしょう。そんな世界に、価値も希望も存在しません〉

 わずかに間を置いて、Lは低く告げた。

 〈……だからこそ、私は止めます。あなたがどれほどの知恵と腕を持とうと、人を神に変えることは許されません〉

 マキナは笑みを深め、携帯を握りしめた。

 「……なぁマザー。あんたは神になりたくねぇのか? 死ぬのが怖くないのか?」

 Lは即答した。

 〈怖くありません〉

 いつもの抑揚のない声なのに、揺らぎは一切なかった。

 〈生命には限りがあるからこそ、命は意味を持ちます。私もまた、その例外ではないのです〉

 マキナの赤い瞳がわずかに細まる。

 「……化け物みてぇな探偵が、ずいぶん悟ったこと言うじゃねぇか」

  〈化け物……ですか〉

 Lはわずかに間を置き、低く、だが確信を持って答えた。

 〈そうですね。私は人を殺す者を追い詰めるために、人ならざる覚悟を持ちました。しかし、だからこそ──誰よりも“命の重さ”を知っているつもりです……それはあなたも同じでしょう? ドクター〉

 マキナは小さく笑った。

 「ああ。……あんたと同じくらい、死者を見てきた。メスを握れば、死はすぐ隣にいる」

 指先で机を軽く叩く。

「もうな、死が近すぎて……まるで俺らの愛人みたいだ──」


 

 ● ●



 机の上は資料の山だった。被害者リスト、現場写真、司法解剖の報告書。

 南空ナオミはペンを握りしめ、報告書の入力画面を前にしたまま、指先を止めていた。


 ──あの人。

 竜崎ルエ。


 初めて会ったときの姿を思い出す。

 ベッドの下からヌルヌルと床を四つん這いで這いずりながら出てきた。イチゴジャムを舐めるように食べていた奇妙な男。

 「………………」

 赤ずきんチャチャが好きだと言っていた。

 異様、不可解、そしてどこか……憎めない。

 「……あの人は、悪い人じゃない」

 書類に視線を落としたまま、心の中で呟いていた。

 だが。

 視線の先のリストには、「BB連続殺人事件」の被害者名が並んでいる。

 イニシャルBB── ビリーヴ・ブライズメイド、ビリーヴ・ブライズメイド、クオーター・クイーン……そして最後の「ビヨンド・バースデイ」。

 皆、彼の手にかかって死んだ。

 抵抗の跡ひとつなく、ただ「死ぬべきだった」かのように。

 ナオミの手が震え、ペン先が紙を汚した。

 あの人だって、本当は被害者──

 いや──違う。

 あの人は、悪い人なんだ。

 殺人犯なんだ。

 被害者たちの命を奪った張本人なんだ。

 「……でも……」

 机に額を押しつける。心の奥底で、彼女はなおも否定できずにいた。

 彼は、誰よりも人間臭く、孤独で、奇妙な愛を持っていた。自分の無防備な問いかけにも、あの独特の調子で答えてくれた。

 報告書には「犯人」と書くしかない。

 だが、自分の目で見た「竜崎ルエ」は──捜査のためだけに存在した幻影なのか、それとも……。

 ナオミは両手で顔を覆った。

 「……私は、何を書けばいいの」

 その問いに答えられる者は、誰もいなかった。

 書類の前で手を止めていたとき、不意に机の上の携帯が震えた。

 表示された番号を見て、ナオミは一瞬呼吸を忘れる。


 ──「L」。


 受話器を取ると、いつもの抑揚のない声が耳に届いた。

 〈……南空ナオミさん。まずは礼を申し上げます。事件解決へのご尽力、感謝します〉

 ナオミは背筋を正した。

 「……いえ、私ひとりの力ではありません」

 〈それでも。あなたがいなければ、この結末には辿り着けなかった〉

 ほんの一瞬、迷ってから、彼女は口を開いた。

 「……あの、ビヨンド・バースデイは……大丈夫だったんですか?」

 声に滲んだのは、捜査官としてではなく、同乗した人間としての純粋な問いかけ。

 受話器の向こうで、わずかな間があった。

 〈……生きています。ですが、状態は安定しているとは言えません。医学的には“奇跡”と呼ばれる領域でしょう〉

 ナオミは受話器を強く握りしめた。

 「……なぜ、彼はあんな犯行を?」

 声は静かだったが、抑えきれない疑念と疲労が滲んでいた。

 「ただの快楽殺人にしては……あまりに整然としすぎていました。彼は一体……何を思って」

 受話器の向こうで、また短い沈黙。

 Lの声は平板だったが、その奥にわずかな苦味が混じっていた。

 短い間。ずずっとコーヒーを啜るような音声。

 〈──ビヨンド・バースデイについて、少し話しておきましょう〉

 ナオミの指が強張る。



 〈彼は、かつて私の後継候補のひとりでした〉



 「……!」

 声にならない驚きが漏れる。

 〈私の──いや、正確には「L」を継ぐための教育を受けていた子供です。知能指数、洞察力、記憶力……あらゆる観点で突出していた。だが同時に、彼は私を強く意識しすぎた。私を“超える”ことに囚われた。〉

 「……」

 ナオミの胸に、あの奇妙な顔が蘇る。

 〈結果、彼は逸脱しました。探偵としてではなく、挑戦者として。Lの名に挑むために、殺人へと手を染めたのです〉

 「、……」

 ナオミは震える声で、受話器を握りしめた。

 〈ビヨンド・バースデイは……いわば“私を映す鏡”でもありました。私の存在がなければ、彼は生まれなかった。彼の罪の半分は──私に帰すべきかもしれません〉

 その声音は平板だった。だが、確かな悔恨が混じっていた。

 「……L……」

 ナオミは言葉を探すが、何も出てこなかった。

 〈この事実は、報告書に記す必要はありません。あなたにだけ、伝えておきたかった〉

 「……L」

 ナオミは静かに息を吸った。

 「ビヨンド・バースデイは……犯人と呼べるんでしょうか?私には……彼が……『被害者』に見えるんです」

 受話器の向こうで、一瞬だけ無音が落ちた。

 やがて、低く抑えられた声が響いた。



 〈彼は──犯人です〉



 Lの声は淡々としていた。だが、そこには決して揺らがない確信があった。

 〈何人もの命を奪い、遺族を苦しめた事実は消えません。彼が抱えた苦悩や過去がどれほどであろうとも、その責任を軽くすることはできない。人を殺した時点で、彼は加害者であり、罪人です〉

 ナオミは唇を噛み、目を伏せた。

 Lの言葉は冷酷なまでに正しかった。

 〈ですが──同時に。彼が生まれた環境や、背負わされた重荷が異常であったことも事実です。それらを理解せずにただ断罪するだけでは、同じ悲劇は繰り返されるでしょう〉

 ナオミの胸に、重く苦い沈黙が広がった。

 Lの声は最後に少しだけ柔らぎ、落ちてきた。

 〈だからこそ、私は彼を“裁き”ます。憐れみではなく、法の元で──私がLである限り〉

 その一言は、重く、決定的な判決のようにナオミの心に刻まれた。



 ● ●



 職務室にて、慌ただしく看護師が一人入ってきた。

 「ドクター……!先ほど、患者さん──ビヨンド・バースデイに臓器移植の話をしてきたんです」

 「……ああん?」

 ペンをくるくる回し、カルテから顔を上げたマキナの眉がぴくりと動く。

 「で、で、本人が……“OK”って」

 「──はあッ!?!?」

 椅子を蹴り飛ばす勢いで立ち上がる。

 「ふざけんな! あれは俺のもんだ! 臓器移植ッ!? あげる気なんざ──これっぽっちもねぇぞ!」

 「ッ──」

 怒鳴り散らす声が廊下に反響した。だが、次の瞬間。

 マキナの表情が、ぴたりと止まる。

 (ん、待てよ)

 ──臓器移植。

 それはすなわち、あの“目”が他者に使えるかどうかを試す絶好の機会。

 「……。……誰に、渡すつもりなんだ?」

 わざと低く、冷静な声に戻して尋ねる。

 看護師は一瞬ためらい、しかし決意したように言葉を絞り出した。

 「……あ、兄に、です」

 その一言で、マキナの目がぎらりと光る。

 ──来た。

 この看護師の兄──それはワイミーズハウスで「二代目B」と囁かれた少年、『ワイズ』。

 「……いいだろう」

 急に落ち着いた声でそう告げると、マキナは小さく笑った。

 「承諾してやる」

 「ほっ、良かった」

 看護師が安堵して去った後。

 マキナは白衣のポケットから鍵を取り出し、研究室の奥にある端末を起動する。

 ワイミーズ専用のアクセスコードを打ち込み、監視網に隠されたファイルを呼び出した。

 画面に浮かび上がる文字列を見た瞬間、マキナの赤い瞳が細められた。

 『WISE BIEYES』──ワイズ・バイアイズ。

 かつて「二代目B」と呼ばれた少年の名だった。

 ファイルを開くと、記録が冷徹に並んでいく。

 ──未成年期に集団に拉致され、水晶体と角膜を摘出された。

 ──その結果、不可逆的な失明。

 ──真犯人は特定されず。

 記録を読み進める。

 “イカれた集団に襲われ、水晶体と角膜を摘出された少年”──

 「……は」

 マキナの頬がゆっくりと歪んでいく。

 「皮肉にもほどがある」

 笑いが込み上げた。

 端末の光に照らされながら、彼は腹の底から嗤った。

 「その“イカれた集団”の一員は……俺だぜ? ワイミーズ機関にいるからか、バレずにここまで来たが──この手で、その目を……摘出した」

 両手で顔を覆いながら、肩を震わせて笑う。

 ──その目を摘出したのは、他でもない自分。

 『死神の目を持つ』というから、欲求のまま、幼い少年の瞳を奪った。

 ──運命の悪戯か、必然か。

 かつて自分が奪った眼球の空白に、今度は“ビヨンド・バースデイの目”を移植しようとしている。

 そう、ドクター・マキナは、医師である以前に、そして天才と呼ばれる以前に──紛れもない『犯罪者』だった。

 医学の名を騙り、解剖を研究と称し、奪った命を“実験体”と呼び換える。

 彼の白衣は、清浄な治療の象徴ではなく、血と狂気で染まった“犯罪の証拠布”にすぎなかった。

 「……この俺が……あのときのガキを、今度は“見せる”ために使うってか」

 笑いはやがて止まり、真っ赤な瞳に異様な光が宿る。

 「……いいだろう」

 唇を舐め、モニターを指先で叩く。

 「俺の奪った“空洞”に……ビヨンド・バースデイの目を埋め込む。あの“神の目”が……単なる個体差なのか、それとも本当に──奇跡なのか、試そうじゃないか」

 その声音には、医師の使命感など欠片もなかった。

 ただ“解剖と実験”への渇望に突き動かされた、イカれたドクターの声だった。



 ──だが。



 翌月、2月2日。

 ニュースの一角に、短い記事が載った。



 「若き天才外科医、ドクター・マキナ──謎の心臓麻痺により急逝」



 享年21歳。

 病歴なし、持病なし、前兆なし。

 解剖の結果も「急性心停止」としか書かれず、死因は闇に包まれたままだった。

 あれほど「不死の臓器」を追い求めた男が──あっけなく心臓に裏切られ、倒れた。

 研究室に残された記録は、誰も読み解けぬ暗号のようで、ただ“狂気”の痕跡だけを焼き付けていた。

 そして、あの棺桶の中で眠るはずだった“機械仕掛けの神”──A。

 本来ならば、防腐処理された屍体が、ただ無言で横たわっているはずだった。

 ──動くはずがない。

 まだ未完成の神。



 ──だが、その姿は棺から消えていた。



 1月21日。

 全身火傷を負いながらも生き延びていたはずの男、ビヨンド・バースデイは、ひっそりと命を落としていた。

 その亡骸の隣には、動くはずのないAが寄り添うように倒れていた。

 まるで、友を迎えに来た兄のように。

 かつて唯一無二の絆で結ばれた二人が、再び出会い、死の中で寄り添ったかのように。

 機械仕掛けの神と、死神の子。

 動くはずのない死体と、寄り添うように眠った死体。

 まるで「死」が二人を結び直したかのように。

 ……その光景は、誰の目にも説明のつかぬ怪異だった。

Beyond the 8.22 -After the End-

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