大津波は、千春達の船に覆い被さり、千春は思わず目を閉じて身構える。大津波はたちまち船全体を飲み込んだ。が、千春達の体は、赤い膜に包みこまれることでどうにか守られていた。輝夜が険しい表情で手を大津波に向けている。輝夜の腕から血が流れ出し続けているのを見て、輝夜が守ってくれたのだ、と気づいた。
「規模が…大きすぎる…!私の権能じゃ、もたないわ!」
「輝夜ちゃん!近くにヒメがいるとしたら、どうすればヒメを止められる!?」
「無理よ。私の権能じゃ、どう考えても血が足りない。できるのはせいぜい、流れを止めることだけ…!水の質量自体は自然のものだから、この水を消すこともできない…!悔しいけど、私じゃ倒せないし、あたり一面海のこの状況で、逃げることもできない…!」
普段泣き言を言わず、表情も変えない輝夜が焦っているのを見て、それが冗談ではないことを悟った。今は血の膜で守られているが、長くは持たないだろう。輝夜の顔色が少しずつ悪くなっていく。早くも血が足りなくなってきたのだ。このままではやられてしまう、そう思った矢先に千春は、輝夜の先程の言葉を思い出していた。そして、輝夜に確認する。
「輝夜ちゃん!水の流れ自体は、止められるんだよな!?」
「ええ…!それが何!?」
「他人に血の膜を纏わせることって、できる!?」
「他人に…血膜を?人一人分ならできるけど、なにするつもり?」
「…海を泳いで、ヒメを止める!流れさえなければ、どうにかなるかもしれない!」
「…は?何言ってるの?彼女がどこにいるかも分からないし、見つけてもあなたは水の中。しかも私の血はおそらく彼女の水に溶けて長くは持たない…!」
「それで死ぬならそこまでだった、ってことだ!何もしないより、やったほうが後悔がないだろ?大丈夫、ピンチはチャンスって言うじゃんか!」
そういう話はしてない、と輝夜が言い終わる前に、水の勢いはさらに強くなる。輝夜の顔色がさらに悪くなり、血の膜からは水が漏れ出す。
「頼む!時間がない!」
「ああもう!わかったわよ…!」
輝夜も焦っていたのだろう。千春の腕を掴み、掴んでいる自分の腕を切った。その血が千春の体を纏うようにして染み込んだ。
「ありがとう!行ってくる!」
千春は、銛を左手に携えて、ばっと海に飛び込んだ。
正直にいえば、千春もそこまで泳ぎに自信があるわけではなかった。村にいた頃から、海の恐ろしさは嫌と言うほど知っていたし、ましてやこんな海のど真ん中で泳ぐことの危険性も。だが、行かなくてはならない。ヒメを止めるため。そして、救うために。
飛び込んだ海は不気味なほど透明だった。本来なら目も開けられないような海流が襲いかかるはずなのに、まるで地上にいるような静けさだ。千春は海を泳ぎ、辺りを探す。すると、不自然に球体状になった空間を見つけた。そこに入ると、なぜか地上のように息ができる。岩場をたどっていくと、海底の砂を握りしめ、うずくまって苦しそうにうめくヒメがいた。
「ヒメ!」
「ちー…ちゃん…?」
「おまえ、なにしてんだ!今すぐ止めろ!このままじゃ、みんな死ぬぞ!」
「こ、こないで!ちーちゃん!ヒメ、もうこの力を抑えられない!そんなこと思ってないはずなのに、ちーちゃんのことが憎くて憎くて仕方ないの!ねぇお願い!ちーちゃん、ヒメがちーちゃんを殺しちゃう前に、早く、ヒメを殺して!」
千春は、ヒメの目が血走って、明らかに正常ではないことに気づいた。それはまるで、なにかに怯えているような様子だった。ヒメは千春に言い切ったあと、潰すように頭を両手で抑え、この世のものとは思えないほどの奇声をあげた。思わず耳を塞ぐほどの声量に、気圧された。その一瞬、うずくまっていたヒメが四足獣のように立ち上がり、いつの間にか水を纏った手を爪のようにして千春に突き出す。それに驚いた千春は、体勢を後ろに崩してしまい、避けられずそれを喰らうかに思われたが、その腕に、突然上から降ってきた小刀が突き刺さり、地面にそのまま押さえつけられた。が、すぐにそれをはねのけて、逆の腕で千春に今まさに襲いかからんとするヒメ。その勢いはまさに獲物を狩らんとする獣のようだった。千春は尻もちをついたばかりなせいで、逃げようと体をひねることにも頭が回らなかった。だがその視界に、黒髪の見慣れた後ろ姿が映る。輝夜が、ヒメの前に立ちふさがり、千春をかばったのだ。それは時間で見れば一瞬だったが、千春からすれば、とても長い一瞬だったように感じた。次に千春の時間の流れが正常に戻ったとき、目の前には、ヒメの腕に腹を貫かれた輝夜がおり、輝夜は、自らの腹を貫くヒメの腕を、小刀で切り落とす。切り落とすやいなや、輝夜はその場に倒れ込み、ヒメは腕を切り落とされた痛みに悶え、あたりをのたうち回っている。
千春は脇目も振らず輝夜のそばに行き、「輝夜ちゃん!」と呼びかける。
すると輝夜は、「騒がないで…傷に響くわ」といつもの調子でつぶやくが、素人目に見ても、その傷が助かるようなものではないことは千春にもわかった。腹から流れる血は依然として止まる気配がない。元々白い肌が、死化粧をしたように白くなっている。
「なんで俺をかばって」
「別に。私はただ、仲間を助けただけよ。理由なんて…いらないわ」
「そんな、らしくないぞ、君がそんな事言うなんて。いつもみたいにあしらってくれよ、なぁ」
千春は、涙を流す。輝夜が自分を仲間だと思ってくれていたことと、それがわかった矢先、彼女は今、息を引き取ろうとしている。のたうち回るヒメは、そんな時間を与えないとばかりに、既に臨戦態勢になっていた。輝夜は、千春の肩に手を置いて、静かに、しかし力強く言った。
「あなたに、私の力をあげる。どう使うかはあなた次第よ。自分のために使うなり、他人のために使うなり、好きにしなさい」
「なぁ、何言ってんだよ。こんなのってあるかよ」
「だまりなさい。このまま何もせず死ぬくらいなら、ってあなたが言ったでしょ?」
「でも」
「まぁまぁ楽しかったわ。あなたとの仕事。せいぜい頑張って。千春」
千春、と初めて自分の名を呼ばれたと同時、輝夜から流れ出ていた血が、千春の口に流れ込む。咳き込むこともなく、するりと血はすべて入りきってしまった。輝夜の体から、生気が消える。叫びたいのをこらえ、自らの握りしめた銛にさらに力を込める。銛が赤く、染まる。千春は、涙を流しながら、ヒメに向かい合った。
コメント
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か、か、輝夜ちゃぁぁぁぁん!!!(´;ω;`)アアアアアアアアアアアアアアアア!!!カッコ良すぎる!!ヒメちゃんも辛いし、千春くんも輝夜ちゃんの死で泣いちゃったし…ウワァァァァ