森崎誠は、美結の前に立ち、静かに微笑んでいた。
「君がこの場所に来てくれたってことは……“言葉”を見つけたんだね。」
「“言葉”……?」
美結は思わず聞き返した。
すると誠は、桜の花びらが舞う中、ベンチに腰を下ろし、優しく言った。
「杏美……“ひま部”を作ったもうひとりの子はね、言っていたんだ。
『誰かが、たった一言でも「ありがとう」って言ってくれたら、それだけで生きてていい気がする』って。」
美結の心に、その言葉がすっと染み込んだ。
「私は……いつも誰にも届かない気がしてた。
何か言おうとすると、言葉が詰まって……。
でも、“ひま部ノート”を読んで、初めて……“言ってもいいんだ”って思えたんです。」
誠はゆっくりとうなずき、懐から一枚の古びた紙を取り出した。
それは、かつて杏美が描いた“ひま部のはじまりの設計図”だった。
「これを、君に託したい。」
「……え?」
「君が、次の“ひま部”を始める番だよ。どこで、どんな形でもいい。
今、居場所がなくて困っている“昔の君”みたいな子たちが、世界にはたくさんいる。
その子たちのために、“種”を蒔く人が必要なんだ。」
誠の目は、やさしくもどこか切実だった。
30年という歳月を越えて、彼は今も“ひま部”を続けている。
そして、バトンを渡す人を、ずっと待っていたのだ。
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それからの数週間、美結は考え続けた。
「私に、そんなことができるのだろうか」
「誰も来なかったらどうしよう」
「自分に、何かを与えられるなんて思えない」
でも、そのたびに思い出すのは、“あの桜の木”と“ノートの言葉”だった。
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「話さなくても、泣いても、黙っていても、そこにいていい。」
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その一文が、美結の背中をそっと押し続けた。
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夏のはじまり、美結は自分の中学校の生徒会室の横――
物置として使われていた空き教室を掃除し、ひとつの貼り紙を貼った。
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【ひま部】
しゃべらなくてもOK
何もせずにいてもOK
誰も来なくてもいい日もある
でも、来たらきっと少しだけ心が軽くなる部屋です。
放課後16:00〜 教室裏203号室
誰でもどうぞ。
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それは、誰に見せるでもなく、誰かを誘うでもなく、
ただ、かつての自分のような“誰か”のために書いたものだった。
最初の数日は、誰も来なかった。
でも、美結は毎日、部屋にいて、ノートを開いて、静かに日記を書いた。
すると一週間後――教室のドアが、そっと開いた。
入ってきたのは、一年生の小柄な男子生徒だった。
彼は何も言わず、美結の隣に座り、ランドセルからノートを出し、書き始めた。
それが、“第二のひま部”のはじまりだった。
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数ヶ月後、教室の一角には、小さな本棚とノートの山ができていた。
子どもたちが“ひま部ノート”に思い思いの言葉を書き、時にはイラスト、時には俳句のようなものもあった。
誰かの“たった一行”が、誰かの“居場所”になっていた。
そして、“ひま部”はこの中学校から、近隣の学校、支援センター、地域の公民館へと静かに広がっていく。
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美結はふと思った。
「あのとき、“ひま部ノート”を図書室で見つけなかったら、今の私はなかった。」
だから今度は、自分が“誰かの目にとまるノート”を残す番だ、と。
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