「これが俺の動機です」
ずっとカウンターの一角を見ながら、古いおとぎ話を読むように離し続けていた横山が顔を上げた。
「ずいぶん淡々とお話しされるんですね」
琴子も正面から横山を直視した。
「人を殺したのに」
この男が櫻井秀人を殺した張本人。
壱道が文字通り血眼になって探した殺人犯。
横山は口許を緩ませると、少し首をかしげた。
「そうですね。後悔というものがないからかな。俺が考えるに、汐莉さんの幸せを守るなら、これ以外に選択肢はなかった」
俺はね、といって両手をカウンターにつき、挑発するように見下ろす。
「もし時間が巻き戻せたとしても、咲楽さんを殺すよ。何度でもね」
これが人間の顔と呼べるのか。後悔も罪悪感もない。罪のない人を殺しておいて、こんなに開き直れるやつが、人間と呼べるか。
琴子は壱道を見た。
「ーーー壱道さん?!」
コーヒーカップを両手で抱えながら額を付けている。息が荒い。玉のような脂汗。
「しょうがないなあ。そんなに眠いならもっとコーヒー飲みますか」
横山が後ろを向いた瞬間、壱道が頭をガッと上げ、こっちを睨んだ。と思ったら、琴子の座っていたカウンターチェアに足をかけ、思いっきり蹴飛ばした。
何が起こっているかわからないまま、琴子は椅子ごと横に倒れた。
大きな音に、横山が笑う。
「あらあら、さっきの威勢はどうしたの刑事さん」
カウンターの影になって琴子は見えていない。
起き上がろうとすると、壱道が、横山には見えないようにカウンターの下で、携帯画面を見せてきた。そこには“通話中 浅倉静香”と表示されていた。
いつのまにか電話し、スピーカーにして会話を聞かせていたらしい。
「てめえ、コーヒーに何を入れた」
壱道がカウンターに突っ伏しながら、頭だけ上げて必死に横山を睨んでいる。
「やっと効いてきましたね。特に女性の方は全然変化ないから効いてないのかと心配しましたよ」
横山が笑いながら言う。
「大丈夫。毒なんか入れてませんよ。睡眠薬と、ちょっとしたドラッグです。この店を汚すわけにはいきませんからね」
咲楽の話のときのように淡々と話す。
「俺たちが消えたら、確実に刑事課が動く。まず逃げられないぞ。飛ぶつもりか」
「ーーー昨日ね、駐車場で事故があったから調べてるって、刑事課の人が来たよ」
浜田か。あのあと聞き込みで回ってたはずだ。
「そいつに聞いたら、咲楽さんの事件とは関係ないって言われたよ。自殺としてもう処理されているからって。あんたたちくらいなんじゃないの?殺人事件だと思ってるの」
横山は楽しそうに笑った。
「図星でしょ。つまりあんたたちがいなければ、咲楽さんは自殺として処理され、江崎さんや汐莉さんの関係や、この店も守られるってわけだ」
壱道の体がガタガタ震えてきた。
瞳孔も開いている。
「だんだん気持ちよくなってきましたか?」
「くっ」
ついに壱道の頭がカウンターに突っ伏した。ゼエゼエと肩で息をしている。
まずい、このままでは急性薬物中毒の恐れもある。
急にカウンターを抑えていた拳の力がぬけ、ダランとぶら下がった。それにつられるように頭の力も抜け、カウンターに頬をついて、壱道は動かなくなった。
「なんだ、つまんないな。キマる前にオチたか」横山が舌打ちしながらカウンターから身を乗り出す。琴子は慌てて目を閉じ、寝ているふりをした。
「あれ。こっちも寝てるわ。睡眠薬の量、間違ったかなぁ」
つぶやきながら何やらカチャカチャとカウンターでやっている。
お前のことは温存しておきたい。
昨日の言葉が甦る。壱道のためにも絶対ばれるわけにはいかない。だがどうしよう、どうすればいい。
作業が終わったのか、近づいてくる。
隙をついて逃げるべきか。
一人に逃げられたら、横山の計画は失敗に終わる。必ず壱道を置いて追ってくる。
“二人とも殺せなければ”意味がないのだ。
横山が琴子を見下ろしながら、通過していった。逃げるなら今だ。
動き出そうとした瞬間、横山の手に目が光るものが見えた。
注射器だった。
なんの液体が入っているかわかったもんじゃない。ある意味銃よりナイフより危険だ。
横山が壱道に近づき軽く押すと、抵抗することなくまるで人形のように、椅子から傾き落ち、防御することなく腕から落ちた。
バキッと嫌な音がする。
その痛みで意識が戻ったのか、壱道が低く呻く。
横山はこちらに背中を向けて、崩れ落ちた壱道に近づくと、しゃがんでネクタイに手をかけた。
襟首を強く引き、ボタンを飛ばすと、首筋を撫で動脈を確認している。
遠き山に日は落ちて
同時に声が聞こえた。
カウンターの下、壱道の足元に何かいる。顔は見えない。気配があるだけだ。でも琴子にはそれが誰かはっきりわかっていた。
“気配”が話しかけてくる。黒い口をカッと開けた。
音を立てないように上体を起こし、足を滑らせしゃがむと、転がったカウンターチェアを両手で持つ。一気に踏み込む。
チェアの脚を、刺又よろしく横山の腹部に押し付ける。
「グッ」
くぐもった声を出した横山をそのまま壁に押し付ける。体重をかけて押さえ込みながら、右手でパンツスーツのポケットをなぞる。
布ケースの蓋を開けると一気に引き抜く。振り上げたモノを逆手に持ちかえ、頸椎目掛けて振り落とす。
「やめろ!!」
怒号が響き渡った。
手首を掴まれる。
見上げると、男が立っていた。
ボサボサの長髪に切れ長の目、深く刻まれた眉間の皺、煙草の香り。
「ーーー青柳さん?」
これは妄想か?幻覚か?それとも 。
「木下。やめるんだ」
はっきりとしたその声に現実に引き戻される。
青柳の姿が消え、頭一つ分、背の低い男が青白い顔で見下ろしている。
「壱道さ……」
「動くな!!」
狭間と小國が店の中に飛び込んできた。
二人が横山を押さえつける。
「9時51分、横山泰二、薬物混入による傷害の現行犯で、緊急逮捕する」
押さえられた彼に手錠がかけられる。
同時にドアから浅倉が駆けつけて、その場に崩れ落ちた壱道を抱えた。
「成瀬くん!しっかりして!!」
それが合図のように救急隊員がゾロゾロとはいってきて、壱道を担架に乗せるとあっという間に運び出していていった。
振り向くと、カウンターの下には誰もいなかった。
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