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第45話(終章):二人分の狂気で、世界を裏切る
初冬に差し掛かった夜気が、隙間だらけの板壁から、容赦なく忍び込んでくる。
蠟燭の炎が一つ、小屋の中を頼りなく照らしていた。研究棟にあった贅沢な瑠璃の器具も、絡繰の遠心筒も、ここにはない。あるのは、古びた作業机と、乾かしかけの薬草の束、そして手垢のついた薬学書が数冊。かつて森で一人生きていた頃と、何一つ変わらない光景のはずだった。
私は、書きかけの調合記録に目を落としていたが、文字はもう三行前から頭に入っていなかった。
(……また、この痛み)
こめかみの奥で、鈍い痛みが規則的に脈打っている。この一月あまり、ずっとこうだ。森で狩った兎や鹿の血を、かつてのように革袋に溜めて啜ってはいる。飢えて動けなくなるほどではない。だが、頭痛だけは、どうしても引かなかった。
(量の問題ではないことくらい分かってる)
「……本当に贅沢な舌になったものです」
質が違う。ただそれだけのことだ。一度、あの人の血を知ってしまった身体は、他のどんな血をもってしても、以前のようには満たされない。自嘲する気力すら、今の私には残っていなかった。
蠟燭の炎が、風もないのに小さく揺れる。私は机に肘をつき、痛みをやり過ごすように目を閉じた。
「振り出しに戻っただけです、いつか慣れます」
もう、何度目になるのかもわからない、この結論を体に言い聞かせた。
その時だった。
微かに、風に乗って、鉄錆に似た匂いが鼻先をかすめた。血の匂いだ。それも、鮮血。濃く、生々しい匂い。次いで、下生えを踏みしだく足音が、一つ、確かに近づいてくる。
私は反射的に、机の下に置いていた小刀に手を伸ばした。ふと足音に違和感を抱く。
(……人? こんな夜更けに、こんな森の奥まで。誰が)
足音は、迷うことなく、小屋の戸口へとまっすぐに向かってくる。まるで、何度もここへ来たことがあるかのように。まさか、追手、なぜ、そんなはずはない。私は小刀を握り直し、息を殺して戸口へと近づいた。
戸の向こうで、何かが体を預けるような、重い音がした。それから、掠れた、低い声。
「……玲」
聞き覚えのある声だった。だが、あまりに掠れていて、すぐには信じられない。
(……頭痛のせいで、とうとう幻聴まで)
「……開けろ。俺だ」
もう一度、確かに聞こえた声に、私は小刀を握ったまま、戸の閂を外す。
(最悪、刺し違えても私は死なない)
戸が、軋みながら開いていく。
月明かりを背にして立っていたのは、間違いなく焔だった。返り血をたっぷりと浴び、髪も装束もひどく乱れ、右の二の腕からは今も血が滲んでいる。
一瞬、言葉が出なかった。反射的に、薬師としての目が、勝手に彼の全身を検分し始める。
(二の腕の傷は浅いけれど、出血が長く続いている。顔色はやや蒼白。……疲労と軽い失血)
「立ち話をしている場合ではありません。中へ」
私は自分でも驚くほど素早く、彼の腕を取って小屋の中へと引き入れた。
冷えた夜気の中に、いつまでも立たせておくわけにはいかない。
焔は抵抗もせず、されるがままに小屋の中へと足を踏み入れる。埃の積もった、粗末な板の間に、彼の足音がやけに響いた。
「……どうして、ここが」
かろうじて絞り出した言葉は、それだけだった。
「椿から聞いた。……お前が、ここだけの話にしろと言ったこともな」
怒りは湧かなかった。むしろ、どこか納得している自分がいた。
なので、それ以上は、追及しなかった。それを問い詰めても、意味のないことだった。
私は焔を、古びた木の腰掛けに座らせ、傷を検めようと手を伸ばしかけて、ふと動きを止める。
「……何があったのですか。その血は、誰の血です」
「知らん、色んなものを斬ったからな」
焔は、それきりしばらく黙っていた。それから、感情の起伏を一切乗せない、短い言葉で語り始めた。
「玄安の企みは、全部暴いた。治療薬の件も、お前を嵌めた仕掛けも、根こそぎだ」
「そうですか」
「……聖女は最後まで、あの糸目の狸に踊らされていた」
焔は、この数週間の顛末を語った。玄安の手の込んだ工作。教会の「真の治療薬」の正体。私の処方に仕込まれた欠陥が、最初から仕組まれたものだったこと。
一つ一つの言葉が、私の中に、ゆっくりと、沈み込んでいく。玄安様の企みが全て暴かれたことは予想していなかったが、不思議と納得した。ただその一翼を椿が担っていてくれたことはには、素直に驚いた。
(あの時の何かを決意した表情は。……このことだったのか)
おそらく、彼女の人脈を最大限駆使したからこそ、真実にたどり着けたのだろう。やはり、人脈の人だ。
「神獣を、斬った」
「……はい?」
聞き間違いだと、思った。だが耳に凝った余韻がそれを否定した。無意識に顔が上がる。
焔の顔に、冗談の色は欠片もない。いつも通りの、少し不機嫌そうな横顔があるだけだった。
護国の神獣。それは煌牙帝国の存立そのものを支えてきた、神聖不可侵の存在。
それを、斬った。
たった一言で片付けられるような出来事では、決してない。
私が言葉を失っている間に、焔は、私の反応を待つ素振りも見せず、続けた。
「玉座も、捨てた」
今度こそ、頭の中が真っ白になった。
皇帝という地位が、この国にとって何を意味するか。私は多少なりとも理解しているはずだ。
血筋、権威、国の安寧。それら全てを一身に担う、唯一無二の存在。その全部を、この人は投げ捨てたと言っている。
薬師としての頭が、勝手に計算を始めた。玉座が空になれば、国は必ず荒れる。皇位を巡る争い、地方の反乱、教会の反発。そして何より、神獣を手にかけた皇帝を、大罪人として追う手が、この国のあらゆる場所から伸びてくるはずだった。
それを、この人は、分かった上で、ここに来た。
「……分かっていらっしゃるのですか」
思わず問い返していた。声が、自分でも意外なほど硬くなっている。
「陛下という肩書きも、玉座も、これまで築いてきたもの全てを、もう二度と取り戻せないということを。……大罪人として、追われる身になったということを」
「知っている」
迷いも後悔も、一切滲んでいない、短い答えだった。
私は、それでもなお、食い下がろうとした。かつて、この人が私を婚約者にすると一方的に宣言したあの日、私は同じように、合理的な反論を並べ立てた。……今度は、私自身のために、それを言わなければならない。
「私のために、そこまでする価値が、本当にあったと言うのですか」
焔は、答えなかった。私はなおも続ける。
「私は……半妖の、化け物です。陛下が全てを捨てて迎えに来るような、そんな女ではーー」
言い終える前に、焔の手が、私の肩を強く掴んだ。痛いほどの力だった。
「黙れ」
低く、短く、だが有無を言わせない声だった。私は、思わず口をつぐむ。焔の金色の瞳が、まっすぐに私を射抜いていた。そこにあったのは、いつもの独占欲でも、命令の色でもない。もっと静かで、もっと確かな、何かだった。
「化け物なら、ちょうどいい」
その一言の意味を、私は一瞬理解できない。
「これで俺も、化け物に戻った。……もう、お前しかいない」
(……)
何かを言おうとして、言葉にならなかった。
焔は、構わず続けた。もう、迷いを見せることさえしなかった。
「神を斬った。玉座も捨てた。……もう、まともな人間には戻れん。お前と、同じだ」
それは、まるで、当然の帰結を告げるような、静かで落ち着いた声だった。
「これから先、俺を『陛下』と呼ぶ奴も、崇める奴も、どこにもいない。あるのは、大罪人を追う手だけだ。だが、それでも、いい。……お前さえいれば、それでいい」
損得で考えれば、これは最悪の選択のはずだった。陛下は、全てを失った。私と一緒にいたところで、得られるものなど何もない。正気の沙汰ではない。世間から見れば、これは間違いなく――二人分の狂気だ。
それなのに。
(どうして、こんなにも)
喉の奥から、震える声が、勝手に溢れ出していく。
「損も得も、何一つ考えていない。……人として、これほど非効率な選択を、私は他に知りません」
それでも。
これまで一度も、口にしたことのなかった言葉を、私は、初めて形にする。
「……でも、そういう貴方が好きです」
言い終えた瞬間、自分の頬が熱くなっているのが分かった。これまで、どれほど感情が揺れても、私はいつも、それを損得勘定・合理性という言葉の鎧で覆い隠してきた。
その鎧を初めて脱いで、想いだけを言葉にした。その言葉は自分でも驚くほどに……、頼りないものだった。
焔は、しばらくの間、何も言わなかった。ただ、傷ついていない方の腕で、私の体を強く引き寄せる。血と汗の匂いが、鼻先を満たした。決して心地よい匂いではないはずなのに、なぜか、それを厭う気持ちは一切湧いてこない。
「……陛下」
反射的に、その呼び名が口をついて出る。
「……もう、陛下じゃない」
低く、静かな声だった。私の背に回した腕に、わずかに力がこもる。
この人は、本当に、あらゆる肩書きを捨ててしまったのだ。皇帝でも、暴君でも、私の「治療係の対価」を差し出す支配者でもない。今、私の前にいるのは、ただ一人の――名前だけを持った、一人の男だった。
「……そう、でしたね」
それだけで、これまでとは全く違う何かが、二人の間に流れ込んでくるのを感じた。焔は何も言わなかったが、私を抱きしめる腕に、また少しだけ力がこもる。それで、十分だった。
しばらく、そのまま、言葉のない時間が続いた。だが、薬師としての性分は、こんな時ですら、私を放っておいてはくれない。彼の腕に触れた私の指先が、まだ滲み続けている血の感触を捉える。
私は、ゆっくりと体を離し、彼の顔を見上げた。
「……こんなところで、血を流しっぱなしにして」
呆れと、それを上回る焦りが、声に滲んだ。
「座っていてください。傷を診ます」
「……風情がないなお前は」
「なくて結構です。せっかく戻ってきた貴方に、この程度のことで死なれては困ります」
私は、いつもの調子を装いながら、薬箱代わりの木箱に手を伸ばした。薬師としての手順に戻れば、少しは落ち着けるはずだった。……ですが、今日ばかりは、いつも通りにはいかないかもしれない。
蠟燭の炎が、静かに二人を照らしていた。窓の外では、夜がまだ、深く続いている。
〇
血と土を拭い終えた傷口は、思っていたより深かった。斬られてからそれなりの時間が経っているにもかかわらず、応急の処置一つ施された形跡がない。二の腕の裂傷は、脈打つたびにじわりと血を滲ませ、周囲の皮膚はうっすらと熱を持ち始めている。放っておけば、いずれ膿を持つだろう。
私は棚の奥から、古い薬研と乳鉢を取り出した。手に取った瞬間、指先が覚えている重みに、一瞬だけ息を止める。
これは、かつて私が反魂の秘薬を調合した、まさにその道具だった。生贄として城へ上がる前夜、この同じ囲炉裏の灯りの下で、私はこの乳鉢にありふれた薬草からや誰も知らぬ毒草をすり潰し、あの紫色の劇薬を完成させた。あの時の私は、目の前の暴君を治すことしか考えていなかった。それが、まさかこんな形で巡り巡って、今、この場所に戻ってくるとは。
随分と、遠回りをしたものだ。そんな感慨に浸る間もなく、私は消毒液を新しい布に含ませ、彼の傷口へと押し当てた。骨や太い血管までは達していないのが、幸いだった。手当てさえ怠らなければ、命に関わる傷ではない。だが、この消毒は、それなりに染みるはずだ。
「……っ、染みるな」
案の定、布を押し当てた瞬間、焔の腕が、はっきりとそれと分かる強さで震えた。
「消毒ですので。少しの間、我慢してください」
以前の彼なら、腕の真皮が削げても、痛みなど知らんと鼻で笑って済ませたはずだった。事実、瘴魔獣戦の折には、矢が何本刺さろうとも顔色一つ変えなかった男だ。だが今の彼は、隠そうとする素振りすら見せなかった。眉間に深い皺が寄り、金色の瞳が一瞬だけ強く眇められる。それに気づかない振りをする必要は、今の私には無かった。
「……痛いですか」
「……多少はな」
「でしたらこれからは、痛いなら痛いと、正直に仰ってくださいね。手当ての加減の目安になります」
「……ふん。面倒な話だ」
そう言いながらも、彼はそれ以上意地を張らなかった。傷口に晒しを巻きながら、私はその変化を、静かに噛み締めていた。
手当てが進むにつれ、今度は焔の視線が、私の手元へと移っていく。
「……お前の方こそ、手が震えてるぞ」
「気のせいでしょう」
「誤魔化すな。顔も、紙みたいに白い」
「……よく、見ていますね」
私は一度、包帯を巻く手を止めた。
「……多少、血が足りていないだけです。休息を取れば、そのうち戻ります」
「その台詞、前にも聞いた気がするな。……お前が『大丈夫です、死にはしません』と言った時、大抵ろくでもない状態だった」
確かに身に覚えがある。私はしばらく黙り込んでから、正直に白状することにした。
「……正直に申し上げれば、この一月あまり、まともに血を摂れていません」
棚に置いた、空の革袋に視線をやる。
「森で使っていた保存の血も、とうに底をついています。頭痛は、ほとんど毎日のことでした」
焔の表情が、目に見えて険しくなる。それは怒りというより、自分自身への苛立ちに近いように見えた。彼は即座に、迷いもなく右手を差し出した。
「飲め」
「……その身体で、これ以上血を失うのは、勧められません」
一瞬、逆のことを考えた。私の血を分ければ、この方の傷も、いくらかは楽になるかもしれない、と。だが、それは越えてはいけない一線だ。半妖の苦しみを、この人に強いる必要はない。牙を立てる相手を間違えてはいけない。私はその考えを、あっさりと手放した。
「陛下こそ、たった今、大量に出血なさったばかりです。これ以上血を失えば、めまいどころでは済まなくなります」
「知るか。俺が良いと言ってるんだ、四の五の言うな」
「良し悪しの話をしているのではありません。身体の限界の話です」
「お前が倒れる方が、よっぽど困る」
低く、有無を言わせない声だった。以前、私が城下で無茶をするたびに彼が見せていた苛立ちと、根は同じもののように思えた。ただし今は、その矛先が私にではなくなった。それだけの違いだった。
「……少しだけ、脈を診せてください」
私は、彼の手首に指を這わせる。脈は、思っていたよりしっかりしていた。命に関わる域には、まだ達していない。
「……分かりました。ですが、ほんの少しだけです。それ以上は、絶対に飲みません」
「……好きにしろ」
私はそっと彼の手首を取り、皮膚に、久方ぶりとなる犬歯を沈めていく。
「……っ」
低く、短い呻きが漏れる。ほどなく口を離して、私は静かに告げた。
「……痛かったでしょう」
「ああ、痛かったな」
「……ふふ、そうでしょうね」
「気色の悪い顔で笑うな。……お前を死なせるよりは、よっぽどマシだからそうしただけだ」
頭痛が、少しずつ和らいでいく。喉を通る熱は、以前と何一つ変わらない濃さだった。それなのに、今はそれが、ただの治療ではなく、もっと別の何かに感じられる。
「……次から、こんなになるまで一人で我慢するな。血が切れる前に言え」
「善処します」
「その返事が、一番信用ならんと言ったはずだが」
「……分かりました。今度は、本当に。……次からは、我慢する前に、貴方を頼ります」
思えば、辛いことも、痛いことも、全部損得勘定という言葉に変換して、自分自身からも隠す癖があった。今更だが、これも直すべき悪癖の一つなのだろう。焔は、それ以上何も言わず、ただ小さく鼻を鳴らした。だがその横顔には、満足げな色が滲んでいるように見えた。
互いの手当てが一段落し、私たちは囲炉裏を挟んで座り直した。私は棚に残っていた乾燥薬草の中から、痛み止めと滋養によく効く数種を選び、湯を沸かして白湯代わりに煎じる。贅沢な茶とは程遠いが、身体を内側から温めるには十分だった。頭痛が引いた分だけ、思考にもわずかな余裕が戻ってくる。
沈黙の中、焔がぽつりと切り出したのは、これから先の、極めて現実的な話だった。
「王都には、もう戻れん」
「……分かっています」
「玄安がどうなるかは知らん。……勝手に沈んでいけばいい」
その声には、憎悪よりも、もっと乾いた無関心が滲んでいた。
「……彩殿は」
尋ねてから、私は自分がそれを口にしたことに、少しだけ驚いていた。
「言うべきことは、もう言ってきた。……お前が気にすることじゃない」
彩の献身が、結果として私を追い詰める工作の一端を担ったこと。彩は、きっと最後まで知らないままなのだろう。それを今更教えたところで、誰も救われない。深追いは、しない。
「……分かりました」
「これから、どうするつもりだ」
「……国を出るしかないでしょうね。この国に居続けることは危険です」
「お前が決めたのなら、それでいい。あてはあるのか」
「ありません」
「……俺もない」
「……相変わらず、無計画な人ですね」
「お前と二人でどうにかなる。それで十分だろうが」
その言葉に、根拠は何もなかった。それなのに、なぜか説得力があるように聞こえるのが、我ながら不思議だった。囲炉裏の炎に照らされた小屋の中を、私はぼんやりと見渡す。研究棟に置いてきた、あの器具たち。二度と手にすることはないだろう。
「……道具のことを考えているのか」
「……少しだけ」
「道具なんぞ、また作ればいい。……お前の腕は、道具がなくてもどうにでもなる」
「……ずいぶんと、買い被っていただいたものですね」
「事実だろうが」
焔は、そこで一度言葉を切った。それから、少し面倒くさそうに、続けた。
「……言っておくが、お前はもう、俺の治療係でも、所有物でもない」
不意打ちだった。私は、しばらく言葉を返せなかった。
「昔は、そう思っていたこともある。お前の血も、痛みも、全部俺のものだと。……だが、それは終わりだ」
「これからは、契約だからでも、治療のためでもない。俺が、お前のそばにいたいから、いる。……お前も、それでいいなら、な」
「……ずいぶんと、殊勝なことを仰るのですね」
「柄にもないのは分かってる。……二度は言わんぞ」
「一度で十分です。忘れません」
私は、囲炉裏の火を挟んで、彼の顔をしばらく見つめていた。
「……椿様には、この先どこへ向かうかまでは、お伝えできませんね」
「あいつには、いずれ知らせが行くだろう。あの女なら、勝手に察する」
「……いつか、必ず、恩を返しに参りましょう」
伯爵家のことは、もう考える必要もなかった。あちらも、私のことなど、とうに忘れているだろう。焔は、そこで不意に立ち上がると、荷物の中から質素な木綿の布を取り出した。
「……こっちに来い」
「何を――」
焔は、無骨な手つきで、私の白髪を覆い隠すように、頭に布を巻きつけていく。丁寧とは言い難い手つきだったが、髪の一房も隙間から零れ落ちないよう、存外に気を配っているのが分かった。
「国を完全に出るまで、その髪と目は、多少隠した方がいいだろうな」
「分かっています。……昔から、慣れていますので」
以前のように、恥じて隠すわけではない。ただの、用心だ。
「……以前は、こんな真似をされる度に、不貞腐れた顔をしていたな」
「大きなお世話でしたからね、よく覚えています」
自分が何者なのか。母が誰だったのか。その答えは、まだ闇の中にある。でも、今はそれでいい。答えを探す旅も、悪くないかもしれない。
「……いつか、母の正体を探す旅も、してみたいものです」
「勝手にしろ。付き合ってやる」
「随分と、あっさり仰るのですね」
「お前が行きたいところに、俺も行く。それだけの話だ」
○
荷物と呼べるほどのものは、最初からなかった。私は空になった革袋を手に取り、しばらくそれを見つめた。長年、渇きを一人で誤魔化すためだけに使ってきた道具だ。もう、これに頼る必要はないのかもしれない。それでも、捨てる気にはなれなかった。誰にも顧みられなかった森での日々、この袋だけが、ずっと私の傍にあった。今の暮らしを始めるにあたって、それを置き去りにするのは、なんとなく薄情な気がした。私はそれを、荷物の隅にそっとしまい込んだ。
「行くぞ」
「……その身体で、大丈夫ですか」
「知るか。……これしき」
小屋の外に出ると、夜明け前の冷たい空気が肌を刺した。焔は、まだ本調子ではない足取りで、それでも先に立って歩き出す。私は一度だけ振り返り、幼い頃から幾度となく私を受け入れてきた、この粗末な小屋を見つめた。二度目の別れだ。だが今度は、誰かの命令ではなく、自分の意志で発つ。
しばらく歩いたところで、不意に疲れを感じ、私の足元が大きくよろめいた。
「……あ」
「おい」
とっさに伸びてきた焔の腕が、私の身体を支える。
「……大丈夫か」
「……面目ありません。少し、立ちくらみが」
「無理はするな。急ぐ理由もない」
「陛下こそ、その足で私を支えている場合ではないと思いますが」
言いかけて、私はその呼び方が、もう相応しくないことに気づく。だが今は、それを訂正する余裕もなかった。
「屁理屈はいい。ゆっくり歩け」
私は、その腕に一瞬だけ体重を預けた。互いに万全とは言い難い身体だ。それでも、支え合いながら歩くことに、不思議な安心感があった。
再び歩き出し、しばらく無言で進んだ後、私は不意に足を止めた。「陛下」という呼び方は、もう正しくない。あの人は玉座を捨てた。私も後宮を出た身だ。私たちの間に、もう身分の上下などない。ならば、これからは――
「……焔」
焔が、ぴたりと足を止める。振り返った金色の瞳が、大きく見開かれていた。
「……今、なんて呼んだ」
「焔、と。……『陛下』ではないと言ったのは、貴方ではありませんか」
焔は、しばらく黙り込んでいた。やがて、これまで見たことのない、飾り気のない笑みで、ふっと口の端を上げる。
「……やっと呼んだか」
「待っていらしたのですか」
「知るか」
そう言いながら、焔は無造作に私の手を取った。傷ついた右腕ではなく、無事な方の手で。
私たちは、再び歩き出す。しばらく進み、焔が留め置いた馬の準備をする傍らで、私は一度だけ後ろを振り返った。遠く、王都の方角の空が、赤く滲んでいるのが見えた。夜明けの光にしては、あまりに不穏な色だった。曙光なのか、それとも混乱に沈んでいく国の、最後の残り火なのか。今の私には、その両方が重なって見える気がした。
あの国は、これから大きく乱れていくのだろう。護国神獣を斬られ、皇帝を失い、宰相の企みは瓦解した。それがどれほどの混乱を招くのか、私には想像もつかない。世間から見れば、これは紛れもない、国を裏切る行為だ。皇帝という立場を、たった一人の女のために捨てた。正気の沙汰ではない、と誰もが言うだろう。
でも。
正気でないと言うなら、私だってそうだ。半妖の血を引き、不死の身体を持ち、それでも「死にたくない」と初めて願った女。私たちは、どちらも、とっくに狂っているのかもしれない。二人分の狂気を抱えて、この世界を裏切る。それが、私たちの選んだ答えだ。
「……行きましょう、焔」
「ああ」
私は、王都の赤い光に背を向け、前を向いた。
○
時が少し流れ、日はすっかり昇っていた。木々の合間から差し込む朝日が、街道を柔らかく照らしている。馬の歩調に合わせて揺れる焔の身体は、まだ本調子とは言い難かったが、それを指摘すれば「知るか」で押し通されることは目に見えていた。それでも私は、いつもの調子で口を挟まずにはいられない。
「……無理をしていますね。傷が開きかけています」
「知るか」
「その返事、何回目ですか。学習しない人ですね」
「うるさい。……お前こそ、まだ本調子じゃないだろう」
「お互い様、ということです」
焔が、小さく喉の奥で笑う。私も、釣られるように微かに笑った。
「……それより、路銀と食料の算段はどうします。椿様のご厚意にも、限りがありますよ」
「知るか。次の村で何とかする」
「相変わらず、無計画ですね」
「お前が算段しろ。得意だろうが」
「……分かりました。ではまず、この布を見せて金に換えられる村を探しましょう。良い品です」
「早速、値踏みか」
「生きるための算段です。損得勘定も、たまには役に立ちます」
行き先は、まだ何も決まっていない。北の国境か、それとも、もっと違う海路か。考えてみれば、こんなに何も決まっていない状態で歩き出すのは、生まれて初めてかもしれない。以前の私なら、きっと不安を覚えただろう。損得も、勝算も、何一つ計算できない状況なのだから。でも、今は不思議と、それが怖くなかった。
もう、夜ごと殺し合う必要はない。焔の呪いは、とうに消えた。
それでも、私たちを繋ぐものが消えたわけではないのだと、私は今、確かに知っている。
「……腹が減った」
「焔は本当に、こういう時だけ現実的ですね」
「……お前も大概だろうが」
「褒め言葉として受け取っておきます」
朝日が、二人の影を長く伸ばしていた。行く先も知れない、名もなき道。それでも、隣を歩く人がいるというだけで、こんなにも心が凪ぐのだと、私は生まれて初めて知った。
世界にとっては、紛れもない裏切りだったのだろう。
けれど、これは紛れもなく、私たちにとって、最高の始まりだった。
コメント
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読み終えたわ……第45話、めちゃくちゃ良かった。 玲が「そういう貴方が好きです」って初めて鎧を脱いだ瞬間、胸が热くなった。焔が「陛下」じゃなくて「焔」って呼ばれて見せたあの笑顔、これまでのすべてを報われる気がしたよ。二人とも傷だらけで、何もないところから始めるのに、隣にいるだけでこんなにも凪ぐって、尊すぎる。 「二人分の狂気で世界を裏切る」——その覚悟、本当に格好良かった。最後まで一気に読ませる熱量だった🔥 お疲れさま、繹尾ぴえんさん。