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4件
あの、一言だけ、いいですか? 貴方も貴方の作品もそしてもちろん、この作品も愛していますわ❤️
毎日更新してないかな……?って見に行くほどこの話大好きでした😭 「えっどうなるの……!?」っていうドキドキ感がほんとすごかったです😳✨ 過去の作品も見させて貰ったんですけど、ほんと言葉選びとかストーリーの進め方が上手すぎて……✨ これからも応援してます!
「ねぇ、トルテさん」
「──……え?」
不意に名を呼ばれ、はっと顔を上げた。
まるで遠い場所にいた意識が、ようやく自分の体に戻ってきたような感覚。ぼんやりとした視線の先にいたのは、ベッドの上でだらしなく寝転がり、漫画を片手にこちらを見つめる弐十だった。
(なんだっけ、この感覚……)
柔らかく微笑む彼の顔を見て、キルは、はっと思い出す。
──ああ、そうだ。これは……
一年くらい前だったか…
深夜に弐十くんが連絡もなしに突然部屋にやってきた日の記憶だ。
あいつが買ってきたジュースとアイスを食いながら、一緒にだらだらと漫画を読んでたっけな…
「俺たちってさー、やっぱ最高の友達だよな」
漫画から目を離さず、弐十はぽつりとつぶやく。ページをめくろうとしていた手を止めて、キルの方に視線を向けてくる。
「お前、まだそんなこと言ってんのかよ」
呆れたように俺が返すと、弐十は「うん」とまた笑った。
「なんか、今また思ったんだよ。ふとさ」
少しだけ身体を起こして、弐十は続けた。
「こんな時間にふらっと遊べて、気を遣わずにただ一緒にいられるって、
なんか、あんまりないじゃん。普通の友達とは、こうはいかないだろ?」
「でもトルテさんとは、それができる。……だからさ、俺、お前と友達でいられて、マジでよかったって、思って」
「……おい、なに急に。キモいんだけど」
「ね。俺も今自分で言ってて、ゾワッとしたもんな笑」
弐十が苦笑混じりに言いながら、漫画に目を戻す。
けれど、その横顔はどこか、ほんの少しだけ笑っていないように見えた。
「……で、これもふと思ったんだけど」
「あ?」
「もし俺が女だったら。この何でもない時間も、お前の好きなこと、望むこと全部叶えて、全力で楽しませてやれたのになって」
「……お前、マジでそれも何回目だよ…」
「だから俺たち、来世でどっちかが女に生まれたら──そのときは付き合おうな。笑」
「勝手に俺の来世決めんな…。笑」
俺は鼻で笑って、そう言いながらも、不思議とその言葉が、今もずっと心に残っていた。
軽口のようでいて、妙に真っ直ぐで、どこか切実な響きがあった気がするから。
そんな、弐十の言葉が胸の奥に引っかかったまま、ふと、別の日の記憶が静かに甦っていた。
──半年前、ニキの企画動画の撮影に呼ばれた日のことだった。
19時から始まった収録は、想定よりもずっと長引いて、ようやく終わった頃には時計の針は、既に深夜0時を少し回っていた。
「ふう……」
ディスコードのサーバーを退室し、固まった身体をぐっと伸ばす。
長時間、同じ姿勢で画面にかじりついていたせいで、肩も腰もバキバキだ。
大きく背伸びをしながら、キルはぼそっと呟く。
「……腹、減ったな」
気づけば、最後に何か食べたのは夕方だった。
無意識のままスマホを手に取り、さっきまで一緒に撮影していた弐十に電話をかける。
『もしもしー、なにー』
「弐十くん、腹減らん?」
『うん、めっちゃ減ってる』
「飯行く?」
『あー…ごめん、今日はパス』
「え、なんで」
『明日さ、今度出すグッズの打合せとか、企画会議が午前中から入ってて。遅刻するとやばいから、今日はもうこのまま食わずに寝ようと思ってる』
「……ふーん、あっそ」
『あれ?拗ねた?笑』
「拗ねるかばか」
『来週は時間あるから、この前話してた中野駅北口の中華料理屋、行こうよ』
「あー。うん、暇だったらな」
『お前いつでも暇だろ笑』
「はー?! こっちだってショートの編集で忙しいわ! 舐めんな!」
『はいはい笑 来週また連絡いれる。じゃ、おやすみー!』
「…おやすみ」
スマホの画面が暗転し、それまで弐十の声で満たされていた空間に、静かな深夜の空気が戻ってくる。
その瞬間、思考がふっと止まった。
呼吸の仕方を忘れてしまったように、ただ、沈黙だけが胸の中に広がっていく。
これはただの昔の記憶──そう理解しているはずなのに、
なぜだろう、
胸の奥が、妙にざわついている。
そうだ……そういえば。
あの週も、結局お互いの予定が合わなくて、
その店に行ったのは、結局翌月のことだった。
──思えば。こんなふうに、少しずつ、少しずつ予定がずれていって。
「また今度」が積もって、いつのまにか、俺たちはすれ違っていたのかもしれない…。
次の瞬間、また別の記憶が静かに浮かび上がる。
耳に届いてきたのは、賑やかな声の群れ。
──視界がふっと暗転し、気づくと目の前にはディスコードの画面が映っていた。
「前回弐十ちゃんと出した横動画、めちゃくちゃ伸びが良くてさ、もう20万再生超えたの、マジですごくない?」
しろせんせーの嬉々とした声が、にぎやかに部屋の空気を弾ませる。
通話画面には、女研メンバー。
ニキ、しろせんせー、りいちょ。そして──弐十に、俺。
「やっぱさー、弐十ちゃんがいると、動画が締まるよな」
「わかる〜。なんかね、弐十ちゃんがいるだけで、こっちも安心して立ち回れる感じあるもんねー!」
「あ。りいちょくん?お前が自由すぎるときは、さすがに俺もカバーできないよ?笑」
弐十が苦笑混じりにツッコミを入れると、また笑いが広がる。
その空気に釣られて、ニキが声をあげた。
「弐十さぁ〜〜ん。次のコラボはいつ撮影してくれますぅ〜?ショートでも配信でも、なんでもオッケーですけど〜〜!」
「俺も俺もー!今度一緒に動画撮ろうよ弐十ちゃん!」
次々と飛び交う弐十へのコラボの誘いに、空気はどんどん盛り上がっていく。
その中で、しろせんせーがひときわ得意げな声で口を開いた。
「ふふん……お前たち、悪かったな。俺はもう既に先約をとって、来週頭に弐十ちゃんと記念すべき4回目の横動画撮影の予定でーーす!」
「うわ!抜け駆けしやがってズリぃーぞボビー!!」
「せんせーのそういうセコいとこ、マジ許せん!ふざけんな!」
「うっさいボケェ!お前たちと違って計画的にやっとんねんこっちは!」
「ほんと、うるせーなこいつら…笑」
4人の賑やかな声が、ディスコードの部屋にあふれていた。
笑い声、軽口、次々に飛び交う言葉。その中心にいるのは、やはり弐十くんで…。
輪の外で、俺はひとり、黙って椅子に深くもたれながら電子タバコを唇にあてて煙を吐く。
誰も彼もが弐十を求め、あいつもそのすべてに笑顔で応えている。
……弐十くんは、いつの間にか、
俺たちには、いや、俺にとってさえ、なくてはならない存在になっていた。
ほんの少し前までは、他の誰ともサシでコラボなんてしていなかったのに、今じゃ引っ張りだこだ。
今までずっと、この3年間共にしてきた大切な友人の活躍を間近で見れることは何よりも嬉しい。それなのに何故か、胸の奥に、小さな棘のような痛みが走る。
心臓のすぐそばにある、触れたら壊れそうなところを、針で刺されたみたいに。
顔をしかめて、そっと席を立つ。
ヘッドセットを外して、俺はそのまま無言でキッチンへ向かった。
弐十を慕う仲間の笑い声と、そして、嬉しそうに笑う弐十の声が、まるで耳の内側でリフレインするように響き続けている。
冷蔵庫の前で立ち止まり、扉に手をかけたその瞬間。
胸の奥から、どす黒く冷たい波のような感覚が、せり上がってくるのを感じて目を開く。
感情でも、体調でもない。もっと曖昧で、名のつけられない何か。
心の奥を塗りつぶすように広がっていくそれに、思考がじわじわと呑まれていく──
「…弐十くんは……俺のだろ……」
自分の声に、自分が驚いた。
まるで他人の声を聞いたような錯覚に襲われ、咄嗟に手で口を押さえる。
────俺、今、なんて……
ゾクリと寒気が背中を這い上がる。
心臓がドクドクと荒く鳴り、血の流れる音と混ざって、頭の中がうるさかった。
湧き上がる吐き気に抗えず、その場に膝をつく。
喉が焼けるような咳を吐きながら、呼吸を整えようとするが、肺にまともな空気が入ってこない。
『俺から弐十くんを奪うな』
耳の奥で、誰かが叫んだ。
まるで自分の内側から這い出してきた何かが、
激しく、悲痛に、怒りに似た声で嘆いている。
それと同時に、心臓の鼓動が暴走する。
自分の血の音が鼓膜を叩く。
それだけで世界のすべてが埋め尽くされていく。
もう耐えきれず、頭を抱えてしゃがみ込み、耳を塞いだ。
まぶたを固く閉じる。
やめろ、
やめろ、
うるさい、
俺は………俺は―――ッ!!
その時だった。
太く、甲高い、一筋の音が鼓膜に届く。
それが辺りに響き渡った、ほんの刹那の後──
世界から、音という音がぱたりと姿を消した。
張りつめていた空気は不意に鎮まり返り、まるで誰かが時を止めたかのように、あたりは完璧な静寂に包まれる。
目を閉じていたはずなのに、まぶたの裏がふわりと明るむ気配があった。キルはゆっくりと目を開く。
そして──その光景に、言葉を失った。
そこは、“海の底”。
けれど、ただの海ではない。あたり一面が淡く眩い光に包まれた、幻想的な場所だった。
足元から頭上まで、冷たい水の感触がじんわりと肌をなぞり、髪がゆらりと揺れる。
視界の奥、光の粒が舞うようにきらめいており、漂う水の中でそれらは星のように瞬いていた。
キルは息を呑んだまま、ただその場に立ち尽くす。
けれど、目を凝らしてみると──
その“海底”が、見覚えのある場所だと気づく。
自分が立っているのは、いつも夢に現れる、あの交差点の真上だった。
揺らめく水と光の中に、信号機や街灯のシルエットが、まぼろしのようにぼんやりと浮かんでいる。
ふと、大きな影が視界を横切った。
キルははっとして頭上を見上げると、
そこにいたのは──あの白いクジラだった。
海面近くを、ゆっくりと背びれを動かしながら泳いでいる。
その姿をただ目にするだけで、これまでは身体がすくんで動けなくなっていた。
けれど今は、不思議と恐怖はなかった。
まるでずっと前から、ここで再会することが決まっていたかのような、静かな安堵が心を満たす。
海面で乱反射する光が、クジラの身体にまとわりつき、金の鱗のようにきらきらと輝いている。
その雄大な姿を、キルはただ静かに見つめていた。
──これまでのこと。
──これからのこと。
──そして、あいつのこと。
浮かんでは沈む思考の断片を、ゆっくりと手繰り寄せていく。
本当は、向き合う覚悟なんて最初からなかった。
できれば、何も知らないままでいたかった。
見て見ぬふりをして、逃げつづけたかった。
でも、もう無理だった。
胸の奥に溜まり続けた“それ”は、もう隠せないほど大きくなっていて──
押し殺していた感情が、静かに、けれど確かにあふれ出そうとしていた。
今、ちゃんと向き合わなければならない。
逃げることも、誤魔化すことも、もうできない。
キルはゆっくりと目を閉じ、
そして、迷いのない意志を込めて、再びその瞼を開いた。
視界の先。
水の向こう、光の粒に包まれて泳ぐ白いクジラは、あまりに美しかった。
それはまるで──
誰よりも遠くへ行ける存在。
誰にも縛られず、ただ自由に、光の中を駆けるもの。
(……弐十)
キルは、呟くように口を開いた。
「なぁ……おまえ、弐十くんなんだろ……?」
一瞬、あたりが深く静まり返る。
その直後、海中に低く、震えるようなクジラの声が響いた。
その音は、まるで大地の奥底から沸き上がるように、空間を震わせていく。
キルがその声に圧倒されていると、クジラは大きく旋回しながら、こちらへと向きを変えた。
そして、ゆっくりと、ゆっくりと──降りてくる。
光の粒を全身に纏ったクジラは、まるでこの世界とは別の時間を泳いでいるようだった。
見慣れたはずのその姿が、なぜかとても遠く、そして尊く思えた。
あまりに美しく、あまりに眩くて。
白む視界にキルは目を細め、目を閉じる。
しばらくして、気配がふっと消えたような気がして、キルはそっと目を開けた。
さっきまでの眩い光は、もうどこにもなかった。
ゆらゆらと揺れる海面の光に照らされて、その向こう、横断歩道の先に──誰かが、立っていた。
ゆっくりと視線を定め、その輪郭を見極める。
そしてキルは、かすかに息を飲み、呟く。
「……弐十くん……」
夢の中で幾度も見た、あの姿。
前髪がふわりと揺れ、その隙間から視線が合う。
表情は、いつものように読み取れない。
けれど、たしかに──弐十は、まっすぐにこちらを見ていた。
そして、最初に沈黙を破ったのはキルだった。
「お前さぁ……ほんとにいい加減にしろよ?」
苦笑混じりに吐き捨てるように言いながらも、その声はどこか優しかった。
「現実でも夢でも、俺のことどんだけ振り回せば気がすむんだよ。何回呼んでも無視するし、クジラに化けて出てくるし……、
キショイ嫌がらせすんな! おかげで寝不足続きで体調最悪だぞ!」
恨み節のはずなのに、キルの口元は緩んでいた。
まるでいつも通り、弐十に悪態をついて笑っているように。
「……まあ、これまでのことは全部、許してやるよ。だから今日は、逃げずにちゃんと──話を聞いてほしい」
ふいに真面目な声色に変わると、弐十はほんのわずか、目を瞬かせ、それから、わずかに──こくりと頷いたように見えた。
その反応に、キルは思わずふっと笑ってしまう。
そして、静かに、話しはじめた。
「……お前さ、よく言うだろ。
俺のこと、“一番の友達”とか、“最高の友達”とか」
「……俺は、そういうの慣れてなくてさ。つい、言葉の裏を勘ぐってしまうし、素直に受け取れなかった。 でも──本当は、俺も、思ってたんだよ」
ぽつりと落とすように、キルは言葉を続ける。
「……俺にとっても、お前は──、
一番の友達だった」
その声は少し照れていて、
キルは俯いて、水の中でぼやける自分の足先を見つめる。
「俺の『面白い』にちゃんと共感してくれて、 誰よりも俺のことを理解してくれる。どん底にいたときも、お前だけはそばにいてくれた」
「どれも全部……全部、嬉しかったんだ。
だから俺も、お前のことが──、誰よりも、大事だった」
吐き出した瞬間、胸の奥で何かがドクンと脈打った。
それが喉をせり上がってくるのを感じて、キルは一瞬、言葉を止めた。
「それだから……、お互いに必要とし合ってるって、思ってたんだ。…ずっと、そう、思ってた」
でも──と、キルは少しだけ顔をゆがめる。
「……実際は、違ったんだよな……。」
「お前はずっと、俺に……合わせてくれてたんだって、最近になってようやく気づいた」
言葉の終わりと同時に、キルは視線を落とす。
目の奥がじわじわと熱を帯びて、鼻の奥がツンと痛む。
「お前は、俺より面白くて、才能があって、周りからもちゃんと信頼されててさ。……俺にはないものを、いくつも持ってる」
そう言葉にするたびに、胸の奥がずきりと痛む。
周囲が褒めるお前を、俺は誰よりも近くで見てきた。その才能も、真っすぐさも、優しさも──全部。 それらを知るたびに、俺は心のどこかで願ってた。「お前の全部を、俺だけのものにできたらいいのに」って。
誰にも触れさせたくないって、思ってた。けれどこの想いには名前がなくて、ただ、燃えるような熱だけが、確かに俺の中に残ってた。
黒く、重い感情が、思い出と一緒に胸の奥で渦を巻く。
抑えていたはずの何かが暴れ出すように、思考を支配していく。
「ずっと、羨ましかった。 ずっと、憎くて―、」
キルは息を震わせ、言葉を絞り出す。
「俺は……お前のことが、ずっと欲しかったんだ……」
視界が滲み、弐十の姿がぼやけていく。
頬を伝った涙は、水中でやわらかな光の粒となり、ふわり、ふわりと海面へと昇っていった。
その瞬間、弐十の瞳がわずかに見開かれる。
何かを言おうとしているように、口元がかすかに動いた。でも、その声はキルの耳には届かなかった。
「……いかれてるって、思っただろ?」
自嘲するように笑って、キルは続ける。
「俺だって、そう思ってるよ」
「こんな、みじめな気持ちになるくらいなら、何度も、お前を遠ざけようと思ったこともあった。
でも……俺の勝手な嫉妬や劣等感で、お前との関係が壊れていくなんて、絶対に耐えられなかった…」
「……本当はずっと、見て見ぬふりして、何も感じないふりして、生きていきたかったのに…っ」
その言葉を最後に、声が喉の奥で詰まり、もう続けられなくなった。
キルは下を向いて、奥歯を噛み締める。
唇がわずかに震えていた。
苦しい。
でも、ここで吐き出さなきゃ、何も変わらない
そんな想いだけが胸に残る。
と、そのとき──
水の中に微かな振動が走った。
足音のような気配に、はっと顔を上げると、弐十がこちらに向かって、ゆっくりと歩いてきていた。
驚きで息を呑む。
けれど、身体はまるで金縛りにあったように動かなかった。
一歩、一歩、縮まる距離。
やがて弐十が目の前に立ち止まると、視線が、まっすぐキルと交差する。
その瞬間、
右腕をぐっと掴まれて、
キルの身体は強く抱き寄せられた。
「……なんで……」
呆然としたまま、言葉がこぼれる。
混乱していた。けど、そのぬくもりだけは、あまりにリアルだった。
弐十は、優しく微笑み、何も言わずにその両腕でキルをしっかりと抱きしめる。
思考は止まったままだった。けれど、その腕の中に包まれた瞬間、キルの中で何かがふわりとほどけていった。
──わかってる。
これは現実じゃない。
これは、お前じゃない。
『全部受け入れてくれて、傍にいてくれる。』
お前に、そんなふうにいてほしいと願う俺が作り出した都合のいい幻だ。
でも、それでも──、
たとえすべてが嘘でも、夢だとしても、
どうか、今だけは、ここにいてほしい。壊れないでいてほしい。
弐十の腕が優しくキルの背中を撫でる。
ずっと欲しいと願った、そのぬくもりに触れた瞬間、キルの目から、ぽろりと大粒の涙がこぼれた。
そっと弐十の肩に顔を埋める。
こらえていた感情が、次々と涙と共にあふれ出した。
「…女じゃねぇんだから……こんなの、やめてくれよ……っ」
わずかに上擦った声でそう言いながら、キルはかすかに笑った。
震える手で、そっと弐十の背中に手を回す。
「ずっと、お前と一緒にいれるなら、
…もうこのまま…覚めなきゃいいのにな…」
夢が覚めれば、また、容赦のない現実が牙を剥く。
傷だらけの日々が、待っている。
だからこそ、今は願ってしまう。
せめて、あと少しだけ──この夢に触れていたい。
弐十と引き離されるあの冷たい孤独を、もう二度と味わいたくなかった。
それほどまでに、この腕の中が、あたたかくて優しかった。
そのとき──、
どこか遠くで、誰かが自分の名前を呼ぶ声がしたような気がした。
意識が、その声に引かれるようにふわりと浮かぶ。
キルは、声の主を探すように、そっと目を開け、上を見上げた。
──海面の向こう、光の粒が揺れていた。
ゆらゆらと波打つ水面が、空のようにまばゆく輝いている。
「……綺麗だな……」
眩さにそっと、キルは目を閉じる。
意識も、身体の輪郭も、次第に曖昧になっていく。
まるで深い海に、夢ごと溶けていくように、
愛しい人のぬくもりに抱かれ、音もなく、ゆっくりと深海の奥へと沈んでいく──
今だけは、それでいい。
ただ、ここにいたいと、そう思った──
────
都内某大学病院。
深夜の救急外来の待合室は、冷たい空気と無機質な照明に満たされていた。
結城ソラはソファに座り、スマホを握りしめたまま、うつむいている。
──と、そのとき。自動ドアが音を立てて開いた。
誰かの靴音が床を叩くように響く。
顔を上げると、
駆け込んできた弐十の姿が見えた。
「弐十ちゃん…!!」
「ソラくん! ごめん、遅くなった…!!」
呼吸を整えながら、駆け寄ってくる弐十にソラは立ち上がって会釈する。
「すんません、急に呼び出して…」
「そんなの気にしないでいいって……それで、あいつは?」
「処置が終わって、さっき病室に移されました。詳しい検査は明日になるみたいで…」
「……そっか……」
二人は言葉を失い、少しの間、静寂が待合室を包む。
「弐十ちゃんに、キルさん元気ないって聞いて……、
なんとか気晴らしになればと思って外に連れ出したけど……返って無理させたかもしれないです……ほんとに、すみません」
うつむきながらそう告げるソラに、弐十はゆっくり首を振った。
「いや。別に、ソラくんのせいじゃないよ。……それに、あいつのことだから。またすぐに元気になるって」
「……うん」
「…気にかけてくれてありがと。……あとは俺がやるから、ソラくんはもう帰っていいよ」
優しく笑う弐十の表情に、ソラの胸がぎゅっと締めつけられる。
「……、わかりました。よろしくお願いします…」
「うん。また連絡するから」
ソラは軽く頭を下げ、弐十の横を通り過ぎようとする。
ふとその瞬間、
脳裏をかすめるのは、キルが夢の中で見たという白いクジラ。
『”愛”、”癒し”、”恐れの源”……』
──夢占いの診断結果が、なぜか今になって脈打つように胸に残る。
不意に足を止め、ソラは振り返った。
弐十と視線がぶつかる。
深く、黒く、感情を秘めた瞳。
その眼差しに、ソラは一瞬、息を呑んだ。
「………クジラ…………?」
小さな呟き。
意味を問うように弐十が眉をひそめる。
「え?…なに?」
けれどソラはすぐに首を振り、言葉を閉ざした。そして、
「なんでもないっす。………キルさんのことお願いします。」
そう言い残して、ソラはゆっくりと自動ドアの方へと歩き出した。
弐十はしばらく、その背中を呆然と見つめていた。
すると、不意に背後から声をかけられる。
「**さんの付き添いの方ですか?」
「あ、はい。そうです」
「病室へご案内しますね」
弐十は短く返事をし、看護師の後ろについて歩き出した。
足音だけが、夜の病院に静かに響く。
エレベーターの扉が開き、無機質な光が中から漏れ出した。
乗り込んだ瞬間、ひやりとした空気が肌を撫でて、心音が遠くなっていくような気がする。
やがて、機械音とともに扉が再び開く。
5階の病棟フロア。誰の気配もない長い廊下に、白い光だけが静かに伸びている。
「こちらです」
看護師に先導され、突き当たりにある個室の前へと向かう。
一枚のカーテンが静かに開かれた。
そこにいたのは──
点滴の管を繋がれ眠る、キルシュトルテだった。
「何かあれば、ナースコールでお知らせください」
それだけを言い残し、看護師は足早に去っていった。
弐十は、ベッドの横に置かれた椅子に静かに腰を下ろし、足元に荷物を置いた。
「……トルテさん、来たよ」
その声は、自分でも驚くほど、かすれていた。
そっと顔を覗き込む。
キルは静かに寝息を立てていた。
目の下の隈と、痩せた輪郭。消えてしまいそうな白い肌。
「……こんなんになるまで、何してんだよ、おまえ」
左手を伸ばして、キルの頬に触れる。
ひんやりとした感触に、思わず撫でる指先に力がこもった。
「いつも、全部ひとりで抱え込んで……ほんと、おまえらしいよな」
苦笑まじりの声が、どこか震える。
こんなふうになる前に、もっと早く会いに行けばよかった。
強がりの仮面なんて、こんなにも簡単に剥がれるのに。
「ごめんな……遅くなって」
弐十が唇を噛み、顔を伏せかけたそのとき──
「……にとくん……」
かすかな囁きが、ベッドの上から零れた。
弐十は息をのんで顔を上げた。
──目は閉じたまま。
だがその表情は、どこか穏やかで、
口元には、微かに笑みが浮かんでいた。
そして、その頬をつたう、一筋の涙。
「……俺、お前の夢の中にいるの……?」
キルがまた、あの夢の中にいることを──、そしてそこには“弐十”がいることを、直観で悟る。
今、キルが見ているのは、きっと悪夢じゃない。
恐れでも、痛みでもない。
その夢は、やわらかく、あたたかく、
誰にも邪魔されることのない、静かな安らぎで満たされている。
そう思えた。
そうであってほしいと、心から願った。
弐十は、ゆっくりと立ち上がり、キルの顔へと身をかがめる。
そして、そのまま、
──そっと、唇を、重ねた。
ただ、確かにここにいるということを、伝えるように。
やわらかな吐息と、触れ合う体温が、境界を溶かしていく。
「……トルテさん」
弐十は、キルの右手を取り、優しく包むように両手で握る。
「ね……もう、大丈夫」
「ここにいるよ。──ずっと、お前のそばにいる」
言葉にするたび、祈るようにこみ上げてくる想いが、声ににじむ。
届いてほしい。
この手の中にいるお前が、もうひとりで苦しまなくて済むように。
どれだけ離れても、戻る場所があると、思い出せるように。
「…だから、……早く帰っておいで」
どこまでも優しく、けれど切実に。
弐十の囁きは、キルの深い眠りの奥深くへと、
波紋を広げていった──
────
ここは、夢のはざま。
静かな海の底。
白いクジラが二頭、
ゆっくりと声を交わしながら、
はぐれぬように、そっと寄り添い泳いでいる。
それはまるで、
もう二度と手放さぬようにと、心が祈り続けた光景だった。
end.