テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
手の中で、それは狂気じみた力で暴れ狂った。摩擦音にも似た、細かくおぞましい駆動音が掌のなかで爆発する。ギチギチと音を立てる無数の微細な棘を持った脚が、翼の皮膚を猛烈に掻きむしり、肉を拒絶した。
「逃がすかよ……っ!」
翼は自らの勝利を確信し、昏いうろの奥から、親指と人差し指でその「王」を力任せに引き抜いた。
「捕ったぞ……!」
木漏れ日の下へ掲げられた、林の主。しかし、至近距離でその全貌を網膜に焼き付けた瞬間、翼の思考は完全に停止した。
まず、あるべきものがなかった。少年の憧憬をかき立てる、あの誇り高い大顎が、どこにも見当たらない。
代わりに取りつけられていたのは、異様に長い二本の触角だった。それはまるで意思を持つ生き物のように、空中を全方位に向けて激しく、狂おしく振り回されている。
「……あれ?」
形状はたしかに楕円形をしており、黒く、光沢があった。だが、決定的に何かが違っていた。
翼は恐る恐る指先に力を込め、捕らえた獲物を反転させた。
脂ぎった、不吉な赤茶色の腹部。敏捷性のためだけに研ぎ澄まされた、毛羽立つ六本の脚。
「……ゴキ?」
それも、民家の片隅で見かけるような代物ではなかった。大自然の濃密な養分を吸い尽くし、通常の数倍の大きさにまで膨れ上がった、森の原種だった。
あの不吉な予感は、霊的な警告などではなかった。人間が数百万年という途方もない時間のなかで遺伝子に深く刻み込んできた、根源的な嫌悪の対象に対する至極まっとうな防衛本能だったのだ。
我に返った翼の絶叫が、静寂を守っていた林に鋭く突き刺さった。
「うわああああッッッ!!!」
パニックに陥った翼が指の力を抜いた瞬間、その野生の塊は「ブゥゥゥン」と地鳴りのような重低音を響かせて空中へ飛び立った。そして重力に逆らうように直進し、ピンポイントで翼の額へと衝突した。
「えーーーっ!?」
顔面を高速で這い回るカサカサとした感触に、翼は虫取り網を狂ったように振り回し、頭を激しく振り乱した。黒い影はそのまま、光の届かない背後の闇へと超高速で溶けて消えていった。
翼はその場に、膝から崩れ落ちた。
貪欲に掴み取ってしまったせいで、掌には「奴」の油ぎった感触が、刺青のように生々しく残っている。何度ズボンに押し付けて擦りつけて も、精神を侵食していく汚泥のようなダメージは消えなかった。
「――だから触ってはいけないと言っただろう?」
背後から再び、あの声がした。振り返ると、いつの間にか一人の男が立っていた。派手なアロハシャツを着たその男は、気の毒そうな歪んだ微笑を浮かべ、手には一本の殺虫剤を握りしめていた。
「おじさんもさ、ここにオオクワガタがいるって噂を聞いて仕掛けを作ったんだけど……。毎年この時期、引っかかるのはアレばかりでね。君、素手でいったの? 大した度胸だ……」
男が諦念を交えて呟いた、その瞬間だった。あたり一面の草むらから、
『カサカサカサ……』
『カサカサカサカサ……』
と、一斉に不穏な微振動が響き渡った。見れば、周囲の木々のうろから、積み重なった枯れ葉の隙間から、無数の触角がアンテナのように突き出て、一斉にこちらを探るように震えている。
「ヒッ……!」
翼は跳ね起き、脱兎のごとく走り出した。網もカゴもその場に投げ捨て、境界線であるガードレールを野生動物のような跳躍で飛び越え、アスファルトの上を猛ダッシュした。
#お仕事
#秘密
近所のショッピングモールの自動ドアが、静かに滑り出る。
人工的な冷房の、素晴らしい冷気が全身を包み込んだ。白い蛍光灯の均一な明るさ、穏やかに流れる館内BGM。人類が築き上げた文明の利器が、そこには満ちていた。ここは安全な世界だ。
放心状態のまま、フードコートのプラスチックの椅子に腰掛けようとした、そのときだった。
視界の端を、黒く平たい影が「シューーーッ」と、物理法則を無視したような速度で滑るように横切っていった。
お盆を持った家族連れも、談笑するカップルも、誰もその存在に気づかない。しかし、冷房の効いた完璧な快適空間の片隅で、それは確かに、次の標的をじっと見据えていた。
あの予感は、林の中だけのものではなかったのだ。
(カサカサ……)
もはや幻聴か現実かも判別のつかない音が、翼の耳の奥深くで、いつまでも静かに鳴り響いていた。
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!