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「筋骨さん、ちょっと気が早いかもしれないけれど、私たちもし結婚したら、」
急な『結婚』とういワードにドキリとして、思わずヒア美さんの目を見ると彼女は「それみたことか」とでも言いたげな悪戯っぽい笑みを浮かべ、上目遣いに僕を見ていた。その時、たしかに世界は止まっていた。
「お待たせいたしました。ブレンドのホットでございます。」
再び世界に時間が流れ始めたのは、コーヒーを運んできてくれたウエイターのそんな何気ないひと言が耳に入った時だった。
「あ、あ、すみません、ありがとうございます。コーヒーですよね。この自慢の大胸筋でキャッチしますのでお盆ごと投げてもらって大丈夫です」
「そんなことしませんよ」
「あ、大丈夫です。いつもそうしていただいてるので。ほら、万が一こぼしてしまったらアレですし。ね?ヒア美さん」
「え?あ、お盆がどうしたんですか?すみません、今ちょっと帰りに石鹸以外に買って帰るものがなかったかどうかを再確認しておりました。」
「なるほどですね。ではコーヒーはテーブルに置いていただいて、先ほどの話の続きをしましょうか。」
ウエイターが去るのを見送った僕は、なるべく余裕がある感じを感じとってもらえるような感じで、意識して落ち着いた声色でヒア美さんに尋ねた。
「で?僕とヒア美さんが結婚したら…?」
ヒア美さんはそんな僕の心の中の葛藤なんて知りもせずに、コーヒーにシュガーをサラサラと入れながら答えた。
「いや私と筋骨さんが結婚したら、私の名前『筋骨 ヒア美』になるじゃないですか。今までずっとキャン友ヒア美でCan you hear me?みたいな感じでやらせてもらってたんでそれがもうツカミとして使えなくなっちゃうな、みたいなことを考えてたってだけの話です」
「あぁ…そうか。キャン友ありきでヒア美って名付けられたから…」
「あ!いいんですいいんです。もう一つ『ねーうしとらうーたつみー it’s me』というツカミもありますので。これはちょっと弱いのかあんまりウケたことありませんけど」
名を名乗ってからというもの、ヒア美さんは随分と饒舌になったように思う。
やはり名前というアイデンティティの根幹を成すものを相手に曝け出すことによって心の扉が加速度的に開いたというか、なんかそういう感じなのだろう。
俺だってそうさ。
筋骨隆々太と手前を名乗った瞬間から何か一つ心にあった重しが無くなった感じがした。
あぁ、だからか。
だから彼女より先に名乗った俺の方がより早く心を解放できていたのだな。
そして彼女も名を名乗ることによって、ようやく私同様心を解放せるに至ったということだ。
そう考えたらやっぱり一旦本名を名乗っておくことって大事なのかもしれない。自分を解放するためにも、相手に解放させるためにも。
そんなことがわかったところで気になるのが。
「ヒア美さんはなぜそんなにツカミとかウケを気にされるんですか?」
そう訊ねるとヒア美さんは、えっ?と驚いた表情を浮かべた後、眉間に皺を寄せ上目遣いに天井を睨んだ。
しばしうーんと唸ったヒア美さんは、眉根を寄せた表情を崩さぬままこちらに向き直り、先ほどまでより幾分低い声でこう私に告げるのだった。
「……やっぱりこう、ベースとしてちょっとウケたいっていう気持ちがあるからなんですかね。」
「あ、なるほどね。」
カッコいい女だな。素直にそう思った。
そう思ったけど。
「けども2話で名乗られたとき、僕そんなに笑ってなかったですけどね。あははは。」
言ってから、しまった、と思った。
僕の言葉を聞いてヒア美さんは明らかに機嫌を損ねている。歯をガチガチと鳴らし眉間に深く皺の入って、眼は真っ赤に充血している。
てゆーか胸ぐらを掴まれている。怖い。
胸ぐらを掴まれるのは産まれて初めてだ。胸ぐらを掴まれたことがある、という人に出会ったこともない。
ストリートだったら拳を交えるのは避けられない状況だろう。
だが、ここで退くわけにはいかぬ。
曲がりなりにも関東最強と謳われたボディメイク夫妻、筋骨夫妻のその長子。子守唄は忘れても、プロテインは飲み忘れない。が、それは今は関係ない。
またもこうしてごちゃごちゃとひとり考える私に業を煮やしたのか、ヒア美さんは更に詰め寄って。
「おい聞いてんのか!?聞こえてます?また一人の世界にびたってます?キャン友ヒア美でCan you hear me?」
「ず、ずっと聞こえてるよバカ!(互いのこの胸の高鳴りもな)」
筋骨隆々太36歳、俺の婚活はまだ始まったばかりである。