テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
59
鷹槻れん

32,346
宇津Q
3,909
#初めて
買い物を済ませて三人で車へ戻ろうとしていたときだった。
「……あれ? 瀬戸さん?」
ふいに背後から声を掛けられた和葉は足を止めた。
振り返るとそこには四十代くらいの女性が立っていた。
「鈴村さん……どうも……」
和葉が小さく会釈すると、鈴村は彼女の隣にいる湊とその腕に抱かれている詩音へと視線を向けた。
「あら、もしかして、お子さんと……」
そこまで言いかけたところで和葉はわずかに表情を強張らせた。
「あ、そ、そうなんです。あの、急ぐので失礼します」
それ以上の会話を避けるように和葉は湊の背中にそっと手を添えた。
早く行こう――そんな意図が伝わる仕草で、湊はすぐにそれを察して軽く会釈をするだけで余計なことは何も言わなかった。
一方、湊に抱っこされていた詩音は無邪気に鈴村に向かって小さな手を振る。
「バイバイ」
「……バイバイ」
つられるように手を振り返りながら鈴村は去っていく三人の背中をじっと見つめていた。
車に戻ると和葉は申し訳なさそうに湊へ視線を向けた。
「あの人は?」
「同じ職場の人の鈴村さんっていうんだけど……」
和葉は一度言葉を切ってから小さく息を吐いた。
「あの人、噂好きで……」
「噂好き?」
「うん。見聞きしたことをすぐに言いふらすの。私がシングルマザーだってことも知ってるから……湊さんを見て何か思ったと思うわ」
「そうなんだ」
湊が短く返すと、和葉は気まずそうに視線を落とす。
「ごめんなさい……」
「どうして謝るの?」
「湊さんと付き合ってることを隠したいわけじゃないの。でも……職場の人にはあまり知られたくなくて……」
「分かってるし、気にしてないから」
その言葉に和葉が顔を上げると、湊はいつものように落ち着いた表情を浮かべている。
「和葉が嫌なら無理に話す必要もないから、そういうのは気にしなくていい」
「……ありがとう」
「それじゃあ、帰ろうか」
「うん」
湊はエンジンをかけて車を発進させる。
走り出して暫く、車内では詩音の声だけが後部座席から楽しそうに聞こえていて、湊や和葉は声を掛けられたことに頷く程度でアパートに着くまであまり会話は無かった。
「それじゃあ、これからご飯の支度をするから、悪いけど詩音の相手をお願いしてもいい?」
アパートに到着して部屋へ入るなり、和葉は買ってきた食材を片付けながら夕飯の準備に取り掛かった。
「任せて。詩音ちゃん、ご飯ができるまで俺と遊んでくれるかな?」
「うん、いいよ!」
詩音は嬉しそうに湊の手を取ると、さっそくブロックやらを広げて遊び始める。
普段は詩音の相手をしながら夕飯を作ることが日常の和葉にとって、湊が見ていてくれるのはとても助かった。
おかげで料理はいつもよりずっとスムーズに進んでいく。
炊飯器から炊き上がりを知らせる音が鳴る頃にはハンバーグもこんがりと焼き上がり、更には簡単な卵スープまで用意し終えて和葉はほっと息をつく。
「良い匂いがするな」
「おなかすいたー!」
すると、どうやら料理の匂いに誘われたらしく、遊んでいた二人がキッチンまでやって来る。
「もう出来るよ」
「何か手伝えることある?」
「しおん、おてつだいするー!」
手伝いを申し出た二人に微笑みながら、和葉はそれぞれに仕事を頼むことにした。
「それじゃあ詩音はこれでテーブルを拭いてきてくれる?」
「わかった!」
「湊さんは、ご飯をよそってもらえるとありがたいです」
「任せて」
二人がそれぞれ手伝ってくれたおかげで、盛り付けから配膳まで驚くほど早く終わった。
いつもなら詩音の相手をしながら準備をするからもっと時間がかかるけれど、今日は普段の半分ほどの時間で食卓を整えることが出来た。
三人が席に着き、揃って手を合わせる。
「いただきます」
詩音と湊はさっそくハンバーグを一口頬張った。
「……美味しい」
「おいしい!」
ほとんど同時に「美味しい」という声が重なり、和葉の頬が自然と緩む。
「ママのハンバーグ、だいすき!」
詩音は嬉しそうにハンバーグを頬張りながら満面の笑みを浮かべる。
「ありがとう」
「和葉のハンバーグ、久しぶりに食べられて嬉しいよ」
湊の言葉に和葉は少し照れたように視線を落とす。
「私こそ……喜んでもらえて嬉しいよ」
詩音が楽しそうに今日あったことを話して湊がそれに相槌を打ち、そこへ和葉も会話に加わわる。
そんな穏やかでどこか心地良いい時間はゆっくりと流れていく。
コメント
1件
ああ、このエピソード、すごく良かったです……。和葉さんが鈴村さんと鉢合わせたときの、一瞬の緊張感がリアルで、湊さんの「気にしてないから」という一言が沁みました。無理に引っ張らず、和葉さんのペースを尊重する――ああいう優しさ、本当に大人だなあって。その後の三人でご飯のシーンも、詩音ちゃんの「おいしい!」と湊さんのそれが重なる瞬間、じんわり温かくなりました。日常の積み重ねが少しずつ家族になっていく感じ、凄く好きです。