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宮内との関係が始まって2年の月日が経っていた。
付き合っているんだか、好きあっているんだか、怖くて確認できなかった関係は、宮内から決定的な言葉もないままずるずると続いていた。
陽子は24歳になっていた。
「ちょっといいかな」
副社長が、リクルートスーツに身を包んだ女性を本部に連れてきた。
「こちら、佐竹晴美ちゃん。黒田支店の新しい受付で入ったから。よろしくね」
目が大きく、顔が小さい。長く巻いた髪の毛をハーフアップにしたその姿に、本部の男たちは湧いた。
少し、男性を怖がるような弱々しい目つき。
照れたように口元を抑える仕草。
一瞬でわざとやっているのが分かった。
自分が男性にどう評価されるかをわかっている女。
陽子は一目で晴美が嫌いになった。
そしてそれと同時に、嫌な予感が胸を駆け巡った。
不思議と嫌な予感に限って当たるもので、晴美は当時営業係長に昇進していた宮内に、急速に近づいていった。
「やだー、宮内さん、怖い~」
本部の窓を開けているだけで、彼女の黄色い声が聞こえてきた。
それが彼女なりの牽制であることを理解するのにそう時間はかからなかった。
“この人は私の物だから”
笑い声の陰に、その言葉が重なって聞こえるようだった。
季節は初夏に入ろうとしていた。
「ずいぶん、可愛い子が入りましたねー」
誰かが、男から本音を聞きだすのは、事前じゃなく事後だと教えてくれた。
その教えに従い、一戦交えて煙草を吸う宮内に聞いてみた。
「ああ、佐竹ちゃんか」
みんながそう呼んでいるのは知っていたが、宮内の口から聞くと、途端に胸が熱くなった。
「可愛いよ。仕事覚えるの早いし、意外に仕事自体も早いしさ。容量がいいってのかな。生まれつき、器用なんだろうな」
意外に称賛の言葉が返ってきて、陽子は狼狽えた。
たしか自分と宮内が出会ったのも、同じくらいな時期だったはずだ。
その時は最低限の仕事ができない女だと、叱られたが。
「ああいう気立てのいい子が入ってくれると助かるよ。営業は仕事に集中できるから」
そのあと、宮内が何を話していたか、あまり記憶にない。でも確か、商談の時のお茶出しのタイミングや、店頭にカタログをもらいにだけ来た客の引き留め方など、彼女の一挙一動を褒めたたえていた気がする。
「私――――」
気づくと、枕に顔を半分埋めて言っていた。
「結婚するの」
下手すぎるカマの掛け方に自分でも唖然とした。
二人の関係を知りたい、進めたいと焦るばかりに、最終カードを切ってしまった。
確かに結婚しようと思えばできた。
友人が半ば陽子をだますような形で無理矢理紹介してきた市役所職員は、陽子を気に入っていたし、早く結婚がしたい様子だった。
親も市役所職員なら文句は言わないだろうし、友人お墨付きのその関係は、悪いものではなかった。
でも。
唐突にこんなカードを切るなんて。
でも、本音を言えば――――。
応えてほしかった。
そんな新人の女を切り捨てて、焦って陽子を取り戻してほしかった。
「結婚するなよ」と引き留めて
「俺じゃダメなのか」と抱き締めて
「俺にしろよ」とつなぎ留めてほしかった。
しかし、長い煙草の煙を吐き出して宮内が放った言葉は、
「おめでとう」
その一言だけだった。
シュッ ボッ チリチリ
絶望の中、服を身に着けていく陽子に、2本目の煙草に火をつける音が聞こえる。
今、彼は何を考えているのだろう。
それを想像するのも怖く、ストッキングに足を通した。
「————のにな。本当に欲ーーものは、欲しいと言えなーーーだよな」
宮内は独り言のように言った。
何て言ったのか理解するのを脳が拒否していた。
陽子はベストのボタンまで閉め終わると、宮内を振り返った。
「じゃあね」
「ああ。幸せになれよ」
「うん」
宮内はガウンを羽織った姿で軽く手を上げた。
ホテルの重いドアを開け、外に出た。
階段を降り、歩けば30分かかる24時間スーパーまでの道のりを仰ぎ見るように背伸びをした。
しょうがない。
彼は引き留めなかった。
悲しみもなければ、怒りもしなかった。
二人の今までの関係に、そして、二人のこれから未来に、どちらにも責任なんてない。
ただ二人が生きていく道がYの字に分かれていた。それだけのことだ。
今更ながら、宮内の発した言葉が、欠落した言葉を脳内で自動補正しながら蘇る。
『お前なら抱けるのに。本当に欲しいものは、欲しいと言えないもんだな』
ああ。そうか。あれは、晴美のことを言っていたのか。
最後にとんでもない振られ文句を吐かれたもんだ。
陽子はすっと水気を含んだ初夏の朝の空気を吸い込むと、スーパーに向けて歩き出した。
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