朝の湿った空気が、肺に張り付く感覚を、15年経った今でも、よく覚えている。
それだけ、陽子の体は、気持ちは、空っぽだった。
それなのにーーー。
「諦めたって。私のこと、本気だったってこと?」
宮内の怒りを含んだ視線を浴びながら、陽子は言った。
「当たり前だろ。じゃなきゃ、トップ目指して走ってるときに、お前のために時間をとったりするかよ」
確かに彼は忙しかった。
朝から夜中まで、平日から土日まで、いつでもスーツを着て、走り回っていた。
先輩社員に僻まれようが、多店舗に客を盗られようが、驕らず怒らず、ただ淡々と、1台1台を売り続けていた。
総務課長をはじめ、いろんな人間が、「あの男には近づくな」と言った。
危険な男だから、と。
それでも彼に傷つけられたという女性はいなかった。
彼はただ、孤独に目指していた。
営業の1位を。
守っていた。
トップセールスマンの立場を。
その合間に、確かに陽子との時間を、無理して作ってくれていた。
陽子は呆然としながら、静かに聞いた。
「じゃあ、あのとき、何て言ったの?」
「あのとき?」
「私が結婚するって言ったとき―――」
宮内は言うのもバカバカしいというように大きなため息をついた後、言った。
「“抱くのは簡単なのに、本当に欲しいものは、欲しいと言えないもんだな”って、言ったんだよ」
陽子の瞳から涙が零れ落ちる。
自分は、人生で初めて、本気で好きになった人に。
愛されていた―――?
それを勘違いして。
好きでもない男と結婚して。
結局は相手もこちらを好きじゃなくて。
今、その関係も終わろうとしている。
「捨てられて当然だ」
陽子は宮内から目を逸らすと、黒田市を見下ろした。
「あなたからも。夫からも」
遠くみえる街に車が走っていく。
あの中に宮内が売った車もあるのだろうか。
麻里子が決めた車もあるのだろうか。
早坂が金を数えた車も、
栗山が登録した車も、
走っているのだろうか。
ただの総務である自分は。
愛する男を信じることが出来ず、愛していない男を馬鹿にしていた自分は。
誰かの人生に影響を与えることはない。
「あのとき、ちゃんとあなたと話していたら、人生は変わっていたかな」
陽子は黒田市から視線を宮内に戻した。
「でも、もしタイムマシンがあったとしても、私は戻らない」
脳裏に娘の郁の顔が浮かぶ。
「私の人生は、これでいい」
微笑むと、また瞳から涙が流れてきた。
きっと明日は目が腫れるだけじゃなく、顔全体が浮腫んで、とんでもなく年を取って見えるだろう。
でもしょうがない。
15年前、泣かなかった分の涙だ。
代わりに、今の自分が泣いてあげるんだ。
ぐいと腕を引かれ、抱きしめられた。
当時は煙草の匂いがしたが、今は男物のコロンの香りがするだけだった。
その肩に抱き着く。
当時は硬く細かったが、今は厚みと柔らかさがあって、抱きしめると安心した。
ヘア剤で固めたこめかみあたりの髪の毛がチクチクと陽子の耳を刺す。その感覚だけ変わらない。
「捨てられるのなんか、待つなよ」
宮内が低い声を発した。
「お前の方から、捨ててやれ」
言うと、彼は身体を離し、陽子を見つめた。
「理由なら、俺がくれてやるから」
言うと、宮内は唇を陽子に押し付けてきた。
足の裏が痛い。
いつの間にか、陽子は精一杯、背伸びをしていた。
唇を感じたくて、もっと強く繋がりたくて、宮内にしがみつく様に抱きついていた。
身体全体がだるく、熱い。
ここ数年、いや、もしかしたら15年間、ずっと忘れていた欲情が溢れ出してくる。
この男に。
抱かれたい。