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「竜神様、今日も無事に過ごせましたこと、御礼申し上げます」
屋敷のすぐ前を流れる竜ノ川のほとりの小さな祠。
祖母は毎日掃除し、一日に何度も手を合わせていた。
暑い日も、寒い日も、雨の日も、雪の日も。
『|水緒《みお》、ずっと一緒にいたい。永遠に』
そう言っていたのは誰だっただろうか?
祖母が祠の掃除をしている間、近くにいた人。
覚えているのは着物を着ていたことと、銀色の何か細いものがあったこと。
顔は全く思い出せず、何歳くらいのどんな人だったかも記憶にない。
「祠は絶対に壊してはいけないよ」
病気で亡くなった祖母の最後の言葉は、家族のことではなく祠のことだった。
当時、私はまだ7歳。
祖母の行動も意味もわからないまま、すぐに母まで流行り病で亡くなり、その後は着物の男性に会うこともないまま、あっという間に10年が過ぎた。
◇
「……え? 結婚?」
女学校から帰った水緒は、父から急に持ち出された縁談に困惑した。
手荷物を女中に手渡し、慣れた足取りで廊下を進む父の後を静かに追う。
ギュッギュと音が鳴る縁側を歩き、連れて行かれたのは応接間。
そこで待っていた見知らぬ洋装の男性に水緒は戸惑った。
「娘の水緒だ」
父の紹介で慌てて水緒はお辞儀をする。
「大倉宗一郎です。よろしく水緒さん」
立ち上がり水緒の前までやってきた男性の笑顔は、優しいのになぜか少し怖い。
男性と話す機会があまりないからかもしれないと、水緒は自分に言い聞かせた。
「宗一郎くんは行楽地の開発に力を入れているあの大倉財閥のご子息で、今度この地域の開発を手がけることになったそうだ」
素晴らしい青年だと褒める父と、自信に満ち溢れた宗一郎。
「良好な自然を備えたこの地の文化や経済を活性化させるため、ぜひ古河様のお力添えをいただきたくて」
よろしくと握手を交わした二人は、座布団に座り今後の予定について語りはじめてしまった。
「この川の蛇行を少し変えて、この屋敷を大きな宿泊施設に建て替えましょう」
もちろん最上階の一番良い部屋が古河様の部屋ですと宗一郎に言われた父は、嬉しそうに頷いている。
「川をここからこのように……ここに橋を……枯れた桜も植え替えて……」
景色は最高、川の向こうの商店街も道を整備し、馬車が往来しやすくしようと資料を広げながら熱く語る宗一郎を横目に、水緒は冷めた緑茶に手を伸ばす。
お気に入りの袴に座り皺が寄らないか心配する余裕があるほど、二人の話は水緒には興味がないものだった。
「では大筋合意ということで」
「あぁ。水緒を妻にしてもらえるなら、工事許可証に署名しよう」
え? 私を妻にしてもらえるなら?
水緒は父の言葉に目を見開いた。
この縁談ってお父様から頼んだものなの?
驚いた水緒が顔を上げると、にっこりと微笑んだ宗一郎と目があってしまった。
「水緒さんと少し近くを散策させていただいても?」
「えぇ、ぜひ。水緒、ご案内しなさい」
断ることも許されない状況に水緒は溜息をつく。
宗一郎にスッと差し出された手を取りながら水緒は立ち上がった。
応接間から玄関へ、そして屋敷の外へ連れ出される。
歩く速さは水緒に合わせてくれていて、段差も気遣ってくれるので優しい人のようだ。
背は水緒より20cmほど高く、顔も整っている。
艶々な黒髪は男性にしては少し長めだが、長すぎるということもなく、洋装もとても似合っていると水緒は思った。
「急に結婚で驚いたよね?」
「はい」
「俺も今日、君のお父上に言われて驚いたけれど、こんなに美人とは予想していなかった」
お世辞だとはわかっているけれど聞き慣れない「美人」だという言葉に水緒の顔が火照る。
「その淡い水色の着物も、紺の袴もよく似合っているよ」
「この着物は母の形見なんです。とても気に入っていて」
透かし柄が入った水色の着物は、水緒のために裄丈を伸ばし着られるようにしたもの。
似合っていると言われた水緒の胸がドクンと高鳴った。
「水緒さん。良き夫になれるように努めるから、結婚してくれないか?」
財閥の子息と聞き、高慢な人だと勝手に思い込んでいたのかもしれない。
もともといつかは家のために政略結婚するだろうと思っていた。
急だったけれど、相手が優しい人でよかった。
「失礼ですが、宗一郎様はおいくつでしょうか?」
「あぁ、うっかりしていた。何も教えていなかったね。今年23歳になるよ。水緒さんは?」
「17歳です」
「6歳も上では、嫌だろうか?」
「いいえ、とんでもないです」
少し年上に見えると思った勘は間違っていなかった。
6歳年上と聞いて、『大人の包容力』を期待してしまう自分がいる。
優しくて頼りがいのある見目麗しい男性。
結婚相手としては申し分ない、それどころか最高の相手だと友人たちから揶揄われそうだ。
「水緒さん、好きな食べ物は?」
「私は桃が好きです」
「桃の花は今咲いているから、果実は7月頃? その時期になったら持ってくるよ」
一緒に食べようと言われた水緒は「はい」と微笑んだ。
「……それで、求婚の返事はもらえないのかな?」
少し照れた表情をしながら水緒の顔を宗一郎が覗き込む。
「はい。よろしくお願いします、宗一郎様」
水緒は宗一郎と繋いだ手をそっと離し、お辞儀をした。
幼い頃に祖母と母にお辞儀だけは厳しく教わった。
背筋を伸ばして、45度をしっかりと守る。90度の最敬礼は神様へのみ。
ゆっくりとした仕草で腰を折り、その姿勢で少し間をとってから上体を起こす。
「水緒さんは、大和撫子だね」
「そんなことはないです」
できて当然ですと答える水緒に宗一郎は「すごいよ」と微笑んだ。
再び宗一郎に手を握られながら竜ノ川のほとりを二人で歩く。
枯れた桜、生い茂った草、昔は綺麗だった川が今日も濁っている。
母や祖母が生きていた頃は満開の桜と、空を写したような澄み渡った綺麗な川だったのに。
「……祠?」
「竜神様を祀ってある祠です」
小さな祠は今にも壊れそうなほどボロボロだった。
水緒の記憶の中の祠は、祖母が毎日掃除をしていた頃の綺麗な祠。
こんなに汚れているなんて知らなかった。
そういえばここにはずっと来ていない。
祖母と母が亡くなり、もしかしたら誰も掃除に訪れなくなったのかもしれない。
「……手が汚れるからやめた方がいい」
水緒が祠に触れようとすると、宗一郎に優しく止められた。
「川の蛇行を変えたいから、この祠は撤去かな」
「えっ?」
上流と下流を交互に見ながら呟いた宗一郎の言葉に、水緒は驚いて顔を上げた。