大洋では、柔らかな光が差し込み、岩や砂に模様を作り出している。周りには息を呑むほどに美しいと思える珊瑚礁の数々。鯨の唄は響き渡り、波は姿を変えて怪獣のように大きくなった。 そんな中で、黒く長い鰭が海面から覗く。物凄い速さで直線に進んでゆくと、急に向きを変えて飛び跳ねた。それを見たものは魅了されることだろう。スラリと長い鰭は空高く、眼のように思える白い模様は何よりも目立つ。鍛えられた筋肉は恐ろしさも込めていた。この青年は、誰が何と言おうとシャチの獣人 ディアーノ・ドメニコーニである。ディアーノは空を見上げて口を開いた。そして空へとまた跳ねる。
飛んでいた鴎はアッと驚き、下を見た。だが、途端に断末魔の絶叫が鳴り渡り、その悲鳴はディアーノの口へ吸い込まれる。ディアーノは味わうように空を見上げて、ううんと眼を細めた。
「栄養は少なそうだ。けれども海豹が見つからない……。こういうときはボスに訊くのが一番だ。モネ!」
海に体を沈め、名を呼ぶ。すると小さな鳴き声で返事が返ってきた。ディアーノは尻尾をゆるりと動かすと、水飛沫を上げながら海の中へと潜った。光の帯が段々と薄れてゆくのを感じる。同時に、同じシャチの気配を感じた。そのまま進んでゆくと、眼の前に老いた女のシャチが現れる。片胸を隠すように布を覆い、左腰で結んだ姿。下半身には海藻を巻いている。これが海洋獣人の伝統的な衣服だ。
「おお、ディアーノ。外には何か居たかね? 私は海豹が沢山寝ている流氷を見つけたよ。ここからも遠くないし、どうだ」
モネが掠れた声で言うと、南を指差す。ディアーノはギロリと遠くを見渡して、身を翻した。
「それが良いでしょう。外には鴎が飛んでいましたが、海豹と比べると月とスッポンですよ」
そう言って笑う。この広い紺碧の海に、小さなシャチの鳴き声が溶け込んだ。
──彼らが居るのはメーア国。大洋の大部分を占めるメアトニア海にある唯一の海国である。ここには魚人含めた魚類と海獣と呼ばれる哺乳類に分かれている。言うまでもなく、弱肉強食社会だ。そんな中で暮らしているディアーノ達は大洋の頂点に立つ種族。この広い国を庭のように泳ぎ回る絶対的王者である。
そんな中、唯一気掛かりだったのはディアーノの兄クロイツだ。
「クロイツ兄さん」
そう語りかけた相手は、深い眠りについている乳白色の珍しいシャチ。クロイツはゆっくり起きると、ディアーノの顔を凝視して何も言わなかった。
暫くしてやっと口を開く。
「流氷でも見つけたようだな?」
勘が鋭いな……と、ディアーノは苦笑した。
「うん。海豹が沢山居るし、ここから遠くないらしいよ」
「なら、下見しに行ってみようか。わざわざ教えてくれてありがとう」
赤い布を頭から被ると、その場から泳ぎ去った。遅れて、後を追いかけるようにディアーノが全身を動かす。段々と体温が奪われる感覚がするも、麻痺した。白い氷の塊が浮かんでいるのを確認すると、クロイツは顔を出して周囲を見回す。
ああ、紺碧の海に浮かんでいる眩いほどの氷。そこには服を着た海豹たちが歩き回っている。建物などは特に無いが、集団の住処と思われる場所はいくつかあった。そこを狙ってクロイツは海にまた潜る。そして、氷の下を突く。一気に流氷は崩れ、海豹が海に沈んだ。溺れているところを狙うと、一人食べる。周囲に血が流れたが一瞬にして流れに消えた。
「兄さん、もう壊した? 下見だって言ったろ」
呆気にとられてその場に浮かぶ。赤い布に包まれたクロイツが軽く笑った。
「まだ一部じゃん。大丈夫だから安心しな」
他の海豹にも手を出し、無慈悲に牙で肉を噛み千切る。血の香りに誘われたのか、他のシャチらが泳いできた。信じられない数の集団だ。
「おっ、クロイツじゃねぇか。遺伝子疾患なんだろ? 白野郎」
「うるさい。わざわざ笑いに来たのか? ここは俺らの餌場だぞ」
頭を出してギィッと鳴き声を上げる。すると相手の集団が全員上半身を出し、近づいた。
「集団に勝てると思ってんの? こっちは鮫でもすぐに仕留めるぜ。貧弱なお前らに何が出来るってんだ」
どっと笑いが起きた。ディアーノは口を噤んだまま、ジッと向こうを睨んでいる。波はサアサアと音を立てて緩やかにこちらへとやってきた。潮の香りがする。
「……」
相手も黙って向こう側に目を向けた。高くなった波が流氷に打ちつける、すると、水飛沫が上がり巨体が現れた。一目で分かるその姿──鯨だ。獣人姿ではない本来の鯨。数年に一度しか見られない珍しい光景である。俄然、波の勢いが変わった。シャチの大群が一気に押し寄せる。それよりも先に、ディアーノが鯨の口元に鋭く噛みついた。そして海へ引きずり落とし、溺れさせる。その場のシャチらは下顎の肉を噛みちぎり、舌を食べることだけに集中していて、流氷で海豹を狙うシャチなど一人も残っていなかった。
「これでゆっくり食べられるぜ。兄さんは体弱いんだから、無理するなよ」
クロイツは狐に抓まれたようにポカンとし、やがて海豹をゆっくり食べ始めた。
モネと、クロイツと、ディアーノの三人は小集団だ。数十人が集まる他とは違い、単独行動が多い。故に、周囲から軽蔑されている。それは体の色も関係していた。
「俺が白いから、お前も仲間に入れてもらえなかったんだろうな。賢くて、泳ぎも速くて。欠点なんて殆ど無いのに、ごめん」
乳白色のシャチは長生きしない、それが迷信なのかは誰にも分からないが、そのような噂が広がっていた。ディアーノはそれを思い出し、悲しげに俯く。そして声を上げた。
「いや! 違う。そんなわけない。兄さんの方が狩りが上手いし、沢山泳いでいるじゃないか。だから落ち込まないでよ」
「本当?」
「当たり前だろ。……もう沢山食べたし、アイツらなんか放っておいて帰ろう」
二人はそんな会話を交わし、流氷から住処まで戻った。海中にある岩の街では灯火が並べられ、明るかった海中も段々と暗くなっている。軈て、完全に真っ暗になるとザワザワと聞こえていた音は消え去り、風の音しかしない。灯火の淡い光に包まれる中、ふと起き上がるとディアーノは海の中を彷徨った。もうそんな時間だっただろうかと思いながら耳を澄ませる。すると、何やらゴチャゴチャとした音がした。
ふと覗いてみると、信じられぬ光景が広がっていた。船には中央にオリーブを咥えた鳩と、それを囲っている月桂樹の絵が描かれた旗が大きく掲げられている。眼を細めて見ると海軍のような制服を着たペンギンが海を眺めているのを見た。
何度も何度も見返して、ディアーノは驚愕する。
──船を見かけるのは数年ぶりだ。いつもは近づけないのに……今はすぐそこ。
その毛に触れられる距離。彼は後ろから船を追いかけて、声を辿った。すると、風と共に話し声が聞こえる。
「広えな! ここにあるらしいぜ。海暗の秘宝ってやつが」
「……らしいけど、ここはシャチ達が多いから宝を盗むのは危険じゃない?」
顔の黒い皇帝ペンギンが、海の底を睨んでいる。ディアーノは心臓をドクドクと高鳴らせて、静かに震えていた。船から聞こえるゴォという音に、揺れる旗。それを見れば、恐怖よりも先に好奇心が湧き出てくる。彼は頬を染めながら上を見上げて、ジッと耳を澄ましていた。
すると、船の奥から赤黒の蛇が胸を大きく張って出てきた。口からは何とも言えない匂いが漂う液体を垂らしている。それが毒であることはその後に察しがついた。
「私の為に飛び込みたまえ。この海で喰われようが、血まみれになって帰ってこようが気にもならない」
そんな威圧的な言葉で押されたペンギンは、一人、また一人と海に飛び込む。水飛沫が船に掛かり、光沢部分を濡らしていた。彼はそれを見てハッとする。
蛇の男が蒼玉のような眼を大きく見開いてこちらを凝視しているのだ。口許から覗く鼈甲色の牙に、うねる首。ディアーノが何かを察し逃げようとすると、船の下側から網のようなものが出てディアーノを捕らえた。そして、船の上に叩きつけられ、手脚を縛られる。
「何者だ。海獣のように見える」
頭に銀に光る剣を突きつけた。肝臓が捻れるような恐さを感じながら、ただ海の景色を眺めて心を落ち着かせていた。そして、大きな溜息を吐くと蛇を睨む。
「左様で。俺はこの海に住んでるシャチだ。貴方様らに伝わっている姿とは違うでしょうがね。名前はディアーノ・ドメニコーニ」
蛇は顎に軽く手を当てて、鼻を鳴らした。何をするかと思えば、彼の周囲をただ歩いている。時には鰭に触れ、匂いを嗅いだ。
「ふぅーん……怪しい者には見えない。私は海暗国調査委員長のオスカーだ。医療や軍事力、機械大量生産に特化した王国のロザンデール王国から来た。君たちが知っているのは海明諸島か」
口角を吊り上げて、前の牙のみを出している。二つに枝分かれした舌がチロリチロリと出ては入ってを繰り返していた。
「……海明諸島なら何度か見たことがあるかも。でも、海暗国調査委員という単語を聞いたことがない」
オスカーは深く二度ほど頷くと、懐からドイツ語で綴られた紙を出す。そこには、朱色の印鑑がハッキリと押されていた。
「海暗国調査委員とはここ……メーア国について調査する団体のことだ。こちらだとメーアは海暗と呼んでいる」
「面白い。でも怖いな。調査ってことは俺の腹を切り開くってことか? 冗談じゃない」
転げながら、打ち上げられた魚人のように飛び上がるその途端、剣を眼の前に差し出され冷え上がる。呼吸を荒くしているのを横目に、大きく胸を張った。
「そんなことはしない。ただ、私の国に持ち帰り生活をさせるだけだ。情報の少ない海暗国の住人が、地上で生きることができるかの調査。深海にも我々は手を伸ばすつもりだ」
ディアーノは鼻を鳴らして、バレないように海暗語で呟いた。
『NaΣατάr』
「……何だと」
「よろしくお願いします、と言った。勉強すると良いよ」
信じ込み、紙に万年筆でメモを取るペンギンらを眺めては、ゲラゲラと爆笑した。この愚かな民族は、言われたことをそのまま信じ込んでいるのだ。それが面白くて腹を抱えたまま倒れる。オスカーが首を傾げながら、南を指差した。船はその指示通りに、向きを少しずつ変えてロザンデールへと向かう。どんどん遠ざかる故郷を見つめながら、ディアーノは淋しそうに眼を閉じた。
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かっこいい