テラーノベル
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メンチカツの夕食から数日後。
その日は珍しく三人ともゆったりした午後を過ごしていた。
涼ちゃんはテーブルで何か裁縫をしていて、若井はソファで本を読んでいる。
俺は窓際でのんびり外を眺めていた……はずだった。
が、ふと振り向いた瞬間、涼ちゃんが上着を脱ごうとして、首元からふわっと見えた。
――白い、うなじ。
しかも、髪をまとめていて普段よりも露出が多い。
涼ちゃんのうなじに目を奪われた瞬間、
「ぶっ…!」
完全に油断していた俺の鼻から、サラッと赤い液体が落ちた。
「元貴!? 何その昭和ギャグみたいな鼻血!?」
「……ち、違う、これは…たまたま…」
「たまたまでそんなタイミングある!?」
涼ちゃんが慌ててティッシュを突き出してきて、若井は半笑いで俺の背中を叩く。
余計に鼻血が止まらない。
結局、鼻にティッシュを詰めたまま、俺はソファに座り込んだ。
笑い話になってるけど、心の奥でふっと別の感情が顔を出す。
――なんだろう、この落ち着かない感じ。
鼻血は止まったはずなのに、胸の奥のざわつきは止まらない。
何日も離れていたはずの“あれ”の存在が、頭をかすめる。
薬。飲めば、すぐにこのざわつきも不安も、静かになるはず――。
だけど、俺はもう全部捨てた。
自分で決めて、手放したはずだ。
なのに、こうしてふとした瞬間、身体が覚えてるみたいに欲しがる。
情けないと思いながら、膝に置いた手を握りしめた。
涼ちゃんと若井は、まだ向こうで小さく話して笑っている。
俺は鼻にティッシュを詰めたまま、その笑い声を聞いて、なんとか気持ちをつなぎとめようとした。
鼻血騒動から数時間。
涼ちゃんはキッチンで何やら楽しそうに料理していて、香ばしい匂いが部屋に広がっている。
俺はソファに座ってスマホをいじっていた――フリをしていた。
頭の奥に、あの感覚がじわじわと広がってくる。
喉の奥が乾くような、身体の奥底がそわそわするような…。
「一回だけなら…」
そんな言葉が、勝手に脳内で再生される。
押し入れの奥に、あの日捨てたはずの薬が…
いや、ない。全部捨てた。
わかってるのに、足が勝手にそっちの方へ向かおうとする。
「――おい、元貴。」
不意に低い声が背後から落ちてきた。
振り返ると、若井が腕を組んで立っていた。
目が鋭い。冗談の時の目じゃない。
「今、お前…薬のこと考えてただろ」
「……っ」
一瞬、息が止まった。言い訳が頭に浮かばない。
若井はため息をつき、ソファの隣に腰を下ろした。
「顔見りゃわかる。俺も似たような経験あるからな」
その声は思ったより柔らかかった。
「こういうのはな、強がると逆にきつくなる。
欲しいなら“欲しい”って言え。止めるのはそれからだ」
俺は唇を噛んだ。
悔しい。だけど、少しだけ安心もしている自分がいる。
その時、キッチンから涼ちゃんが「ごはんできたよー!」と顔を出した。
笑顔がまぶしくて、俺はほんの少しだけ衝動から遠ざかれた気がした。
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