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頭がイカれてる野郎デス
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#ドズル社
日曜の朝。午前五時四十分。
最初に分かったのは、重さだった。
腰のあたりに、何かが乗っている。温かくて、動かなくて、離れない重さ。
それが人の腕だと理解するまで、仁人の頭は、ずいぶん時間がかかった。
朝は、特別強いわけじゃない。頭の起動に時間がかかる。
意識だけが、水の底からゆっくり浮かんでくる。
目を開けた。
世界が、滲んでいた。
天井は、白い柔らかな面。カーテンの隙間から、薄い青の光が細く落ちている。
輪郭のない水彩画の中に、寝かされているようだった。
眼鏡がない。
……ここは、どこだ。
一瞬だけ、本気で考えた。自分の部屋の天井ではない。窓の位置も、壁の色も違う。
そして、思い出した。
勇斗さんの、部屋だ。
隣に人の気配があった。肌の色と、黒い髪の輪郭だけが、ぼんやりと見える。規則正しい、深い呼吸の音。
体は、腕だけが重いのではなかった。腰、背中、脚。全身に知らない種類のだるさが、じんわりと残っている。筋肉痛に似ているが、少し違う。——その理由を、朝から考えるのは、やめた。
天井を見たまま、昨夜を順番に思い出そうとした。
まず、ドアホン。三時五十分に、マンションの前に着いてしまった。
十分前行動が、裏目に出た。近所をぐるりと一周して、四時ちょうどに押した。
扉は、思ったより早く開いた。待っていたのだろうか、と思った。
次に、手土産。三つも買ったのは、からかわれた。事実なので反論の余地がなかった。
台所。先生の真似事。手に、手を重ねた。背中が近かった。意識したのは、むしろ自分のほうだ。
詩。声に出して読んだのは、人前では初めてだった。意味は半分も分からないと言われて、それで十分だと答えた。あれは、本心だった。
それから——
冷めました。
仁人は、目を閉じた。
あの言い方は、何だ。
主語がない。目的語もない。温度の話なのか、気持ちの話なのか、判別できない。
それなのに、勇斗さんは、笑わなかった。ただ頷いて手を取った。
眼鏡を外されたときのことも、思い出した。
見えなくなります、と言った。見えなくなるとは、逃げ道がなくなる、ということだった。
それなのに、少しも怖くなかった。目を閉じたのは、自分の意志だ。
呼び捨てにも、した。あれは、口が勝手に。
そのあとは、順番がなくなる。温度と、声と。
——やめよう。
仁人は、ゆっくり首を隣へ向けた。
近づかないと、顔が見えない。
肩を寄せて、顔を近づける。腕が重いせいで、あまり動けない。そのぶん距離が縮まった。
輪郭が少しずつ結ばれていく。
閉じた瞼。長めの睫毛。通った鼻筋。片側だけ跳ねた、黒い髪。眠っているときは、笑っていない口元。
こんな顔を、していたのか。
いつもは、笑っている。口が大きく開く、あの笑顔。眠っている顔は、少し幼くて、少し無防備だった。
知らなかった。
手を伸ばした。袖が長くて、指先が半分、隠れる。
グレーのスウェット。自分のものではない。いつ着たのか、思い出せない。——考えない。
指先で、そっと眉に触れた。
濃い、まっすぐな眉をなぞる。起きない。
頬に移る。柔らかい。起きない。
「……ずるい顔」
声が勝手にこぼれた。掠れた小さな声。
髪に、指を差し入れる。跳ねた髪を、撫でつける。戻らない。もう一度。戻らない。
可笑しくなって、息が漏れた。
「……好きな顔」
もっと近くで見たかった。見えないから。顔を寄せる。吐息がかかる距離。
その瞬間、勇斗の睫毛がぴくりと震えた。
呼吸のリズムが乱れた。
仁人の目が、焦点を結ぶ。眼鏡がなくても、この距離でだけ、はっきり見えた。
「……起きていますね」
最初から、起きていたわけではない。
五時過ぎに、目が覚めた。腕の中に、仁人がいた。
薄い青の光の中で、仁人は静かに眠っていた。
眉の力が、すっかり抜けている。唇が、ほんの少し開いている。長い睫毛が、頬に影を落としていた。
見ているだけで、時間が溶けた。
そこで、仁人が動いた。
腕の中で小さく身じろぎして、息のリズムが変わった。
起きる。そう思った瞬間、勇斗は、反射的に目を閉じていた。
理由は、自分でも分かっている。
相手が素になる瞬間を、見逃したくない。
交渉の席で、何度もやってきたことだ。
黙って、待つ。相手が無防備になるのを。
職業病にも、ほどがある。
眠っているふりを、続けた。
最初に感じたのは、視線だった。見えていないはずなのに、じっと見られている。
次に、指。袖越しの柔らかい感触が、眉をなぞった。一本の線を、辿るように。
頬。髪。撫でつけては戻らない髪に、また指を通す。
息の漏れる音がした。笑った。仁人が、笑っている。
薄目を開けて、確かめたかった。
我慢した。
「……ずるい顔」
こっちの台詞だ。
声が、低くて掠れていた。仕事のときの乾いた声とは、まるで違う。寝起きの、柔らかく崩れた声。
そして。
「……好きな顔」
心臓が、止まりかけた。
独り言。誰にも聞かれていないつもりの、本音。
顔が緩みそうになった。頬の筋肉を、全力で固定する。
眠っている人間は、にやけない。にやけない。にやけない。
そのとき、吐息が顔にかかった。
近い。近すぎる。
——無理だった。
睫毛が震えた。呼吸が乱れた。
「……起きていますね」
勇斗は、観念して目を開けた。
目の前に、仁人の目があった。
眼鏡のない、素の目。焦点が、まだ少し甘い。大きな目が、至近距離でこちらを見ている。
咎める色は、なかった。ただ驚いて、そして、みるみる血の気が顔に上っていった。
「……いつからですか」
「五分くらい前から」
「……」
「正確には、『ずるい顔』のあたりから」
「……」
「その前は、寝てました。ほんとに」
仁人は、固まった。
しばらく動かなかった。それから、ぼそりと。
「……起きてるなら、言えよ」
勇斗は、瞬きをした。
「……今」
「何ですか」
「敬語、抜けましたよね」
「抜けていません」
「『言えよ』って」
「言っていません」
「言いました。ちょっとぶっきらぼうで、めちゃくちゃ、よかったです」
「……寝言です」
「起きてたのに?」
「寝言です」
耳まで赤くなった仁人が、勇斗の胸に、ぽすんと額を押しつけた。
逃げ場を探して、隠れる場所が、そこしかなかったらしい。
勇斗は、そのまま、動けなくなった。
知らなかった。
声が掠れること。
眼鏡がないと、距離が近くなること。
寝起きだと、敬語がほどけること。
恥ずかしいと、逃げ場を探して、人の胸に顔を埋めること。
一つ知るたびに、知らないことが増えていく。
危ない、と思った。
これは、危ない。
判断力が、この人の前だと、どんどん緩んでいく。
たとえば月曜。
運営会議で、仁人はいつもの凛とした顔で、数字を読み上げるだろう。
その顔を、自分は、まっすぐ見られるのか。
ぼやけた目で「好きな顔」と呟いた人と、同じ顔だと思い出さずに。
無理だ。絶対に、にやける。
胸の上で、仁人の頭がもぞりと動いた。
「……勇斗さん」
顔を上げないまま。声が、胸に直接響いた。
「……忘れてください。さっきのは」
「無理です」
「……」
「全部、覚えました」
最悪だ、と仁人は思った。
頭が冴えてきた。朝にしては異例の速さだった。羞恥は、覚醒にいちばん効く。
全部、聞かれていた。独り言も。指の動きも。
起きていた人間の腕の中で、自分は、眉をなぞって、頬を撫でて、微笑んで、——。
穴があったら入りたい。ただ、あいにく、ここはベッドの上で穴はない。
今すぐ、別の場所に移動したい。
コーヒーだ。
「……コーヒーを、淹れます」
仁人は、勇斗の胸から顔を上げた。努めて平坦な声で。
「豆は、昨日のものが、残っていますから。あなたの分も淹れます」
「今ですか」
「今です。朝ですから」
体を、起こそうとした。
できなかった。
腰に回った腕が、ぐい、と引き戻した。背中が、シーツに落ちる。
そのまま、体ごと、向かい合わせに抱き込まれた。
布団の中に、腕の中に、閉じ込められる。額が触れる距離。
「逃げるんですか」
「逃げません。コーヒーを、淹れに行くだけです」
「それを、逃げるって、言うんです」
勇斗の声は、静かだった。笑っていない。ぼやけた視界でも、目がまっすぐなのは分かった。
「仁人さん。恥ずかしくなると、何かを始めますよね。コーヒーとか、資料とか、ファイルの整理とか」
「……」
「俺、知ってます」
否定できなかった。
勇斗の指が、仁人の前髪をそっと払った。
「昨日、待ちますって、言いましたよね」
「……はい」
「冷めるまで、いくらでもって」
「……言いました」
「待たなくていいって、言ったの、仁人さんですよ」
仁人は、口を閉じた。
「少しずつ飲みます、って。あんな真面目な顔で」
「……やめてください」
「『冷めました』って、顔真っ赤で。手、震えてて」
「やめてください」
「反則です」
「……うるさい」
「もう聞いたので。あと、『熱い』って」
「……っ」
「あれは、まだ、笑えます」
「笑わないでください」
勇斗が、本当に笑った。目が細くなって口が大きく開く、あの笑顔。
ぼやけた視界でも、それだけは、はっきり分かった。
仁人は、手の甲で顔を隠そうとした。
その手を、勇斗がそっと掴んで、シーツに戻した。
「だから」
勇斗が言った。
「今は、待つのを、やめました」
仁人の心臓が、跳ねた。
「昨日の夜、あなたが、もう冷めましたって言ったから。待つ理由が、なくなりました」
反論は、いくつも浮かんだ。論理が破綻している。あれは、コーヒーの話だった。
——どれも、口に出す前に、溶けた。
仁人は耐えられなくて、また、勇斗の胸に、ぽすんと額を押しつけた。
逃げる必要は、なかった。
この腕の中は、逃げなくてもいい場所だった。
扉を塞がず、開けたままで待っていてくれた人の場所だった。
「……あと、少しだけ」
小さな声で言った。
「少しだけ、ですね」
「……はい」
気怠さの残る体は、あっけなく眠りに引き戻されていった。
二度目に目が覚めたのは、コーヒーの香りでだった。
カーテンの隙間の光は、薄い青から、白い金色に変わっていた。
ベッドの端が、沈んでいる。誰かが、座っている。
「おはようございます」
「……おはよう、ございます」
声が、まだ掠れていた。
「眼鏡」
勇斗の手に、見慣れたべっ甲色のフレームがあった。リビングのテーブルから、取ってきたのだ。
「かけて、いいですか」
「……自分で、かけられます」
「外したの、俺なので」
「……理屈に、なっていません」
「ならなくていいです」
勇斗の指が、フレームを広げる。仁人の顔の前に、近づく。
両手で、そっと。耳の後ろを、テンプルが滑った。鼻の上に軽い重み。
世界が、結ばれた。
天井の白い面が、白い天井になる。カーテンの縁が、まっすぐな線になる。
そして、目の前に、勇斗の顔がはっきりと現れた。
髪が、片側だけ跳ねていた。目の下に、うっすら寝不足の影。
すっかり着替えた、白いシャツ。そして、見慣れた笑顔。
「あ、戻った」
「何がですか」
「いつもの、仁人さんみたい」
「見ないでください」
仁人は、袖口を引いた。長すぎる、グレーのスウェットの袖。指先が隠れる。
「あなたも、跳ねています」
「さっき、誰かが撫でつけてくれたんですけど、戻らなかったんですよね」
「忘れてください」
「無理です。あと、仁人さんも、後ろ、ぴょんって」
「……っ」
仁人は、慌てて後頭部を押さえた。
確かに、手のひらの下で、髪が一房、反抗していた。
勇斗が、声を殺して笑った。
リビングには、朝の光が、たっぷり入っていた。
窓辺のローズマリーが、細い葉の先まで光を受けている。
テーブルの上に、二つのカップが残っていた。
昨夜、飲み残されたコーヒー。熱かったはずの勇斗の分と、ぬるめだった自分の分。
勇斗が、台所に入っていく。ケトルを火にかける音がした。
「俺が淹れますから。座っててください」
「……はい」
仁人は、ソファに腰を下ろした。目の前の二つのカップを見つめる。
どちらも、すっかり冷めている。同じ温度。同じ色。
勇斗のカップに、手が伸びた。
熱いコーヒーを好む人の、カップ。
昨日までは、湯気が立っていて、猫舌の自分が、決して口をつけられなかったもの。
「……仁人さん? それ、昨日の」
「冷めています」
「分かってますけど」
仁人は、両手でカップを包んで、一口飲んだ。
苦くなかった。
酸味も角も、なかった。静かな、深い甘さだけが、舌の上に残った。
「……冷めても、苦くならない豆でした」
「言ってましたね」
台所から、勇斗が、こちらを見ていた。
「あなたのは、いつも、熱くて。口をつけたことが、ありませんでした」
「そうでしたね」
「冷めたあとのほうが、本当の味がわかる気がします」
静かに、言った。
勇斗は、ケトルの前で動きを止めた。
「……コーヒーの、話ですか」
「……コーヒーの、話です」
「コーヒーの話だけじゃ、ないですよね」
「……コーヒーの、話です」
仁人は、カップに視線を落とした。
夜の熱は、とうに引いている。
窓から入る朝の光は、容赦なく明るい。
眼鏡越しの、はっきりした視界の中で、勇斗の顔が見える。
熱のせいには、できなかった。
昨夜の言葉も。さっきの独り言も。
今、あの人のほうへ手を伸ばしたくなる気持ちも。
夜の熱が冷めたあとのほうが、本物だけが、残る。
「……冷めたあとのほうが、困りました」
「どうしてですか」
「熱のせいに、できないので」
「しなくていいです」
「……」
「俺も、しません」
勇斗は、笑わなかった。
台所へ戻った。ケトルの湯が、細く、サーバーに落ちる音。香りが、部屋に広がっていく。
「新しいのが、入ります。」
「……ぬるくなるまで」
「待ちます」
勇斗が、振り返って笑った。
熱が冷めたあとに残ったものは、仁人にとって、ちょうど、飲み頃の温度をしていた。
ここに書いてるぼやきって、だいぶいつもより抑えてるんですけど。
誤って見たくない方の目に触れると、申し訳ないので。
ただ、言わせてください。
至るまでの全部が前戯で、本番は結構どうでもいい、夜が明けての朝が後戯だろ理論の信者なんですよ。なので朝を書かないわけにはいかない、っていう話。
結局、大人は、持ち込んで脱がすまでの駆け引きと、持ち込んだ後の正気に戻った振り返りが一番えろい理論も唱えてますが、違いますかね、違いますか。そうですか。
あと、もうぬるいのがいいのはわかったから。比喩ばっかして疲れんねん!!!(便利だった)
コメント
7件

るりさーーーん!!ありがとうございます🩷💛 るりさんのおかげで「後」の自分の中の需要に気づいてしまいました(笑) 今回も2人の心と会話のやりとりが今回も秀逸でたまらなかったですー😭 それにしても眼鏡なしって視力にもよりますが、無意識でも信頼してないとーーーとか! 色々考えちゃいますね🩷💛
初手から自宅でコーヒー淹れるレッスンの先生お願いするとか。しかも貴方の為のコーヒー淹れるレッスンで御教授お願いするって。も、あまりに凄い初手だと思ったんですよ!なんて大胆な…そっか肉食ってこんな迅速にここまで持ってこれる…晩ごはん想定して材料まで…と感心しきりでしたら受けて立つお相手が!ただものでは無かった!あの手土産が三つのあたりからあらゆる事態を想定されてましたね…覚悟を感じました(そして読んでいてニヤつきが止まらない🤭)
るりさん、こんにちは、寺島あおいです🤍 第10話、読み終わりました。「冷める」っていう言葉が、ずっとコーヒーから仁人さんの気持ちへと静かに意味を移していく構成、すごく好きです。朝の光の中で、熱のせいにできなくなった本音だけが残る——あの感覚、しびれました。 特に「冷めたあとのほうが、本当の味がわかる気がします」って仁人さんが言うところ、胸がぎゅっとなりました。夜の熱に浮かされた言葉じゃなくて、朝の冷静な自分で「好き」を選び直すみたいで。勇斗さんが「待つ理由がなくなりました」って笑うのも、ずるいけど優しくて。 それと、寝起きのシーンの「ずるい顔」「好きな顔」——あれは反則です……あの距離感の描き方に、るりさんの繊細さが全部詰まってると思いました。冷めたあとこそ本物って、本当にそうだなあって。 朝の時間をこんなふうに描けるのは、るりさんだけだと思います。素敵な読書時間をありがとうございました🌷