「……実は、私事で恐縮ですが、山崎さんの子どもを妊娠してまして! 四ヶ月目に入ったところです!」 フロアに、どよめきが起こり、露骨に目を向ける者もちらほら。だが当の彼女は、立っているのが精いっぱいで、……今日は、派遣さんの退職の挨拶を聞いていたはず……いつもいつも、退職する人間が現れるたびに、退職者はこのフロアに勤務する社員全員の前で、挨拶を強いられる。
彼女と、営業部に所属する山崎が恋人関係にあったのは周知の事実だ。よって、その退職者の女性に送られる拍手も、気まずさを伴う、まばらなものとなる。されどさして当人は気にも留めぬ様子で「ありがとうございます」とにこやかに礼を言う。
「えーと。なに言おうかって考えてたんですけど、忘れちゃいました。てへ☆」恋人であり伴侶である山崎に目配せをし、「ここで働いたのは、短い期間でしたけど、お世話になりました。これからは、母として、山崎の妻として、しっかりと家庭を支えていきたいと、思っています。
ありがとうございました。
以上です!」
しっかり頭を下げ、拍手を受け入れるその略奪者を彼女はただ、呆然と、見ていた。頭が真っ白になり、足ががくがくと震え、なにも考えられない……涙が湧き上がるのを、彼女は歯を食いしばって堪えた。ここで泣いてはいけない、という社会人としての理性が、かろうじて、彼女の涙腺を、食い留めていた。
すると前方を向いていた、山崎が後ろポケットからスマホを取り出す。山崎は、彼女とは別の部署所属なので、比較的彼らの距離は離れている。メッセが来た。
『あとでちゃんと、説明するから』
「……どういうこと?」
時刻は十七時を十五分過ぎたところ。電光石火の、派遣社員の結婚及び妊娠発言を受けたばかりの彼女はまだ、気持ちの整理がついていない。されど、理由が、知りたい。それが強く彼女の願うことであった。オフィスを出てすぐの廊下に向かい合って立つ山崎は、気まずそうに、「その、……一度きりなんだぜ? ナマでやったの。信じてくれよ……」
つまり、避妊したうえでの浮気を重ねていたわけだ。四ヶ月以上も前から。――呆れた。自分にも彼にも。
毒づく自身を発見するものの、彼女は三十二歳。男をホイホイ捕まえられる年頃は過ぎた。早く結婚して両親を安心させてやりたい……と思って尽くして尽くした結末がこれだ。
過去何度も山崎は、浮気した。許したのは、これを逃せばもう後がないと、焦っていたのかもしれない。或いは、喧嘩をするのが面倒で……山崎は、毎度毎度土下座をした。信じてくれよ、おれにはなっちゃんだけなんだぜ……頼む。おれを捨てないでくれ……こんなおれを拾ってくれるのは、なっちゃん、おまえだけなんだぜ……。
浮気性の彼は、謝罪のあとは、決まって、彼女を立てるセックスをする。いつもは、唯我独尊。自分だけ満足に浸るくせに……男は、勝手だ。
「――とにかく。厚志(あつし)はもう、決めたんだよね……いつ、入籍したの?」
「だーからあれは違うんだって。あいつが勝手に――」
「馬鹿。妊娠させといてなにが違うの。男なら、責任取んなさいよ。妊娠してんでしょ? 彼女――」言いながら彼女はからだの芯が冷えていくのを感じる。なんだったのだろう、この……六年間。尽くして尽くして――尽くし続けて。骨の髄までしゃぶりつくされて味のなくなったガムみたいだ。「あのねえ。四ヶ月っていったって、安定期なんてあってないようなもんなんだから……安定期過ぎても流産の可能性はあるのよ。女のひとは、不安なの。避妊しなかったあなたに責任があるんだからちゃんと――責任取って、安心させたげなさいよ。
じゃ。荷物は、宅急便で送るわ。あとで住所教えて。悪いけど、引っ越し祝いなんて、送らないから。さよなら」
「待てよ夏妃(なつき)!」去りかけた彼女に追いすがる山崎。「なっちゃん! おれにはおまえだけなんだよ! 信じてくれよぉ! おまえいなくなったらおれ、どうやって生きて行ったらいいか、分かんないんだぜ! 捨てないでくれよぉ!」
ぷつり。
頭の血管が切れそうになるのを彼女は堪える。――なにを言っているのだこの男は。捨てないでくれ? ひとが洗濯や掃除や炊事に追われているあいだに勝手に他の女とお楽しみを貪っておいて――それも、四ヶ月も前だかに。挙句、捨てないでくれ、だと……?
振り返る彼女は上等の笑みで応じる。「――厚志。つまり、あなたは、……あの子と結婚するのに、わたしと愛人契約でも結ぼうと……そう、目論んでいるわけ……?」
「なんて言ってくれたって構わねえ!」
「……ちょ」
いきなり抱きつかれる。思いのほか、強い力で、彼女はそれを、引きはがせない。こんなオフィスを出てすぐのところで、誰かに見られでもしたら――という思考は働くが、その彼女の当惑を無視して山崎の言葉は続く。「おれさ。なっちゃんがいないと、駄目なんだよ。捨てないでくれ……頼むよ!」
「あんたね――」彼女は拳を握った。いい加減、我慢の限界だ。こいつの勝手な不条理に、これ以上付き合う義理はない。震えながらも彼女が身じろぎをしたそのとき、
「――おれの夏妃になにをする」
「ふワッ」言葉とともに、山崎が崩れる。自由になったはずの彼女を抱きとめるのは、声の主である――広坂(ひろさか)譲(ゆずる)。営業一課の課長である。
「あ、の……」
(いいから合わせて)短くウィンクをすると広坂は、彼女の肩を抱き、
「勘違いするな山崎。……おまえ、自分が浮気しといて、彼女が悩まないとでも思っていたのか……?」転がったまま目を白黒させる山崎に向け、「おれはな、山崎。同じ職場の同僚として夏妃の相談に乗っているうちにな、彼女に、……惚れた。
彼女がいかに純粋な人間なのかは、おまえもよく、分かっているだろう?」
事態を把握せぬままも山崎は頷いた。その動きを確かめたうえで、広坂は、
「夏妃は、おまえと、若見(わかみ)さんが関係していることに、気づいていたよ……。よりによって同じ職場の女に手ぇ出すたぁな。そんなおまえが許せないおれたちはな。決めたんだ。
――七月七日に、入籍するってな」
「……ふえっ?」彼女と山崎は同時に声を出した。それに動じぬ体の広坂は、「夏妃は、近いうちに、おれのマンションに引っ越す。おまえの居場所はない。もし、おまえが、今後、夏妃とプライベートで関わりを持とうものなら――
握り潰してやる。
おれは、本気だ」
みるみる山崎は青ざめる。なにかを握りつぶす仕草を見せた広坂。それがなにを意味するかは――明白だ。
本気の威嚇をくれたあとで、広坂は、「行こう夏妃。これ以上こいつと話す価値はない。その必要もない」と彼女を促す。――のみならず、
「ふわぁああぅうっ!」……なんと、軽々と彼女を持ち上げる。姫抱きにされた彼女は、たまったものではない。周囲の視線が痛い。しかしながら山崎を置き去りにした広坂は、片手でセキュリティカードをかざすと堂々とオフィスに入り、……姫抱きをしたまま。自席に直行するとビジネスバッグを持つ。
「はいどうぞ。夏妃ちゃんのバッグ。これで全部よね? パソコンなら消しておくから……」
広坂たちに近寄ってきたのは、彼女の所属する総務部の部長である金原(かなはら)。二人の子どもを持つワーママである。当惑する彼女に向けてにっこりと笑い、「後のことは心配しないの。金曜日なんだから帰って――ゆっくりなさい。お幸せにね!」
金原が拍手をすると、何故か他の社員も追従する。それは、先ほどの退職者・若見が受けたものとは段違いに、大きいものであり、若者たちの未来を、後押しするものであった。フロアで挨拶回りをしていたのだろう、いつもきっかり定時で帰宅するはずの、若見が居合わせており、苦虫でも噛み潰したような顔をしていた。
「あ、の……広坂課長」エレベーターは空いており、涼しい顔で広坂は、彼女を姫抱きにしたまま、ボタンを押し、下に降りる。彼女のほうは、お姫様抱っこをされるのは初めてで、驚きと興奮に、震えている。「おろして――ください。わたし、歩けるんで……」
すると広坂は前を向いたまま、淡々と、
「――離したくないといったら、どうする?」
「ふなっ……!」
「きみの反応はいちいち――面白いな」他社も入るビルを出ても下ろすつもりはないらしい。「まったく。せっかく手に入れたんだから……離すつもりは、ないよ。
――さて。どこに行こうか。選択肢は三つだ。どこかで外食。おれんち。きみんち。……どこがいい?」
「いま、ひとりになりたくないです、正直……」彼女は顔を曇らせる。「胸のなかに嵐が吹き荒れている感じで、……泣いちゃうかもしれません」
すると広坂は立ち止まり、「号泣したい感じ? それとも静かに泣きたいのかな。――金曜日なんだし、美味しいものでも食べてリフレッシュするのも手だと思うけど――
焼肉は好き?」
ぶんぶんと彼女は頷く。相当好きなのだろう、その様子に広坂が笑った。「じゃあ、うちの近所に、個人経営のめちゃめちゃ美味い焼肉屋さんがあるんだ。予約必須で……そうだな、五時からで一回転してるだろうから、七時半に向かうってかたちで、どうだ?」
ここでようやく駅に辿り着き、広坂は彼女を下ろした。久々に味わう地面の感触がなんだか新鮮だ。一方、彼女の沈黙を肯定と捉えたらしい。広坂はスマホを手に取り、早速電話をする様子。「……はい。広坂です。いつもお世話になっております。ええ七時半頃からなんですけど、……あはい、入れますか? ああよかった……はい。伺います。大将にもよろしく――お伝えください。では七時半に」
広坂は、要領を得た喋りをする。言葉は的確で、無駄がない。けれど相手への慈愛に満ちており、それがまた彼の魅力となっている。そんな彼の魅力を感じながらも、……これは、広坂課長のマンションに行き、ベッドイン確定なのかな……期待と不安と、それでもまだ整理のつかない気持ちを受け止めながら、彼女は問うた。「……広坂課長。さっきの話……本気ですか? それとも、山崎を納得させる方便――」
スマホをバッグに仕舞うと広坂は、にこりとも笑わず、
「おれがいつも本気なのは知っているだろう?」
どきり、とする。背の高い広坂に歩み寄られ、そっと顎先を持ち上げる彼の熱い指の感触。――キス、されるのか? 別にいやではない。このまま、いい男に流されてみるのも、悪くはない。いや、でも……失恋したばかりなのに。
彼女の困惑を見越したのだろう。広坂はやさしい笑みを浮かべ、彼女の頬に触れると、
「――本気なんだよ、いつでも、きみのことは……」甘い言葉に、たまらず子宮がうずく。「……夏妃。おれと――
契約結婚、しないか?」
こころのどこかで、甘ったるい台詞を待っていたのに。愛しているとかきみをずっと見てきたとか――ところが、『契約』という言葉に、すかさず彼女は反応した。
「どういう意味、……ですか?」
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