テラーノベル
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「繋がっていようね」なんて、誰かに頼んだ覚えは一度だってなかった。
玉狛支部のリビングは冷ややかな静寂へと沈んでいった。大きな窓の向こうには、夜の帳に塗り潰された広大な警戒区域が広がっている。街灯の光すら届かない、底の知れない暗闇。遊真はソファの上であぐらをかき、微動だにせず外を見つめていた。ふと手を伸ばし、ローテーブルの上に置かれたリモコンを押してテレビの主電源を落とす。賑やかな音を立てていた画面が、ぷつりと音を立てて真っ黒な硝子へと変わった。光を失った液晶の画面に、ぼんやりと自分の姿が映り込む。遊真はそれを眺めながら、小さく首を傾げた。映し出されているのは、白い髪の、どこか幼さを残した少年の輪郭だ。大きな瞳、平坦な表情。どれだけ激しい戦いで四肢を千切られようが、首を刎ねられようが、元通りになる。ひび一つ、傷一つ残らない、あまりにも精巧で綺麗な器。遊真は、液晶の中の”自分”を見つめながら、他人事のように思った。
こんなお人形みたいな身体、自分でもあんまり大事にしたいとは思えないな、と。
「……ん」
遊真は左手を目の前に掲げ、指を一本ずつ、ゆっくりと曲げたり伸ばしたりしてみた。関節は滑らかに動く。指先同士を合わせれば、皮膚が触れ合うかすかな抵抗感も、確かにそこに存在している。けれど、それはすべて、レプリカが施してくれたシステムが脳へ直接送り込んでいるそれらしい電気信号に過ぎなかった。本物の肉体が、本物の皮膚が捉えた世界の熱ではない。
トリオンの体というのは、驚くほど都合よく、そして残酷にできている。刃で身体を深く裂かれても、流れるのは赤い血ではなく、蛍のように儚く明滅する光の粒子だ。いくら全力で走り回っても息を切らすことはないし、夜が更けて時計の針がどれだけ進もうとも、瞼が重くなって睡魔に襲われることすら一度もない。それはこちらの世界で戦い抜くためにはひどく便利で_そして同時に、時折、自分の魂とは全く関係のない他人のもののように、恐ろしいほど軽かった。
昼間の作戦室での、何気ないやり取りが脳裏をよぎる。
修が「最近ちょっと風邪をひいてしまったみたいだ」と言って、首元を押さえながら不器用にゲホゲホと咳き込んでいた。千佳は心配そうに眉を下げて、「じゃあ、今夜は生姜をたくさん入れた、あったかいスープがいいね。お腹が空いたら、もっと元気がなくなっちゃうから」と優しく笑っていた。それを見ていた栞が「うーん、これぞ青春だねえ!」とからかうように囃し立て、遊真はいつものように、興味深そうにその光景を横から眺めていた。
あの時、修の皮膚はきっと、風邪の熱で少し火照っていたのだろう。千佳の言う通り、お腹が空けば虫が鳴くように胃袋が自己主張をして、温かいものを胃に流し込めば、じんわりと内側から手足が温まっていったのだろう。そういう、泥臭くて、面倒で、脆くて不便なもの。それこそが、本来の人間が持つ生の確かな形だった。
『遊真。大切なものって、なんだと思う?』
いつだったか、親父にそんななぞなぞを出されたことがあった気がする。まだこちら側の世界へ来る前。近界の、どこまでも不毛な荒野を二人きりで歩いていた頃だ。いつも戦火の匂いがどこからか漂っていて、硝煙の混じった冷たい風が容赦なく頬を叩いていた。そんな過酷な世界の中で、親父の大きな手はいつでも固くて、ごつごつしていて、それでいて触れるとひどく温かかった。あの頃の、まだ生身の肉体を持っていた自分が、親父に何て答えたのかはもう思い出せない。けれど、今のおれなら、迷わずに、たった一つの答えを導き出すことができる。
Q. 大切なものって、なあに?
A. 今、失くしたそれ。
有吾の隣で、ただの子供として生きて、転べば膝を擦りむいて赤い血を流し、痛みに涙を浮かべ、美味しいものを食べれば笑い、いつか普通に年老いて死んでいくはずだった。失ってしまってから、あれがどれほど愛おしく、二度と手に入らない輝きに満ちていたのかを、遊真は嫌というほど自覚させられていた。遊真は胸の奥の、さらに深い場所へと意識を沈めていく。そこにはいつでも、ドロドロに融解したあの日の記憶が沈殿している。戦火の中で致命傷を負い、冷たくなっていく自分の生身の身体。薄れゆく視界の向こうで、有吾の命が、魂そのものが、砂のように崩れていった。そして、自分の小さな身体を包み込むようにして消えた。
親父は、おれを生かすために、とんでもない間違いを犯しちゃったんだ。
遊真は心の中でそう呟く。
「……ねえ、親父」
小さな声を出してみても、静まり返ったリビングには、自分の無機質な声が虚しく響くだけで、誰も答えてはくれない。かつてその傍らで、有吾の言葉を代弁してくれていたレプリカも、今はもう隣にはいなかった。遊真は胸の奥で、自分自身の本当の本体を幻視する。真っ黒な、光すら届かない黒トリガーの最奥。時間が完全に止められたカプセルのような冷徹な闇の中で、じわじわと、けれど確実に死へと向かいながら、無理やりこの世界に引き留められている、グロテスクな生身の肉体。健やかなるときも、病める時も。あのグロテスクな履歴の中で、遊真の本当の身体は、死に損なったまま今も閉じ込められ続けている。それは有吾が遊真に向けて遺してくれた、ありったけの優しさであり、愛だった。しかし同時に、それは遊真をこの世界のまっとうな生の営みから永遠に切り離してしまった、一生消えない、美しくも残酷なトラウマでもあった。
あなただけひとりで、先に逝ってしまうなんて、ずるいじゃないか。
ほんの少しの恨めしさと、やり場のない甘えが、胸の隙間からどろりと溢れ出す。おれにこんな綺麗なお人形の身体をあてがって、身の丈に合わない一生の後悔を背負わせて、自分だけ幸せに眠るなんてさ。
指にはまった黒トリガーは、まるで肉に深く食い込んで、もう二度と外れなくなってしまった金属の指輪みたく、遊真の指も、魂も、強く痛いほどに縛りつけて離さない。おまえは生きろと、有吾の遺志が今も耳元で囁き続けているようだった。
「_空閑?まだ起きてたのか」
背後で、カチャリと静かにドアが開く音がした。張り詰めていたリビングの空気が、その一音で容易く霧散する。振り返ると、修がノートを片手に持ったまま、眠そうな目を不器用にこすりながら立っていた。次のランク戦に向けた作戦か、あるいは新しい戦術でも練っていたのだろう。睡眠を必要としない遊真のことを、彼なりに気遣うような、いつもの生真面目で少しだけお節介な顔だった。
「オサム」
遊真は瞬時に、 何も考えていないような、いつものしまりのない表情を作り上げた。そして、ソファの背もたれから軽やかに飛び降りる。 すとん、と軽い、物質感の薄い音が床に響いた。生身の身体だった頃なら、この高さから硬い床へ飛び降りたら、足の裏がじんわりと痺れるような痛みが走ったはずだった。けれど、今のトリオン体にはそんな衝撃は一切伝わらない。それがまた、寂しかった。
「うん。ちょっと考え事をしてただけ。オサムこそ、もう寝ないと明日遅刻するよ?しおりちゃんにまた怒られちゃうぞ」
「ああ、これが終わったらすぐに寝るつもりだ。……どうかしたか?なんだか、いつもより少し、元気が無いように見えるけど」
修の観察眼は、時折こちらの予想を超えて鋭くなる。彼は、遊真の嘘を見抜く副作用のような便利な能力を持っているわけではない。それなのに、修はただの凡人としての感性と、遊真を相棒として見つめ続けてきた真摯さだけで、遊真のわずかな空気の揺らぎや、隠しきれない影を察知しようとするのだ。遊真は、背中にそっと手を回すようにして、自分の胸の奥にある黒トリガーの冷たさに、もう一度だけ触れた。
おれは嘘をつかない。ただ、本当のこともすべては言わない。親父が遺してくれた、この重くて暗いお揃いの悪夢を、オサムやチカにまで分けてやる必要なんてどこにもないからだ。
これは、おれと、もう死んでしまった親父だけの、ずうっといっしょの、特別な秘密。
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#いこおき
さんま
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「ううん、なんでもないよ」
遊真は、これ以上ないくらいに無邪気な笑みを顔に貼り付けた。修の目を真っ直ぐに見つめながら、弾むような声で言う。
「ただね、おれはオサムやチカと、明日も、その次の日も、これから先もずうっといっしょにいられたらいいな、って思ってただけさ」
修は一瞬だけ、突拍子もないことを言われたかのように呆気に取られて目を見張った。けれど、すぐにその真面目な目元をふっと緩め、少し照れくさそうに、しかし確かな強さを持った声で微笑んだ。
「……ああ。そうだな。遠征に行って、みんなでレプリカを取り戻して。それからも、ずっと一緒だ。ぼくたちの戦いは、まだまだこれからだからな」
「うん、そうだね」
遊真の副作用は、修の言葉に嘘の濁りが一切混じっていないことを告げていた。修の言葉は、いつだって不器用で、まっすぐで、本物の本心だ。遊真はその温かくて、眩しすぎる言葉を、トリオン体の冷え切った胸の隙間に、そっと吸い込ませるようにして仕舞い込んだ。どれだけこれから先、新しい仲間たちと笑い合い、眩しい青春の光を浴びたとしても、遊真の根底にあるのは、あの真っ黒で冷たい闇の底だ。
親父が遺した一生の後悔を、呪いのような愛を全身に纏って、自分はこれからもお人形の器のまま、命をすり減らしながら戦い続ける。それでも、今この場所で、オサムやチカの隣で、すり減っていく命の火が完全に消え去るその瞬間までは。
「じゃあ、オサムのその作戦の課題、俺も手伝うよ。寝ない身体は、こういう時に最高に便利だからね」
遊真はいつもの軽い足取りで、修の隣へと歩み寄った。
自分の時間がいつか完全に止まり、黒い闇に還るその日まで、この歪で、かけがえのない青春を、精一杯に生きるために。
「へえ、遊真くんがそんなことを言うなんて珍しい」
翌日の午後、玉狛支部の作戦室で、栞がパソコンの画面から顔を上げて、面白そうに目を輝かせた。修は本部に行き、千佳はリビングでスナイパーの基礎訓練の課題をやっている。作戦室に残された遊真は、オペレーター席の隣の椅子に腰掛け、くるくると椅子を回転させながら、栞の言葉に「そう?」と生返事をした。
「珍しいよ。遊真くんっていつも、一歩引いてみんなのことを見てる感じがするからさ。オサムたちとずうっといっしょなんて、なんだか可愛いこと言うじゃん。ちょっと感動しちゃった」
「オサムが真面目な顔をして作戦を考えてるのを見てたら、なんとなくね。こちらの世界の人間は、みんなで一緒にいることをすごく大事にするだろ?近界じゃ、昨日の味方が今日の敵になるなんて普通だから、新鮮なんだ」
くるり、と椅子の回転を止め、遊真は窓の外を見やった。昼間の光に照らされた三門市の街並みは、昨夜の暗闇が嘘のように穏やかで、活気に満ちている。生身の身体を持っていた頃の遊真は、この街の少年たちと同じように、友達とくだらないことで笑い合っていたはずだった。もし、あの戦争が起きなければ。もし、親父が自分を庇って死ななければ。たらればを考えても意味がないことは分かっている。けれど、修たちの普通の日常に触れるたび、かつて自分が持っていたはずの普通の輪郭が、皮肉なほど鮮明に浮き彫りになっていくのだ。
「……ねえ、しおりちゃん」
「ん?なに?」
「人間の身体って、傷ついたらどうして痛むのかな」
唐突な質問に、栞はタイピングしていた手を止め、少しだけ困惑したように遊真を見た。
「えっと、それは……これ以上身体を傷つけないように、脳が危険を知らせるシグナルを出してるんだよ。痛みがなかったら、自分が大怪我をしてるのにも気づかずに死んじゃうかもしれないでしょ?」
「なるほど、危険信号か。親切にできてるんだね」
「どうしたの?急に生物学的な話なんかして」
「いや、トリオン体だと、痛みの代わりにトリオンの漏出量で危険を知るでしょ?でも、それってただの数字っていうか、記号みたいだからさ。生身の、あの痛くて嫌な感じの方が、生きてるって実感が湧くのかなと思って」
遊真の声は、どこまでも平坦だった。寂しがっている風でもなく、ただ純粋な疑問を口にしているだけのような、無垢なトーン。しかし、栞はそれ以上何も言わずに、少しだけ切なそうな目で遊真を見つめた。彼女もまた、遊真が背負っているものの重さを、完全には理解できずとも、知っている大人たちの一人だった。
「……遊真くん。痛いのは、やっぱり嫌なものだよ」
静かに、けれど語りかけるように言った。
「でもね、痛みを分かち合ったり、誰かが痛がってるのを心配したりすることは、生身の人間にとってもすごく大切なことなんだ。修くんが風邪をひいたのを千佳ちゃんが心配したみたいにね」
「うん。それは分かるよ。オサムたちを見てると、すごくよく分かる」
遊真は椅子から立ち上がり、伸びをした。トリオンの身体は、どれだけ座っていても筋肉が強ばることもなければエコノミークラス症候群になることもない。
「おれにはもう、その痛みを感じる本物の皮膚はないけれど。でも、オサムたちが痛がってたら、それは嫌だなと思うよ。だから、おれが代わりに戦って、二人を守ればいい。それが、おれがこの身体でここにいる意味だからね」
そう言って、遊真は作戦室を後にした。廊下を歩きながら、胸の奥でカチリ、と小さな音が響いたような気がした。
黒トリガーの底で眠る、もう一人の自分。
血を流し、痛みに耐えかねて、父親の名前を呼びながら意識を失った、あの日の小さな男の子。
今の綺麗なトリオン体の自分は、あの日の男の子の身代わりであり、父親が遺した防壁だ。
健やかなるときも、病める時も。
おれたちは、あのグロテスクな履歴の真ん中で、ずうっといっしょに繋がっている。
「待っててよ、親父。レプリカ」
遊真は、誰もいない廊下で、小さく呟いた。 自分を縛る黒い指輪は、今も肉を締め付け、冷たい血液の代わりに、熱い執着を遊真の魂へと注ぎ込み続けている。その呪いのような愛だけが、今の遊真を突き動かす、唯一の確かな動力源だった。修たちのいるリビングのドアを開けると、千佳が焼き上がったばかりのクッキーの匂いと共に、笑顔で出迎えてくれた。
「あ、遊真くん!ちょうど今、クッキーが焼けたの。修くんの分も残してあるから、一緒に食べよう?」
トリオンの舌が感知する、甘くて香ばしいフェイクの味。それを美味しいと笑いながら、遊真は心の中で、自分を縛るすべての過去に、そして愛しい未来に、静かに微笑みかけるのだった。あなたの一生の後悔として添い遂げるよ。そう約束したわけではないけれど、おれの歩む道は、最初からあの日、親父の命と引き換えに決まっていたのだから。
コメント
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さんまさんの『グロテスクな履歴の底で』読ませていただきました…。 冒頭から遊真くんの内面に引き込まれました。トリオン体という“綺麗なお人形の器”の違和感と、有吾さんとの思い出が交錯する構成が印象的で。特に「大切なものは、今失くしたそれ」という答えに胸がぎゅっとなりました。修くんたちと過ごす日常の温かさと、その底に沈むグロテスクな闇のコントラストが切ないです。続きが本当に気になります!