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「海行きたいから、連れてってや」
夜更けのリビングに落ちたその声は、ひどく静かだった。静かなのに、今にも壊れそうで。俺は思わず顔を上げた。
たっつんとは、グループを組む前からの付き合いだ。気づけば同じ家で暮らして、朝も夜も当たり前みたいに隣にいた。
だけど、たっつんがお願いをすることなんてほとんどなかった。だからこそ、胸の奥がざわつく。何かあったんだろうか。俺に飽きた?しんどい?──別れたいとか、思ってる?考え始めると、悪い方へばかり転がっていく。それが俺の悪い癖だった。
けれど、“海へ行きたい”のその一言を、どうしても軽く扱えなかった。
たっつんは強い。誰よりも笑うし、誰よりも前を向く。でもその分、ひとりで抱え込む。俺はたっつんを誰よりも理解していたと思っていた。強い人間ほど、壊れる時は静かだ。待たせるのも怖くて、俺は無理やり口を開いた。
「……俺、免許持ってないよ」
「うん、知ってる」
即答だった。少しだけ肩の力が抜ける。
「夜の海って、タコとか陸に上がってくるらしいよ。俺、たっつんが食べられたら嫌だな」
「あるわけないやろ、そんなこと」
呆れたみたいに笑う声。その笑い方に、少しだけ安心する。
「今、冬だけど」
「ええやん。雰囲気あって」
ずるいな、と思った。そんな言い方されたら、断れるわけない。
「……自転車でもいい?」
「おん」
嬉しそうでもなく、安心した様子もなく。返ってきたのは、短く淡々とした返事だった。完全敗北を悟る。心の中でええんかい、とツッコみながら、俺は立ち上がった。
深夜の空気は冷たかった。玄関を開けると、冬の匂いがする。たっつんが後ろに乗ったのを確認し、ゆっくりペダルを踏み込んだ。静かな住宅街を、自転車のタイヤの音だけが転がっていく。背中越しに伝わる体温が、いつもより少しだけ頼りなかった。2人の吐く白い息だけが、夜風に溶けていく。
海に着いた頃には、日付もとうに変わっていた。街灯の少ない堤防は暗くて、波打ち際の白さだけがぼんやり浮いて見えた。自転車を降りて海に近づくと、潮風が頬を刺した。
「……さむ」
思わず零した声に、後ろでたっつんが小さく笑った。
「冬やしな」
その声は相変わらず静かだった。俺たちは防波堤に並んで座った。波の音だけが、一定のリズムで夜を満たしていく。
たっつんは何も喋らなかった。俺も、何を言えばいいのかわからなかった。下手なことを言えば、壊れてしまいそうで。でも黙ったままなのも怖くて、意味もなく足元にあった小さな石を投げながら呟いた。
「……タコいないね」
「期待してたん?」
「ちょっとだけ」
「アホやな」
ふ、と短く笑う声。その笑い声に、胸の奥が少しだけ軽くなる。隣をちらりと見れば、たっつんは海を見たままだった。黒い水面はどこまでも暗くて、飲み込まれそうなくらい静かだ。
「俺さ」
「うん」
「……生きてても意味ないんかなって思う時あんねん」
呼吸が止まりそうになった。けれど、ここで否定したら駄目な気がして。俺は震えそうになる声を押さえ込みながら、小さく返した。
「……うん」
「なんかもう、疲れてん」
たっつんは笑った。
笑ってるのに、その横顔は泣きそうだった。
「でも、死ぬのは怖いって思ってまうし」
夜風が強く吹く。
彼の弱音が、暗闇に溶けていった。
「ダサいよな」
「そんなことない」
気づけば、そう言っていた。
たっつんが少しだけ目を丸くする。目が合った。
「怖いって思えるならさ、まだ生きたいってことでしょ。あと俺を置いて死ぬのもダメ!」
自分でも、何を言ってるんだろうとは思う。綺麗事かもしれない。でも、隣から彼がいなくなるのは嫌だった。
たっつんは何も言わなかった。ただ静かに俯いて、コンクリートに影を落としている。その肩が、ほんの少しだけ震えて見えた。泣いているのか、と思った。でも、たっつんは顔を上げはしない。波の音だけが静かに繰り返される。
「じゃぱぱはさ、なんでそんな必死なん」
なんで、って。そんなの、ひとつしかないじゃないか。そう決まっているのに、上手く言葉にならなかった。
「……必死になるよ。俺の大切な恋人だし」
やっと出た声は、情けないくらい小さかかった。隣で座る彼は、黙って聞いていた。
「俺さ」
「たっつんが居なくなったらとか、無理なんだけど。……後追いしちゃうから」
「重いな」
「……うん」
「そこは否定せえや」
黒い波が、何度も防波堤にぶつかっては消えていく。刹那、ぽつりと声が落ちる。
「……なんか」
「じゃぱぱにそんなん言われたら、アホらしくなってくるわ」
たっつんはそう言って立ち上がった。
「もういいの?」
「じゃぱぱとおった方がええ」
不意打ちのように落ちたその言葉に、胸が沁みる。たっつんは自転車が置いてある方へ歩き出した。俺も少し遅れて後を追いかけた。
家へ帰る時は、自転車には乗らなかった。なんとなく、まだ隣にいたくて。冬の匂いを纏いながら、並んで歩いた。たっつんは何も喋らない。俺も何も言わなかった。でも、その沈黙も不思議と苦ではなかった。たまに通る車のライトが、ふたりの横顔を一瞬だけ照らしていく。
隣を歩くたっつんの手が、服の袖にそっと触れた。掴むわけでもなく、離れるわけでもなく。微かに触れる熱だけが、ひどく愛おしかった。胸の奥が、じんわりと熱くなる。
その熱を離さぬように、俺は今日も隣にいる。