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『雨季に喰われる父 ― 最終章・消失』
ソムチャイの意識は、
もはや――自分のものではなかった。
思考は、言葉にならない。
後悔も、記憶も、恐怖も、
すべてが溶けて、区別がつかない。
ただ――
重い。
何かが、
無限に、のしかかっている。
それが何かすら、分からない。
いや――
正確には、
分からなくてよかった。
理解できてしまえば、
壊れてしまうからだ。
やがて――
ひとつの“概念”が、浮かび上がる。
それは、声ではない。
形でもない。
**「帰れない」**という感覚そのもの。
ソムチャイは、
それに、呑み込まれていた。
もはや、
彼が“そこにある”のか、
“それそのもの”になっているのか――
違いはなかった。
時間が、壊れた。
過去も、未来も、意味を失う。
世界にとって、
彼は「存在しない」ものになった。
だが――
消えてはいなかった。
消える資格すら、与えられなかった。
やがて、ひとつ、光が走った。
わずかな、わずかな――
懐かしい感覚。
子どもの笑い声の断片。
ソムチャイの意識の奥で、
それが、はじける。
その瞬間――
“名”が、ひとつ、ほどけた。
「ナロン」
その名前が、
音を失い、意味を失い、
ただの「痕跡」になる。
息子ですら――
記憶の外に、滑り落ちた。
残ったのは――
名前を失った「父」。
あるいは、
父であったもの。
彼は、もう、
人ではない。
人の後悔の“溜まり場”だった。
終われなかった声の重量。
帰れなかった記憶の沈殿物。
あらゆる「遅すぎた想い」が、
そこに、沈んでいた。
そして――
それは、薄まっていく。
溶けていく。
人の心の中に。
夢の中に。
夜の音に。
都市が変わり、
時代が変わり、
言葉が変わる。
だが、
誰かが眠るとき、
ふと、胸が重くなる感覚だけが――残る。
理由のない、罪悪感。
名前を思い出せない人への、
取り返しのつかない感覚。
それは、
どこから来たのか、
誰のものなのか――
誰にも分からないまま。
ソムチャイは――
完全に、消えた。
存在として、ではない。
意味として。
「父」でも、
「罪人」でも、
「被害者」でも、ない。
ただ、
世界に染み込む――
“戻れなさ”そのもの。
そして――
人は今も、
それを知らずに、
胸の奥に、
言葉にならない「重さ」だけを
抱いて、生きている。
終