テラーノベル
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時計は深夜の1時を回っている。
炊飯器からどこか聞き覚えのあるメロディが鳴った。何かのクラシック音楽の一節らしきそれは、確か昔、街のどこかで聞いたような気もする。
窓から差し込む夜の色は、ノスタルジックな感傷と冬の匂いを連れてくる。炊き立てのご飯の湯気が冷えきった嗅覚を笑い、ついでにオレの手のひらをも刺した。
「熱っ……」
当分素手で触れるのは無理だと判断して、早々に別の作業へ移る。
冷蔵庫の扉を開けて、適当な野菜をいくつか……アイツ、好き嫌いしないだろうな。
ふと、今から用意するものを食べる者の顔が浮かんだ。オレの主ことラベンダーの研究者は、研究者らしく常に澄まし顔をしているが、何を隠しているかわかったものじゃないのだ。すぐ強がろうとするのを否定する気にはならないが、こんな時間にオレが夜食を作っているのも、元はと言えば奴が自分を大切にしないからで。なぜ奴をこれ以上気遣わねばならないのだろう。
「まあ、いいか」
なんだか腹が立つ。そもそも晩飯はとっくに食べ終わってしまったし、主菜だの副菜だのを添えても重いだろう、と方向性を定めた。
バタンと冷蔵庫を閉める音が響く。静まり返ったキッチンの中で、コンロの弱火がゆらめく音だけがする。温めている鍋をガラス越しに覗き込むと、そろそろいい具合だった。
蓋を外され、煮えばなの味噌汁の香りがふわりと広がる。かき混ぜたおたまで掬った分に、なるべく具が入るように汁を注ぐ度、椀を持つ指先がじわりと温かくなる。
立ちのぼる湯煙が出汁の味をはらんで、トレーの上に踊った。味噌汁が冷めないうちにと炊飯器の前へ急いで、そしてしゃもじを握る前に米の熱意に負けた。
「……手袋しよう」
たぶん、賢明な判断であったと思う。衛生的にもそれが良い。
ラップを広げて切りながら、オレはひとりで頷いた。
時計は午前の1時を回っていた。
思い出したくもない悪夢の色。あかいいろ。そのアイスブルーを塗り潰した返り血が、いやに映えて、鮮やかで。この身体はまだ知らないはずの鉄錆を、どうにも鼻に感じてしまうから、最低限の息をしていた。
澱んだ空気は生温くて、もうずっと窓も開けていないと思い立つ。けれど換気のために手を離すことすら惜しい。1日がじりじりと消費されていく感覚が身を追い立て、て。
今はメモの整理とノートの仕分けを……あれ? メモを仕分けしてノートを整理していたんだっけ?
そもそもこの束は仕分け済みのものだっただろうか。
最上から一冊手に取る、無題。中をぱらぱら捲っても日付順に並んでおらず支離滅裂で……あぁ、これ薬剤投与の結果書いたやつだ……無題だとわかりづらい、タイトルを、いや、薬剤投与に関するノートは他にもあるから名前が被らないようにしないと、というよりそもそもこのノートがここにあるということはこの束はまだ仕分けできてない束であるということで、
「ゔ」
うっかり立ち上がろうとしてしまったが最後、ひどい立ちくらみがして力が抜ける。机に掴まってどうにか頭を打つような真似は防いだものの、自覚した途端纏わりつく気怠さが重たくて、記録の山に倒れ込む。頭の向こう側で、ばさばさと積み上げたノートが崩れていく音がした。
「……、」
後で、整頓、しなきゃ……
押し留めていた疲労が脳に回り、暗鬱な溜め息が浅く漏れた。起きるにも寝るにも億劫で、このまま溶けて紙束に染みてしまうのではないかと、己の指先を見て思う。
それでも、起きなきゃ、いけなくて。
コンコン。
「……ぅ゙、……なに……?」
ノックの後、一拍置いて彼の声。
「スレイ、起きてるか?」
やたらと明瞭で。自分以外の存在があることに、少しだけ、眠気が覚めた。
硬くとも冷たくはない彼の声に、同じ温度で返そうと───する前に、扉が開く。
「流石にまだ寝落ちは……っす、スレイ?」
「……ぁ〜……」
少しばかり都合が悪いな、と感じはしても、既に挽回する気は起きない。そういえばスタリって、ボクが返事する前に扉開けるんだった……。
強引に身体を起こして、ぐらりと揺らいで。それでも頭を振って彼を見遣ると、何やらトレーを持っていた。
「……大丈夫か?……いや大丈夫じゃなさそうだな」
「なに、用……?」
くらくら視界が揺れる。収まらないかと瞬きを繰り返す。
「今じゃなくても……」
「いや。どうせオマエのことだから無茶しそうだと思って、夜食?差し入れ?をな」
「……ボクに?」
「オマエ以外にこんな無茶する奴いないだろ」
スタリが屈み込んできて、ようやく目が合う。目の前の床に置かれたトレー、その上の皿と椀が目に入る。
「起きれないなら起きなくていいからとりあえず食え。オマエここ数日まともに物食ってないだろ」
「……そうだっけ……?」
「そうだから言ってんだよ」
味噌汁が2杯と、おにぎりが3つ。スタリは味噌汁の器の片方と、おにぎりを1つ自分の方に寄せた。残りはボクのもの、ということだろうか。
漂う出汁の香り。少し揺れる不透明な水面に、覗き込んだ自分の顔が映る。
「オマエ鏡くらい見ろよ。オレの飯突っ撥ねるのはその隈取ってからだからな」
「…………」
スタリが自分の分の味噌汁をずず、と啜った。倣って椀を持ち上げると、まだちゃんと熱が灯っている。たべものだ。
傾けて、少しだけ口をつけて、飲んでみる。
「……、ふ」
嚥下の仕方を忘れていやしないかと身構えたのを、そっくり煮溶かすように、それはやさしかった。
自分の身体の内側に、温かいものが滑り落ちていく。どうしようもなく何かが報われたような気がして、もう一度、口に含んだ。
「美味しい」
素朴な味であろうとも。匂いのある、温もりのある、色のある、もの。喉に流すのは、久しぶりで。
「そりゃ何よりだ。汁だけ先に飲み切るなよ」
具減らした方が良かったな、と小さな呟きが聞こえた。器をトレーに置く音を返事とする。
冬だ、冬。
閉めもされない入り口の扉は息継ぎをするように空気を取り込んで、向こうの部屋を満たしていた気配が滑り入る。冷たい確かさに触れて、いっそう、心をすすがれた。
指先を胸にあてがって、差がないことに安堵した。
スタリが手を伸ばすのを見計らって、ボクもおにぎりをそっと手にする。崩れない程度に柔らかく握られた、少しだけ歪な三角形の輪郭。白い米の肌に、時折塩が光る。
「……いただきますって言い忘れた」
「律儀かよ。別にいいだろ」
「いらない?」
「いらなくはないが」
手は合わせられないまでも、それなら言葉にするのが良い。
「いただきます」
頂点を齧り、くずして食む。ほんのりと温みの残った米が柔らかくほぐれる。指についた小さな粘り気につられるように、もう一口。
「ん、……美味し」
「しょっぱかったりしないか」
「大丈夫」
ほぅ、と息を吐いて、天井を仰いだ。ものを食べて初めて空いたお腹におにぎりを押し込みながら。
あかりは外へ注がれ続け、昏い窓に反射光を据える。座り込んで静かに夜食を取るボクたちを、瞬く切れかけの電灯が見守っている。
「これ、具なし?」
「銀シャリだ。こっちが鮭」
「そう」
ふたつとも具が入っていたかもしれなかった。
少しだけしょっぱかったかもしれなかった。
味噌汁の具が少なかったかもしれなかった。
何もかも足りなくて。あのまま、倒れ込んだまま夜を明かしたかもしれなかった。
数えるには多い記憶は、交わした違うやり取りをも刻んでいる。4対の指を折る代わりに、炊いたばかりのご飯の形をした「はじめて」を、大切に握る。
夜が、更ける───。
コメント
1件
おにぎりと味噌汁、それだけでこんなに温かくなるんだね……🥺 スレイが「美味しい」って言ったところ、すごくじんときたよ。食べるのを忘れるくらい追い詰められてたのが伝わってきて、無理して欲しくないなって思った。 でもスタリが夜食持ってきてくれてよかったね。二人で静かにご飯食べる時間、尊いよ……。もうエピソード全体がやさしさだった。 #ベルリウムさん の描く夜の空気感、すごく好きです。
#SprunkiOC
ベルリウム
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