コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
預言者ムハンマドは従うべき神聖な象徴怒りについて話を戻すと、コーランとハディースには明確は教えがある…。使徒曰く、「怒ってはいけない…。強い者とは腕力がある者ではない。強い者とは怒りのなかでも自らを律することができる者のことだ」。
結局、我々は公理の一部に反して進んでいるのであり、こうしたことに取り組まねばならないのだ…。彼(使徒)が侮辱されたとしよう。使徒は普通の人間として扱われたが、他方で神聖なる象徴でもある。普通の象徴と神聖な象徴を区別しなければならない。普通の象徴は何であれ、我々にとっては、人間と同じように普通の象徴に過ぎない。だが、神聖な象徴と我々の間には、遵守すべきものがある。使徒は単に我々が愛せばよいのではなく、我々が倣うべき神聖な象徴である。コーランは単に暗記し、理解すればよいのではなく、その文言を実践すべき神聖な象徴である。アッラーフは単に我々が傅けばよいのではなく、従うべき神聖な象徴である。
こうしたことを踏まえて、我々が自問するとき、我々はこうした公理を通して、これらの象徴とどう関わってきたと言えるのだろうか…? もし預言者ムハンマドがこの世界に戻ってきたとき…、彼の言動、そしてコーランの教えを踏まえてどういったことが彼の心を痛めることになるだろうか? 間違いなく多くのことに心を痛めるだろう。
無垢の人々の殺戮を阻止する実践はなかった
無垢の人々が殺されることは大罪の一つではないか? ハディースのなかで…それは、アッラーに対するシルク(多神論)とされた。無垢の人々が殺害されているというとき、我々は1990年代のイラク包囲から始め、2003年の攻撃、そしてイエメン、リビア、シリアに至る状況を見てみよう。これは大罪ではないのか? イスラーム教徒は、使徒に向けられているのではない愚かな言葉(フランスでの預言者風刺画をめぐる騒動のこと)に怒る一方で…、もっとも大きな大罪に怒らないでいられるのか? でもどこで行われているのか? どこに怒りはあるのか? 無垢の人々を守り、大罪を阻止しようとする行為はどこにあるのか?
我々がコーランの歪曲とアッラーフに対するシルクを区別できるとしたら、あなた方は同胞団主義のウラマーなのか…? コーランを歪曲する者は、多神論者に違いない。コーランの歪曲は、何年も前から始まっている。現在、政治的な理由で、多くの聖句が歪められ、隠蔽されるようになっており、コーランの内容そのものも改ざんにされようとしていることをご存知だろう。しかし、我々は怒りを耳にしない。イスラーム世界の宗教学者からも耳にすることはない。
歪曲された宗教理解と具体性を欠いた恣意的行動
かといって、我々に宗教を分断することはできるだろうか? できるはずもない。では、多重基準で対処することはできるだろうか?
預言者ムハンマドを侮辱するこうした事柄に対して、我々はイスラーム世界のレベルで対抗しなくていいのか? 多くのことが起きている。それらは、これまで述べた象徴に直接抵触していると思う…。
結局のところ、誤った概念で宗教を歪めて理解し、その場限りの感情に任せて具体性を欠いた恣意的な行動をしているのだ。それによって、我々は相手の敵意、そして我々への侮辱を助長しているのだ…。
我々は問題を特定した。怒りは何も実現しないと言った。抵抗しなければならない。どのように抵抗するのか? どこから抵抗を始めるのか?
脅威は外からではなく内からもたらされる
抵抗は真の敵を知ることからまず始められる。敵はどこに存在するのか? いかなる教義であれ、第1の敵は外からやって来ない、それが真理だ。
歴史を通じて、外国の攻撃で衰退した教義などない。まったく逆で、信徒は常にそれを守り、持ちこたえてきた…。脅威は常に内側から生じているのだ…。そしてこの脅威は、後進性、過激性、狂信性、信徒が健全に思考できないことから始まる…。
私は、テロが脅威だなどと言ったことはない。なぜなら、テロは原因ではなく、結果に過ぎないからだ。
西側社会は自らが行うテロの責任をイスラーム教徒に押しつけている
テロは、イスラームの産物ではない。このことは自明だ。それは、社会と関係がある亀裂の産物ではある。だが、この亀裂を利用するのは、西側社会だ。西側社会がこの地域(中東)でテロを行ってきた。
より重要なことは、欧州でのテロの一部は、我々のもとで起きているテロと関係がないということだ。彼ら(西側諸国)は、オイル・ダラーと引き替えにワッハーブ主義思想を持ち込んだに過ぎない。カネと引き替えに、今彼らは代償を払っている。にもかかわらず、彼らはイスラーム教徒とその過激性、さらには我々の象徴に責任を押しつけている。
ネオ・リベラリズムがイスラーム社会を攻撃している
抵抗は、脅威を知ることとともに、弱点を知ることから始められることになる。
私はあなた方がこれらの弱点に対処していると考える。だが、多くの人にそれは見えていない。真の敵の本質を特定できないままである…。何かが起きたとき、我々はことの次第を特定し…、関与している人を攻撃する…。だが、そうした人は常に変化する。つまり、彼らは、彼ら自身を代表しているのではなく、ある潮流を代表しているのだ。この潮流というのは、イスラーム社会を攻撃する潮流のことだ…。
多くの人々にいまだ明白になっていないこの潮流とは、ネオ・リベラリズムという潮流だ。そのことを承知している人は少ない。もちろん、それは、政治的、社会的な潮流であるリベラリズムとは違い、何ら問題はない。リベラル派や保守派、それ自体に問題はない。ネオ・リベラリズムは、米国にとっては民主主義の普及に似ている。彼ら(米国)は、民主主義を、諸国民への覇権を実現するために利用している。戦争を仕掛けるために人権を利用している。
人間性を破壊するネオ・リベラリズム
ネオ・リベラリズムは…癌のように悪性だ。なぜ、癌や腫瘍に例えるのか? それは、人間がそれを感知しないままに、ゆっくりと成長するからだ。その手口は、道徳的衰退を広め、人間を、信条、価値観、帰属意識、教義から引き離して、自らの目的に達しようとするというものだ。
この言葉(ネオ・リベラリズム)から何を理解しただろう? このリベラリズムに必要なのは、人間の人間性を打ちのめすことであり、宗教とは対照的なのだ。なぜなら、宗教は人間性を高めるために下されたのに対して、このリベラリズムは人間と人間性を切り離そうとしているからだ。人間が人間性から切り離されたとき…、何がその人間を導くだろうか? それは二つ、カネと本能だ…。
切り離される個人と社会
この教義のやり口とは…、集団をよりどころとすることから、個人をよりどころとすることに変化させるというものだ…。ここで言う個人をよりどころとするというのは、個人が望ましいと思うものすべてが、社会を度外視して正しいとする見方だ。つまり、家族、そしてより大きな社会ではなく、個人の望みが基本なのだ。
こうした価値観…、つまり家族、社会、そして祖国から切り離すことが第2のやり口だ。この個人はいかなるものにも帰属しない…。このリベラリズムという教義に帰属するだけなのだ…。(既存の)教義を拒否するが、実際のところ、そうすることが教義なのだ。人間から人間性を奪い、なくすと言うとき、何を意味するのか? 動物になるということだ。人間と動物の違いとは何か…? それはたった一つだ。教義だ。そして教義が打ち砕かれることは何も新しいことではない…。ソ連が崩壊したとき、米国が最初に提起した概念は何だったか? イデオロギーの時代は終わった、つまりは、イデオロギーなどない、というものだった。これがネオ・リベラリズムという段階の始まり、あるいは重要な段階だった。
許されない正しい宗教
結局のところ、それ(ネオ・リベラリズム)は政治目的を持ったイデオロギーだ。だが、社会的ツールなくしてそれが目的に達することはない…。その目的が政治的である場合、彼らと宗教の間にある問題とは何か…? 外見上、問題はない。彼らにとって、我々が断食しようが、礼拝しようが、喜捨を行おうが、何をしようが問題はない。だが、我々は原則と価値観を放棄しなければならないというのだ。つまり、中身のない空っぽな宗教、過激な宗教なら許されるが、正しい宗教はダメなのだ…。
彼らにとって問題なのは、我々が正しい宗教を確立するときだ。なぜなら、正しい宗教は、政治的目的を阻止し…、我々を屠殺場に導かれる群へと貶めることを阻止するからだ。
こうした考えに基づくと、なぜ我々が宗教機関への激しい攻撃を目の当たりにしているのかが理解できる…。シリアへの戦争だけでない…。問題はもっと大きい…。
戦闘を行う宗教組織こそが第1の敵
現在、イスラーム世界にさまざまな(宗教)組織があるが、それは戦闘を行う組織だ…。正しい宗教を確立するための戦闘だとでも言うのか? 正しい宗教を確立するためだと言って殉教を強いる組織とはいったい何なのか…? こうした組織が当然、第1の敵なのだ。彼らはあなた方を人として、そして組織として攻撃してきた。なぜなら、我々が探し求めている正しい宗教とは、リベラリズム普及のために必要な社会的構造とは真逆の社会構造を築くものだからだ。だから、宗教機関への攻撃の大部分は外からなされる。
シリアに対する戦争、あなた方はまさにこの戦争の一部をなしているのだ。だが、我々は、シリアに対する戦争と宗教機関に対する戦争をより深く見なければならない。それは別々の戦争ではなく、過去10年間の戦争でもない…。それは、あなた方、宗教機関と、近代リベラリズムの間の問題なのだ。
世俗主義とは信仰の自由であり、リベラリズムではない
現在行われている攻撃、我々が耳にする異常な問題提起は、リベラリズムの問題提起なのだが、実際のところ、それは世俗主義とは無関係だ…。世俗主義とは信仰の自由であって、それ(リベラリズム)とはまったく関係がない。我々は自らが立ち向かう真の敵が誰なのかを区別し、知らねばならない。敵を特定したうえで、我々は何をするか…? 我々がこのリベラリズムと宗教の関係について話しているのであれば、宗教から始めなければならない。
我々が宗教というとき、それは正しい宗教を意味している。つまり、法源(フィクフ)以外の何ものからも始まることのない宗教だ。法源というと、法学者、ウラマーなどと結びつけてしまいがちだ…。だが、私は個々のイスラーム教徒に必要な法源について話している。そしてここに別の問題が潜んでいる…。
真のイスラーム教徒とは不寛容、過激主義に立ち向かう者
多くのイスラーム教徒が理由も知らずに儀式を行っている…。だが、いかなる儀式であれ、我々はその目的を知らねばならない…。どこに至るのかを知らねばならない…。これは、我々が取り組まねばならない大きな問題なのだ…。宗教において、それ(目的にどの程度達しているか)はどのようにして計るのか? 礼拝者の数では計ることはできない。戦争の初めにモスクから何人の人が街頭に出てきたかを知ったとしても何も意味しない。なぜなら、彼らは「アッラーは偉大なり」と連呼する無神論者だったからだ…。
だが、我々には、社会の道徳、社会の行い、イスラーム教徒全般によって用いられている正しい概念を計ることはできる。宗教に傾倒することで、不寛容に立ち向かい、宗教への傾倒と不寛容が結びついていないのを目の当たりするとき、それを計ることができる…。
それはシリア社会においてまさに言える点だ。なぜなら、戦争当初、不寛容や宗派主義について語っていた者のほとんどが、不信心者で、その一部の宗教的思潮は、おおむね同胞団主義的傾向があったからだ…。
真のイスラーム教徒…、真の信心者について言うと…、それは不寛容、過激主義に立ち向かう者のことだ…。目的がなければ、我々は正しい実践には至ることはないのだ。
教義、社会と不可分のアラビア語の衰退
アラビア語はコーランの言葉である以前から、思考や文化の担い手である…。この言語が消滅、後退、あるいは弱体化するのを、我々皆が社会において明確に、そして危機感をもって目の当たりにしている。我々は人間とその文化とを隔てる障害があることを知らねばならない。これは自明のことだ…。それはコーランについても言えることだ…。
彼らがコーランとの間に抱えている問題とは何なのか? 言語と教義は一つに結びついており、分かつことはできない。だが、両者の結びつきを打ち壊すことならできる。どのようにして? 社会で話されている言語を打ち壊せば、我々はこのコーランを西側の言語で…受け入れることになるだろう。アラビア語は古代の諸言語と同じように単なる礼拝の言葉となり、そこにコーランの文化と社会の文化の乖離が生じるのだ。仕組みは簡単だ。だから、我々は言語と教義、言語と社会、社会と教義を分かつことなどできないのだ。