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「………んっ」
篠崎の激しい息遣いを、鈴原夏希が見上げている。
「篠崎さん?」
「…はい……」
「こんな夜中にご迷惑でしたよね」
「いえ……そんなこと……は」
篠崎は球の汗をかきながら夏希を見下ろした。
「葵ちゃん、は?」
「もう寝てます。だから、声とか音とか抑えなくても大丈夫ですよ」
夏希が胸の前で手を合わせる。
「………」
「ごめんなさい。きついですよね……。最近触ってなかったから…」
「こんなところ、鈴原さんが触らなくていいんですよ」
「でも――」
「何かあれば私を呼んでもらっていいんで」
「……あ。でてきた」
夏希が囁く。
「よく見せてもらいますね」
篠崎が目を凝らす。
「何も異常ないですね。床暖房のホースは」
言いながら篠崎は、床暖房パネルからやっと頭を出した。
「じゃあ何だったんだろう。急に動かなくなって」
並んでしゃがみ込んでいた夏希が立ち上がる。
「ちょっとした接触不良かもしれません。様子を見ましょう」
篠崎は額の汗をハンカチで拭いながら、立ち上がった。
「じゃあ、また何かあれば連絡してください」
「あ……」
「何かありますか?」
「あ。えっと。帰っちゃうんですよね?」
「?」
「その、お話があって……」
「なんでしょう」
夏希は軽い呼吸を繰り返してから、篠崎を見上げた。
「実は、夫とやり直す話、また保留になって」
「保留に?」
「実は、向こうの両親に相談しないで離婚したこと、向こうの親戚がものすごく怒っていて。その、私のことを―――」
話しながら、夏希の目に涙が溜まる。
「悪いのは東田なのに。私じゃないのに。私が金髪だからとか、元ヤンだからだ、とか…」
(元ヤン?こんな小さい身体なのに)
篠崎はルームウェアに身を包んだ彼女を見下ろした。
「子供、少し癇癪もちなんですけど。それも私が気性が荒いからだって言って」
「……それはひどい」
「だから、私、もうどうしていいかわからなくて」
小さい両手が小さい顔を覆う。
母親が嗚咽する声に反応して起きたのか、葵が寝室で泣きだした。
「……鈴原さん、葵ちゃんが泣いてますよ」
母親の耳には届いても、今の彼女の心には響かない。
「泣きたいのは、私だっての……!」
「鈴原さ―――」
「鈴原じゃない!」
急に夏希が叫んだ。
「私は鈴原でも、東田でもない!私は――――」
とうとうその場に座り込んでしまった。
「私なのに………」
酷く弱々しい声を絞り出す母親に対し、寝室の葵は狂ったように大声で泣いている。
篠崎は意を決して彼女の前にしゃがんだ。
「夏希さん。大丈夫ですよ。あなたはどんな選択をしても、幸せになれるし、葵ちゃんを幸せにできる」
「…………」
両手が外れ、大きな目が篠崎を見つめる。
「自信を持ってください。あなたは素敵な人だから」
「……はいっ!」
「葵ちゃんが呼んでいます」
「……はい!ありがとうございます」
夏希は立ち上がった。そして寝室のある二階へと駆け上がっていった。
篠崎は床暖房パネルをしまうと、工具箱を手に立ち上がり、東田邸もとい鈴原邸を後にした。
「まずいな」
元夫とのよりを戻すことに暗雲立ち込めているのはわかっていたが、彼女がここまで赤ん坊である葵の声に反応が鈍いとは思っていなかった。
このままだと自分が不幸だと思うあまり、ネグレクト、さらにいくと虐待にもなりかねない。
篠崎は暗いため息をつくと、アウディのエンジンを掛けた。
ふと携帯電話を見る。新谷からの連絡はない。もう0時を回っている。さすがに飲んではいないだろうと思い、番号を押してみた。
Trrrrrrrrr
Trrrrrrrrrr
Trrrrrrrrrr
『…………』
「新谷?」
ギシッ、ギシッ、ギシッ
ベッドのきしむ音。
『んん…っ、ぐっ、んっ!ああっ』
苦しそうな喘ぎ声。
篠崎は思わずエンジンを切って音と声に集中した。
「おい……!」
『篠崎さんですか?』
低い声に鳥肌が立つ。
紫雨のものではない。
もちろん、新谷の声でもない。
この声は――。
『さっきはわざわざ画像を送っていただき、ありがとうございました』
『ああ…!んんっ!』
冷静な林の声の合間に、紫雨の悲鳴が聞こえてくる。
篠崎は呆れて、またエンジンをかけ直した。
「なんで新谷の携帯をお前らが持ってんだよ?」
聞くと、
『紫雨さんが、新谷君から取り上げたままポケットに入れてきてしまったようです。明日展示場で返しますね』
「そうか。わかった。……あとそれと」
『まだ何か?』
電話口の林の声は怒っていた。
おそらくは酒の席とは言え、他の男と簡単にキスをした恋人に対してなのであろうが、その画像を送り付けた篠崎に対しても多少は怒っているらしい。
「ああ、えっと。ふざけてただけだと思うから、その……あんまり虐めてくれるなよ?」
哀れな同期を少しでも助けてあげようと言った言葉だったが、
『あなたに関係ありません!』
ぴしゃりと言われ、プツリと切られてしまった。
(まあ、2人が無事にラブラブしてるってことは、アイツはちゃんと実家に帰ったってことだろうな)
そう思うことにしてアウディのギアをDに切り替えた。
腕の中では頬を涙に濡らし、鼻水を鼻孔に詰まらせて、苦しそうに口呼吸をしながら、葵が眠っている。
駐車場を出ていく黒いセダンを、夏希は寝室の窓から見下ろした。
「………かっこいい車。乗ってみたいねぇ?」
眠っている娘の頬にキスをしながら、夏希は遠ざかるヘッドライトをいつまでも見つめていた。