久々にまな板と包丁の小気味いい音で目が覚めた。
昨夜、夜中にも関わらず母親が入れてくれたコーヒーのおかげか、頭がスッキリしている。
「おはよう」
言うと、母は微笑みながら振り返った。
「おはよう。よく眠れた?」
「すげえ眠れた」
言いながらダイニングに座ると、すでに朝食は出来ていて、ハムエッグからおいしそうな湯気が立っていた。
「はいどうぞ」
横から炒めたソーセージと茹でたブロッコリーが加わる。
皿をテーブルに並べてからおかずをよそっていく母のスタイルも健在だ。
「旨そう…」
自分で料理をするようになって気づいたのだが、母の作ってくれる料理はどれも簡単で手間がかかっていない。
それは母が女手ひとつで由樹を育ててくれたことに大いに関係していて、フルタイムで働きながら、それでも由樹との時間を大事にしてくれた母が、料理に時間を割かないようにしていたんだとわかる。
それでも―――。
「旨い!」
母の料理は世界で一番旨い。
母はダイニングテーブルの向かい側に座りながら、グラスに牛乳を注ぎ、脇に置いた。
「朝、篠崎さんから電話が来たわよ」
「……え」
驚いて口からブロッコリーが転がっていく。
それをポイと自分の口に入れながら母は続けた。
「ご挨拶が遅れましたって。別にいいのに。丁寧な店長さんよね」
微笑む母に苦笑いをする。
篠崎との本当の関係のことは、まだ母には話していない。
でも何か―――。
「新谷をお願いしますだって。こっちがお願いしてるのに。ねえ?」
(気づかれてる気がする……)
「いくら家賃が半分になるからって公私ともにお世話になるなんて、悪くないのかしら」
言いながら自分はコーヒーを啜っている。
「篠崎さんも一人になりたい時くらいあるでしょうし」
「…………」
間がもたずに、少し焦げたパンを口に放り込む。
「家に友人や彼女さんを呼びたいときもあるかもしれな……」
「あ、俺も展示場に電話しなきゃいかないんだった!」
由樹は立ち上がった。
「お客さんの件でちょっと話があったんだった!電話、借りるね!」
言うなり子機を手にすると、そのまま洗面所の方に逃げた。
子機を握りしめながら洗面所に映る自分を見つめる。
母は”いい母親”だと思う。
シングルマザーでありながら、由樹を他の子と比べて何の支障もないように、新しい服を買い与え、年頃になったら美容院にも連れて行き、欲しいと言ったもの、必要だと言ったものは全て買い揃えてくれた。
それなのに……。
母の努力に見合う自分は、今ここに立っているのだろうか。
母の期待に応えられる自分は――――。
視線はその情けない自分の姿からスライドし、コップに1本だけ刺さっている歯ブラシに移る。
母は、ここで一人で生きている。
これからもここで一人で生きていくのだろうか。
本来なら長男であり唯一の子供である自分が、家庭をもって引き取り一緒に暮らすのが筋なのだろうが……。
「…………」
由樹はやるせない思いを空気と共に吸い込み、そして細くゆっくりと吐き出した。
少し時間をおいてからダイニングに戻ると、母は洗い物をしていた。
「今夜もこっちに帰ってくるんでしょ?」
振り返りながらフライパンを泡のついたスポンジで撫でている。
「うん。そのつもり」
「今日は早く帰ってきてよ、由樹の好きなものを作るから」
「ありがと。楽しみ!」
言いながら微笑むと、母も笑いながら視線を洗い物に戻した。
その皺の寄った手を見る。
なんだか痩せてしまった背中を見る。
「……………」
由樹の視線に気づいたのか、母がまた振り返る。
「どうしたの?」
「あ、いや……」
由樹は頭を掻きながら、台所を見渡した。
「この家って、家賃いくらだっけ」
「3万円だけど?」
そう。4LDK、1階建てのこの家は持ち家じゃない。
昔、母が勤めていた百貨店のオーナーが使わなくなった家を格安で貸してくれているのだ。
「母さんってこの家でこれからも暮らすの?」
できるだけ自然に聞いたつもりだったが、母はまだ泡だらけのフライパンをシンクに置いて振り返った。
「どうしたの?急に」
「あ…いや……」
由樹は慌てる。
「別に時庭にいることにこだわりとかないなら、八尾首に来てもいいんじゃないのかなーって思———」
「いやよ。あんなに雪が多いとこ」
即座に否定されてしまった。
「時庭はいいところよ。静かだし天賀谷みたいに道路は混まないし。八尾首みたいに寒くないしね」
確かにそうだ。
由樹は頷いた。
「………」
母が微笑みながら由樹を見上げる。
「由樹は余計なこと考えずに、あなたの人生を歩めばいいのよ。時庭でも、八尾首でも。ダイクウでも、セゾンでも……」
そこまで言って、母は意味深に間を置いた。
「千晶ちゃんでも、篠崎さんでも、ね?」
「……え?」
口を開けた一人息子を見て、母は朗らかに笑った。
(……あれってどういうことだろ……)
由樹は母から譲り受けたコンパクトカーのハンドルを握りながら遠い目をした。
(家に帰るのが、怖い……)
たどり着いた天賀谷展示場は、県内でトップの展示場棟数を誇るハウジングプラザでありながら、閑散としていた。
「あ、そっか!今日は水曜日だ!」
慌てて展示場のそばに停車し、車から飛び出した。
昨夜、家に着いてしばらくしてから携帯電話がないことに気が付き、固定電話からかけてみたところ、偶然居合わせたという林が応対した。
「なんで牧村さんと君と紫雨さんが3人で飲むことになったんですか?」
取り込み中で出られない紫雨の代わりに状況を話すと、彼はやっと納得してから、明日展示場で携帯電話を渡す約束をし、通話を切った。
ざっと駐車場を見回す。
林のハイブリットカーがポツンと停まっている。
「やばい!」
ますます慌てながら事務所のドアを開けると、白いシャツにゆったりしたグレーのカーディガンを合わせた林がパソコンから顔を上げた。
「うわ……」
思わず手で口を覆った由樹を林は無表情で見つめた。
「は?」
「あ、いえ。すげー好みな私服着てるなって」
思わず正直に言うと、林は呆れたように椅子に身体を凭れながらこちらを睨んだ。
「君ね、まずその前に言うことありませんか?」
「あ。お休みのところ、わざわざ出てきていただいて申し訳ありませんでした!」
言いながら林が嫌そうに差し出した携帯電話を受け取る。
「いやー助かりました……」
言いながらそれを胸ポケットに入れると、林がまだ睨んでいる。
今日は整髪料もつけていないからか、サラサラの髪の毛が額をすっかり隠している。
営業というよりも、上品で頭のいい大学生という印象だ。
「尊い……」
思わず呟くと、林は不快そうに息を吸い込んだ。
「ゲイの人って、相手が男なら誰でもいいんですか?」
「はい?」
斜め上からの質問に思わず口を開ける。
「この間だってもし俺が抵抗しなかったら、どこまでヤラれてたのか…」
「え、あ、ちょっと」
由樹は慌てて両手を左右に振った。
「違いますよ、あれは本当に冗談で……」
「男だったら何をしてもいいんですか?無理矢理押さえつけて、一歩間違えれば強姦じゃないですか……!」
「は、林さん?」
「そしてあんただって篠崎さんと付き合ってんのに。あれ、立派な浮気ですよねぇ!?」
「………」
「男は抵抗する力があるから被害者にはならないんですか?男は妊娠しないから、セックスもキスもノーカンですか?んなわけないでしょう!」
「林さん、俺、なにもそんなことは……」
「じゃあ、なんでこのとき止めないんですか?2人を……!」
林がもつ携帯電話の画面を見つめる。
そこには新谷のふりをした紫雨と牧村がキスをしている写真が映っていた。
「ああ……あれ?どうしてこれ、林さんが…」
「どうして紫雨さんがキスされるのを黙って見てたんですか?」
「…………」
(とても紫雨さんの悪ノリに牧村さんが乗ってくれただけだとは言えない……)
「す、すみませんでした……」
素直に頭を下げると、林はこちらをまだ睨みながら言った。
「やってる本人たちはふざけてるかもしれないですけどね!もしかしたら、そういうことが簡単にできちゃうのがゲイの世界なのかもしれないですけどね!俺たちにとっては、違いますから!」
その俺たちの中に、篠崎のことも含んでいるのがよくわかる言い方で林は続けた。
「俺たちにとっては、キスだってセックスだって特別なことだ。他の男にされたら嫌に決まってる!」
それは、そうだ。自分だって。ゲイだって。
「そんなの当たり前ですよ!」
由樹は大きく頷いた。
「当たり前?よくそんなことが言えますね。君だって、俺の腹を見て眼福だって言ったり、俺の私服を見て尊いって言ったり。そう言う感覚も、俺たちからしたら理解できません!」
「……う……すみません」
「そういうの多分、篠崎さんだって理解できないと思いますよ!」
「…………」
どうやら本気で怒っているらしい林はウエストポーチを肩から下げると、車の鍵を持ちながら立ち上がった。
濃い茶色のチノパンも、清潔そうな白い靴下も、ウエストポーチのおかげでウエストの細さがわかる服のラインも、全て“眼福”だったが、由樹は口を押さえた。
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!