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「…う、ッ」
鈍痛で目が覚めた。
気怠い。温かい。眠い。
今は一体何時なのだろう。
部屋にはすっかり影が落ちている。とりあえず、或る程度には深い夜なのだろう。
確か目覚まし時計がそこらにあった筈だ。そう思って手を動かすと、布団の中の温もりに触れた。
何だろう?
人間。
彼だ。ええと、鳩田辺さん。
そうか。今は自分の隣に人がいて、同じ時間を過ごしているのだっけ。
自分の隣に誰かがいたことは、多分人生の中で数えるほどしかなかっただろう。
でも、彼のこともこれからの見通しも殆ど分からないままだ。そしてそのまま、この一日は終わろうとしている。
いいや、もう終わったのかもしれない。どちらにせよ、朦朧とした不安がぐずぐずと絡まっていることに変わりはない。
不安。そう、不安ばかりだ。不安、ばかりだよ、ねえ。
君は知らない世界を見せるためと言って犠牲になったけれど。到底、その知らない世界が素晴らしいとは思えないよ。
もし今彼女が生きていて、いや生きていなくとも言葉が伝わるのならば、こんな言葉を投げたかった。こういう風に、縋りたかった。
…いいや、やめておこう。自分が殺したも同然なのだから、これ以上はもう何も、迷惑だとか世話だとか焼かせてはなるまい。絶対に。
命すら奪い取ってしまった。自覚しないままで。
彼女は優しい人だった。優しいが故に縋りすぎてしまった。
遠い遠い過去の、ある幼い時、自分は孤独だった。
どこで生まれたのかも、両親の顔や声すらも、挙句の果てには自身の名前も覚えておらず、ただ他人のような子供たちとあの狭くて冷たい部屋を共にしていた。
日々人間の形をしたモルモットとして、実験でつくられた人外の温度を感じていた。
小さな掌にべたべたと薬品や血液がついて、そのまま虚しさが染み付いた。
寂しい。虚しい。漠然と立ち尽くす不安感。隣にいたのはそれらばかり。
そんなある日のこと。彼女がこの狭くて冷たい部屋にやってきた。
やってきた、と言うよりも入れられてきたと言ったほうが正しいかも知れない。
扉が開けられて新しく入った外の空気とともに、彼女は静かにこちらへ歩み寄った。
「あの…隣、いいかな」
初めて交わした会話はそんなものだった。
しかし、そのそんなものだった会話はきっと、あまりに多くの未来を変えてしまったに違いない。
「…ん」
「いやぁ、突然ごめんね?ほんと助かったよ〜ここの人たちみんな無口で、話し相手が全然いなくてさあちょっと静かすぎてびっくりしちゃって。あとここってどこなの?なんかこう…ずいぶん質素だね…雰囲気暗くない?なんか迷子になったと思ったらいきなりこんなところ来ちゃって大変でさ、すれ違う人みんな暗い顔してて…なんでこここんなに静かで暗くて雰囲気悪いの?割と人いるのに結構廃墟みたいな感じあってちょっと怖いよ…ここ来てから全然太陽の光見れてないし外の空気吸えなくて閉塞感強すぎって言うか…あっそうだ私██っていうの!███ ██!君は名前なんて言うの?」
ふうっと大きく息を吐き出して、また一息で一気に話した。
なんて情報量が多いんだ。
一体どうしてこんなにいっぱい話すんだろう。どうしてこんなにいっぱい話せるんだろう。当時大して言語能力の達者でなかった自分は、そんなことを思った。
そして同時に、自分の名前を聞かれたことがないからわかんないな、とも思った。
「…わかんない……」
「…エッ…!?わかんない!?あっもしかしてないってこと?それとも忘れちゃったの?」
「……わかんない…」
会話をして早々、自分は自信を無くしそうになった。初めて十分に会話と呼べるであろうものをしたのに(一方的なものではあったが)、想像とは遠くどんなに簡単なものにすら答えられない。一瞬薄れかかっていた不安感や虚しさ、寂しさが一層量を増して自分を囲んだ。
「そっかあ…なるほどねえ…まあでも、大丈夫!」
「…?」
「名前がないなら考えればいいよ!えっとね…」
名前がないなら考えればいい?
彼女は一体何を言っているんだろうか。名前は生まれた時に誰かに与えられるものだ。今の今まで自分はそう思っていた。…もしもそれが違うとしたら?
もしも彼女の言う通り違うとしたら?もしも今ここでそれが与えられるんだとしたら?もしもそうだったら―
「…君のことあんまり知らないから思いつかないや!」
―どんなに素敵だろう。
そう感じていた、ささやかな幸せな気持ちはわずか一瞬で砕け散った。
「あっもしかして名前って自分で考えるものかな!ははは!私もわかんないや!」
追い打ちをかけるように響く言葉。本当に、なんて純粋でなんて残酷なんだろう。彼女はこれまで無知だった自分にとって、全くの衝撃となったのだった。
「ねえねえ」
「…?」
「ここのこと、教えてよ」
ひっそりと静まり返った夜の空気に、彼女は囁くように言った。
あの後結局彼女は扉の外に連れ出されて、長い間検査を受けたらしい。
帰ってきた彼女は来たばかりと打って変わって随分と疲れた顔をしていた。しかし、同時に目に激しい光を燈してもいた。
それは恐怖心でもなく、絶望でもない、紛れもなく―反抗心だった。
「ここってさ、ええと…いいところじゃないのは、確かだよね」
一字一字言葉を選びながら、疑問を確信へ紡ぐ。
「うん」
「今までここで何されてきたとか、わかる?」
「…えっと、…」
あの情景も、あの痛みも、何もかも、全部忘れてなんかいなかった。それでも、それはどうしても言葉へと変わらない。力になれるならなりたい、のに。ただ繰り返すばかりの呼吸が、今はどうしようもなくもどかしかった。
「…わかんない?」
優しく見つめる視線。いっそのこと肩を摑んで睨みつけてほしいのに。
「…うん、そっか。そうだよね。…ありがと。もう、大丈夫だよ。」
彼女はとうとう、そっと、静かに優しく告げた。
待って。
「とりあえず、自分でなんとかしてみる。なんか…迷惑かけちゃってごめんね」
違う。
違うよ、違うんだよ。
初めて人に頼られたのに。
どうして自分はなにもできないんだろう。
彼女の役に立ちたかったのに。
ずっとこうやって、苦しみながら何かを忘れたように生きることしかできない。
何も知らない。何も持たない。何もできない。
どうしてまだ生きてるんだろう。
情けなさが、とめどなく泡のように浮かんでは消えてゆく。
胸に感傷的な圧迫が詰まる。
眼が次第にぼやけていく。
だめだ。
だめだよ。
「…ぅ」
だめだって。
「…ふ、うっ…うう…」
ああ。
ずっと。
ずっと、こんなままだ。
寂しい。
悲しい。
苦しい。
―救ってほしい。
ああ、まだ愚かなまんまだ。
誰かに助けてほしいだなんて、求めたってなんにもならないのに。
求めちゃいけない。こんな出来損ないの何一つ成せない死に損ないが。
死んでない自分なんか大嫌いだ。
救われたいと願ってしまう、愚かで使い捨ての自分が大嫌いだ。
自分すらにも嫌われるような人間が救われたいだなんて。
なんで生まれてきたんだろう。
苦しくて虚しくて仕方がない生き方をするくらいなら、いっそ生まれたくなんてなかった。
「…わわ、えっと…?大丈夫?ごめんね、ごめん…」
違う、のに。
手が震える。
何も、どうやっても伝えられない。
ああ。あああ。
「……あっ…?」
―ふと、隣から声が聞こえた。
見ると、自分の周りで慌てていた彼女が、ふと何かをひらめいたように立ち止まっている。
どうしたのだろう。
「いや、うん…ちょっと待って、えっと…」
何かを考え込んでいるようだ。
自分のぼやけた眼の先で、彼女はだんだん顔に笑みを浮かべた。
「うん!私、君のことがなんだかわかったような気がする!」
満面の笑みで、彼女は実に自信あり気に、高らかに宣言した。
一体全体、何だったのだろう。
「あっ、泣き止んでるじゃん!良かった〜っ!」
次から次へと話題が移り変わっていく。
ついていけないけれど、ああ、なんだか…彼女はこういう人、なんだろうな。
優しくて、人を引っ張っていく。たまに奇想天外で、困ることもあるけど、…。
彼女と一緒になら、まだ生きられる気がする。
窓の向こうの空がぼんやりと白み始めていた。