テラーノベル
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今年もまた、真夏の暑さがほんの少し和らいで、過ぎていくこの季節を惜しむようにどこか切ない空気が漂っている。東京へ帰る日の朝がきた。
そばにはもう詰め込み終わった小さい荷物がぽつんと転がっている。蝉の鳴き声が、どこか遠く弱々しく響く部屋で、一人静かに佇んでいた。網戸越しに入ってくる風は妙にぬるく、この部屋に取り残された自分だけが、時間の流れから置いてけぼりにされているような錯覚に陥る。
クーラーの風がカーテンを微かに揺らし、居間の机の上には、見慣れたあの一冊の絵日記が影をのばしている。見送りに行くからと言って、今日は朝から若井と涼ちゃんがうちに来ていた。
つい先ほどまでそこの机でうんうんと唸って首をかしげながら書いていたのに、電車が来るまでの間母が見ていたテレビのサスペンスドラマに二人とも釘付けである。あいつがどうの、こいつがどうのと、三者三葉の推理が飛び交っている音がわずかに聞こえてくる。
…まったく、誰の見送りに来たってんだ。
そう、心の中で毒づきつつも、ふっと口角は上がっていた。
視線を絵日記のほうへと戻し、何から隠れているのか分からないが、足音を殺してゆっくりと近寄った。
使い古されて角が少し丸くなった表紙。手で触れると、涼ちゃんが毎日毎日、消えていく記憶と戦いながらこのノートを抱きしめてきた熱が、伝わってくるような気がした。ざらついた紙の感触が、指先を通じて僕の胸の奥をちくりと刺す。
そっと表紙をめくる。一番初めのページの日付は、今年の4月になっていた。このノートは、その時から書き続けられているようだ。たまに線を乱れさせながらも、中学校のことや若井との出かけた場所などすべてが正確に記録されている。
そして、この夏休みに入ると、圧倒的に消費するページ数が増えていた。たまに、ちょっと下手くそな絵も登場しちゃったりして。…この絵、若井かな。じゃあこれが涼ちゃんで、これが僕かな。いや僕小さすぎるだろ。もうちょっとでかいわ。ぶっとばすぞ。
めくるたびに笑みがこぼれだして、最後には満面の笑みが止められなかった。やっぱり、やっぱり涼ちゃんは今日までずっと描き続けていたのだ。僕とのあの夏の最初のページを守るために。
…ほんと、バカだ。
勝手に上書きされたと思い込み、一人で嫉妬して、涼ちゃんを追い詰めてしまった。
胸の奥で小さく深く息を吐き、ポケットから1本のボールペンを取り出した。ノートの一番最後の、真っ白な空白のページを開く。
もう、過去を強要するような言葉は書かない。「思い出してほしい」という醜いエゴも書き残さない。ただ、これから先の彼の毎日が、少しでも優しく、温かい光に満ちたものでありますようにと祈りを込めて、ペン先を落とした。
『忘れても大丈夫。僕らが、全部覚えてるから。
また会おうね。』
インクが乾くのを待ってから、そっとノートを閉じ、元あった場所へ寸分違わず戻した。
僕のこのメッセージに、涼ちゃんが気付くのはいつだろう。使い終わるまで、気づかないだろうか。それとも明日の朝にでも気づいちゃうかな。
あるいは、一生気づかないままかもしれない。
けど、それでいい。もし、涼ちゃんが朝起きて自分を見失いそうになった時、このページがほんの少しでもその心を支えるお守りになってくれれば、それだけで十分だ。
下の階から呼ぶ声が聞こえた。もう時間らしい。荷物を持ち、親戚の乗る車へと歩き出した。日差しはまだ夏の名残を留めていたけれど、吹き抜ける風にはどこか秋の冷たさが混ざり始めていた。
少し前を、若井と涼ちゃんが並んで歩いている。若井は涼ちゃんの歩幅に合わせて、自分の足取りをごく自然に緩めていた。
涼ちゃんが何かを呟くと、若井は呆れたように笑いながらも、どこか愛おしそうに首を傾げて耳を傾ける。涼ちゃんもまた、安心しきった笑顔を若井に向けていた。
その二人の後ろ姿を、僕は半歩引いた場所から見つめていた。胸の奥がぎり、と痛んだ。
明日も、明後日も…僕が東京へ帰ったあとも、この二人の穏やかな日常は続いていく。そこに、僕の居場所はない。どれだけ二人の過去を知っていようと、どれだけ涼ちゃんを想っていようと、明日からの長野の時間は、若井と涼ちゃんの間で当たり前のように流れていく。僕が長野を去れば、涼ちゃんの「今日」から、僕という存在はまた少しずつこぼれ落ちていく。若井の手を握る涼ちゃんの横顔があまりにも自然で、僕が一番好きな笑顔で、だからこそたまらなく悔しかった。
日記を書く涼ちゃんを若井が見守り、背中をさすり、手を握る。そんな愛おしくも過酷な日常が、僕の知らないところでこれからも繰り返されていく。
僕が長野を去れば、涼ちゃんの「今日」から、僕という存在はまた少しずつこぼれ落ちていく。若井の手を握る涼ちゃんの横顔があまりにも自然で、僕が一番好きな笑顔で、だからこそたまらなく悔しかった。
狂おしいほどの寂しさと叫び出したいような醜い嫉妬が、喉の奥までせり上がってくる。
けれど、その「日常」を作ってきたのは、若井が7年間積み重ねてきた血の滲むような努力と覚悟なのだ。そして、涼ちゃんが心から求めているのは、過剰な思い出話ではなく、今日という日を無事に過ごせる平穏なのだと、もう知っている。僕がこの数週間で味わった焦燥感なんて、彼が過ごしてきた途方もない日月の前には、浅瀬の水たまりのようなものだ。
なにより、僕が抱く小さな居場所のなさよりも、涼ちゃんが明日も笑っていられることの方が、何百倍も大切だった。
僕はぎゅっとポケットの中で拳を握りしめ、胸の奥の苦い塊をひとつ呑み込んだ。そして、俯きかけた顔を上げ、二人の隣へと追いつくように足早に並んだ。お待たせと、できるだけいつものトーンで声をかける。
「元貴、気をつけてね。」
涼ちゃんが僕の目の前に立ち、あの日と変わらないまっすぐな透明の瞳で、見つめて言った。
あなたの記憶の中で、僕は今どんな存在なんだろう。今日は、過去にどんなことを一緒にした、元貴だろう。あなたの瞳は何を捉えているだろう。毎朝、世界のすべてがリセットされる恐怖の中で、今のあなたは僕を今日出会った優しい人としてでも見ているだろうか。
けれど、その瞳にも、浮かべた笑顔にも、僕という人間がそこにいることを、ごく自然に、温かく受け入れてくれていた。記憶はなくても、心の深いところで僕を拒んでいないーーそれだけで、救われるような気がした。
「うん、ありがとう。涼ちゃんも…無理しないで、体調気をつけてね。」
「うん。元貴もね!」
涼ちゃんは小さく頷いた。その左手には、さっきまで僕の部屋にあったあの日記がぎゅっと握りしめられていた。まるで命綱のように。それがあまりにも愛おしくて、切なくて、泣きそうになるのを必死で堪えた。
隣に立っていた若井と、視線が交差する。少しだけ寂しそうに見えるこいつが、なんだか可愛らしくて頭をぐしゃぐしゃとかき混ぜてやった。下からやめろだのなんだの聞こえた気もするが、無視して気の行くままに撫で続けた。手のひらに触れる若井の髪の硬さが、こいつの頑固で不器用な優しさそのものみたいで、少しだけ愛おしかった。
「…じゃあな、元貴。東京戻ったら、たまには連絡しろよ。」
「うん。…若井、涼ちゃんのこと、頼んだ。」
「任せろ。」
交わした言葉は、たったそれだけだった。
けれど、短く言い切った若井の力強い瞳と、僕を見つめるまっすぐな眼差しの中には、あの日裏庭で拳を握りしめてぶつかり合った、固い絆と信頼が確かに存在していた。
言葉に直さなくても分かる。
彼になら、僕の大切な初恋も、涼ちゃんの未来も、託すことができる。
僕は二人に向き直り、胸の中に渦巻く寂しさも、愛おしさも、すべて包み隠すように、笑った。
「じゃあ、若井、涼ちゃん。またね。」
「またね、元貴!」
涼ちゃんが嬉しそうに、両手を大きく振ってくれた。
もういいの?と聞く親戚に頷いて、車が動き始めたのがわかると、窓を開け顔を出してもう一度二人を見た。
小さくなっていく景色の中に、並んで立つ二人のシルエットが見える。
若井が涼ちゃんの隣に寄り添い、二人で去っていく車に向かって手を振り続けている。その姿は、夕暮れ時の淡い光の中に溶けていくように、どこまでも美しかった。
角を曲がってしまい、完全にその姿が消えてからも、網膜にはあの笑顔が焼き付いたまま離れない。シートに深く背中を預け、そっと両目を閉じた。
涼ちゃんの記憶からは、僕という存在は消えてしまうかもしれない。僕と過ごしたこの夏の思い出も、朝が来るたびに白い霧の向こうへ消え去ってしまうののかもしれない。涼ちゃんのノートの元貴も、またただの文字情報になってしまうだろう。
けれど、あの日交わした手のぬくもりも、ひまわり畑で誓った言葉も、僕の胸の中でだけは絶対に消えない。僕が覚えている限り、僕たちの思い出は永遠に生き続けるのだ。
大人になったら…もっと強くなって、もっと頼もしい自分になって、またここへ戻ってくる。絶対に。
今度は、涼ちゃんを傷つけるためでも、過去を押し付けるためでもない。
二人を支えられるような、大きな人間になって戻ってくると、胸の中で静かに誓った。次に会う時は、涼ちゃんが僕を忘れていても、初対面のフリをして、何度でも「はじめまして、元貴だよ」って笑ってみせるから。
窓の外を流れる、少しずつ滲んでいく長野の山々の風景をいつまでも見つめ続けていた。
仲夏 過
コメント
5件
更新ありがとうございます✨ いろんな事を呑み込んで、受け入れて、💛ちゃんを見守っている2人😭✨ 💛ちゃんが穏やかに日々を過ごしていけます様にと思う反面、2人思いも切ないな、と感じてしまいました。次にまたどんな再会を果たすのか、とても楽しみです💕 次回も楽しみにしています。
涙ボロボロしながら読んでました😭 毎回泣いてる気がして恥ずかしいです😭😭 やっぱりお別れは、いくつになってもずっと寂しいですね😭 ❤️くんの💛ちゃんへの想いがたくさん伝わってきて、本当に大好きです😭♡ 💛ちゃんも💙くんも切ないけど、最後は笑顔で3人でいられて良かったです😭 これは……大人になってから再会するお話を書く予定はありますでしょうか?😭💕
みぅです🤍🥀 第18話、読み終わりました…。 主人公が涼ちゃんの絵日記にそっと書き残した「忘れても大丈夫。僕らが、全部覚えてるから。」に胸がぎゅっとなりました。記憶から消えても、自分が覚えている限り永遠に生き続けるっていう決意、すごく切なくて、でも温かかった。若井に涼ちゃんを託すシーンも、何も言わなくても通じ合ってて、もう泣きそうになりました。 夏の終わりの風景と、主人公の心の成長が丁寧に描かれていて、とても好きな話です。素敵な作品をありがとうございます🌙
おと
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#もりょき
こんぶ@ミセス推し
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kurara
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