コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
俺は彼女が去ったドアを見ながら思考を巡らせていた。
俺の予想が当たっているなら、少女はヘラの義理の娘。
少女の父親は、つまりヘラの夫は殺されている。
そこで重要になるのが、俺の脳裏にチラつく記憶だ。
――人殺し。
その言葉は明らかに俺に向かって放たれた言葉だった。
本当に俺が殺したのか?
ヘラの夫を?
少女の父親を?
なぜ?どうやって?
ポニーテールの女性がヘラ?もしくは少女なのか?
もう一つの夢の記憶。
誰かの葬儀。
その遺影に移っている顔のはっきりしない男もまた、そうなのだろうか。
振り返った喪服の女。
あれは―――?
でも、それならなぜ―――。
なぜヘラは俺を警察に突き出すことなく、または怒りに任せて攻撃することもせず、食事、入浴付きで、俺を飼っている?
しかも―――。
しかも、セックスまでして―――。
少女も少女だ。
どうしてそんなことを俺に言う?
自分の父親を殺したかもしれないとは思っていないのだろうか。
それとも知っていながら敢えて教え、反応を見ている?
そうだとしたら、唯一信用できるかもしれないと思った少女も、味方ではない。
少女の目的は何だ。
俺の記憶が戻ること?
では記憶が戻った瞬間……。
―――俺はどうなるんだろう。
◇◇◇◇◇
今が朝なのか、昼なのかわからない。
しかし俺のリズムは決まっている。
食事。食事。風呂。
食事。食事。風呂、だ。
次は二回目の食事だ。
それが朝ご飯なのか、夕ご飯なのかはわからない。
しかし確かなのは―――。
もうすぐ、また少女が来る。
数時間前に摂った食事から、ずっと考えていた。
俺が殺した男。
それはヘラの夫で、少女の父親。
その見解が間違っていないとすると。
ヘラも少女も味方ではない。
それどころか、俺に対して恨みを持っている可能性が高い。
問題は――――。
ヘラと少女がグルかどうかということだった。
不仲はポーズで、本当は二人で手を組んで俺に復讐をしようとしているのか。
それとも普段不仲ではあるが、俺に復讐するために、今だけ協力し合っているのか。
どちらにしろ―――。
俺はこの部屋に軟禁され、監視カメラさえついている。
食事を得る手段が少女しかない以上、自分は今、完全に命を握られている。
彼女たちのさじ加減で自分は死ぬ……?
どうやったら生き延びられる。
どうやったら、ここから出られる―――?
いや、そもそも、
俺にそんな価値はあるのか?
自分が殺した家族に監禁され、償うこともせずにここを逃げて生き延びる価値が……。
わからない。
でも―――
何もわからなければ何もできない。
なんとしても記憶を取り戻さなければ。
取り戻したうえで、判断を下さなければ。
彼女たちにも、自分にも。
俺は臙脂色の本「ギリシャ神話大全」をテーブルに置いた。
こうして置いておけば、少女がグラスに水を注いだ時、俺の顔が映るはずだ。
自分の顔を見て思い出せることはけして多くないかもしれないが、やってみる価値はある。
凝り固まっている記憶を融解するきっかけになれば―――。芋づる式に何かがわかるかもしれない。
早く来い。
でも。
出来れば来るな。
足音が聞こえる。
ガチャッ。
「――――!」
確かに今、鍵を開ける音がした。
続いてギイと扉の開く音が続く。
今までなぜこの音に気が付かなったのだろう。
思えば本気で耳を澄ませていたことなどなかった。
俺はずっと。
この部屋に閉じ込められていた。
つまり少女が言っていたことは本当だ。
善意で?それとも悪意で?
どうして少女はそれを俺に教えた……?
コツンコツンコツンコツン。
足音が近づいてくる。
ドアノブが捻られる。
「――――!」
扉を開けたのはーーー。
食事を持ってきた少女ではなく、
風呂に入れるために訪れたヘラでもなく、
彼だった。
「――――」
少女が体調でも崩したのだろうか。
彼は黙ってドアを開け、ベッドに座る俺を見下ろした。
いつも少女が持っている盆も食事も持っていない。
掃除か?いつもシャワーの時間に済ますはずだが。
それとも何かあったのか―――?
「随分、がっかりした顔してるわね」
廊下から声がして俺は振り返った。
そこには外にでも出たのだろうか。つばの広い麦わら帽子をかぶったヘラが、ドア枠に寄りかかるように立っていた。
麦わら帽子―――。
季節は、夏か。
「―――当然だろ。腹が減った」
俺は内心の不安と焦りを勘づかれないようにため息混じりに言った。
「飯は?」
できるだけ自然な感じで言いながら彼に視線を移す。
「……それどころじゃないってわからない?」
ヘラが馬鹿にするように、眉頭を上げた。
「―――あなた、もうバレたのよ?」
―――バレた?
何が、バレた?
スープを捨てていることか?
思考が日々回復していくことか?
少女が俺に教えてくれたことか?
それとも―――。
それとも俺が誰かを殺したことか?
「あなたたちはもう終わり。二度と会わせないわ」
「――――」
今、確かにあなたたちと言った。
会わせないとも言った。
バレたのは少女とのことだ。
問題はどこまでバレているかということ。
下手に話せば、墓穴を掘る。
「――弁解しないのね」
彼女はドア枠から体を離すと、俺のもとへ歩み寄った。
「年下の若い体が良かったの?」
「―――は?」
俺は首を軽く捻った。
「あなたもやっぱり女たらしだったのね」
―――あなたも?
―――やっぱり?
「私を裏切った罪は重いわよ、パリス」
ヘラはそう言うと、彼に目配せをした。
「―――待てよ、何を言っているのか……」
発音の途中で俺の頬は、彼の握った拳に潰された。
ベッドのマットレスに跳ね返るほどの衝撃を受け、俺は倒れこんだ。
口の中がドクドクと温かい。まるで歯茎に穴が開き、そこから血が零れてて来るようだ。
それもそのはず。
奥歯が一本、折れていた。
必死に目の前の現実と、そこからの退避方法を考えていると、シャツの襟首を掴まれた。
「ちょ……待っ………」
懇願する暇もなく二発目が反対側の頬骨にめり込む。
眼球まで衝撃がグワンと響き、目の前の枕が二重に見える。
倒れこもうとする身体を二の腕を掴まれて強制的に支えられると、今度は鳩尾に上向きの拳が突き入れられる。
「――――ガ……ッ!!」
急激な吐き気を覚え、俺は、何か酸っぱくて喉が焼けるほど熱い何か吐き出した。
ぼた……ぼた……と、口から鼻孔から垂れる半固形物が混じる臭い液体が、俺の枕を濡らしていく。
「残念だわ、パリス」
ヘラは言葉とは裏腹に嬉しそうに笑っている。
ダメだ。狂ってる。話なんか通じない。
彼女はその枕を抜き取り、彼に押し付けると、四つん這いに這いつくばる俺の隣に座り、膝に肘をつけて頬杖をし、目と鼻と口からいろんな液体を溢れさせている俺を見つめた。
「―――無様ね」
「――――」
喉が痛くて声が出ない。
状況を把握しきれなくて言葉が出ない。
彼女はフウとため息をつくと、ポケットから例の手錠を取り出した。
「こんなこと、したくなかったんだけど」
言いながら俺の手を取る。
「俺は……」
やっとのことで声を絞り出す。
「人前でヤる趣味はねえぞ……」
言いながら、いつの間に取り出したハンカチで、自分の手についた俺の血を拭いている男を顎でしゃくる。
この馬鹿力の大男がいる限り、俺に安全はない。
せめてこいつだけは追い出さなければ。
しかし彼女はフフと笑うと、彼に席を外す様に支持をするわけでもなく、俺をいつものように鉄柵に拘束し始めた。
「言いたいことはそれだけ……?」
ガチャン。
ガチャン。
手錠のロックをかけられる。
「こうすればもう、浮気できないでしょ?」
言いながら立ち上がると、ヘラは満足したようにスカートの裾を翻した。
浮気?
何を言っている?
俺と少女のことを浮気していると、あるいは浮気しようとしていると、勘違いしたのか?
俺が何度か、カメラの存在を忘れ、目を合わせてしまったから。
言葉を交わしてしまったから。
だから勘違いをしているのか?
でもそれなら、
どうして夫を殺したのかもしれない俺に嫉妬をする?
せっかく掴みかけていたのに。
真相はまた闇に溶けていってしまう。
俺が彼女の夫を殺そうとしたんじゃないのか?
彼女は俺を恨んでいるんじゃ……?
彼が一歩引き、彼女に軽く一礼する。
「明日から食事はあなたが運んで?」
ヘラは小さいがしかし俺にはっきり聞こえる声量で告げた。
「かしこまりました」
一転した慎ましい態度に、ヘラは当然のように顎を上げ、軽く鼻を鳴らしながら彼の前を通り過ぎると、出入口で一度こちらを振り返った。
「愛してるわ。パリス。……本当よ」
赤い唇を左右に引きつらせて笑うと、彼女は足音もなく部屋を後にした。
―――これが愛する男にする仕打ちかよ……!
殴られた痛みで頬が脈打つ。
俺は茫然としながら、両腕を見上げた。
ベッド柵に括り付けられた手錠は、いつも情事の時に使っているアルミ製のもので、ちょっとやそっとじじゃ壊れないし、親指の関節が邪魔をして抜き取ることもできない。
―――もしかして、俺はこのまま………?
トイレに立つことも、水を飲むことも、本を読むことも、寝がえりさえ許されないのか……?
焦燥をごまかす様に、口内に転がった折れた歯を吐き出した。
絨毯に転がったそれを、彼が無表情で拾う。
「――――!」
何とはなしにその姿を見ていた俺の視界に、とんでもないものが飛び込んできた。
この男………!?
彼はふうと軽く息をつくと、それをポケットに入れた。
そして呆れたように俺に一瞥をくれると、出入り口から出て行きドアを閉めた。
間もなく“もう一枚のドア”が締まる音がし、施錠の音が続く。
俺は一人になった部屋の中で、痛みのため静かに呼吸を繰り返した。
俺が見たものに、間違いじゃないなら―――。
―――勝機は……ある。
俺はマットレスに後頭部を沈めた。