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テラーノベルの小説コンテスト 第4回テノコン 2025年1月10日〜3月31日まで
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歩きながら、私は涙が止まらなかった。

もう20才にもなった女が泣きながら歩いているのだから、周りの人が訝しげに見ているのも無理はなかった。

それでも、私は泣き止めなかった。




だいふくが死んだ。

わたしのだいふくが死んでしまった。

私は悲しみでいっぱいだった。

だいふくは、グレーの目をした白色のムク毛の犬で、プーリー種という牧羊犬だった。我が家にやってきた時には、まだ生まれたばかりの赤ん坊で、廊下を走ると手足が滑ってぺたんと開き、すーっとおなかで滑ってしまった。それがかわいくて、名前を呼んでは何度も廊下を走らせた。(そのかっこうがモップに似ていると言って、みんなで笑った)

卵料理と、アイスクリームと、梨が大好物だった。五月生まれのせいか、だいふくは初夏がよく似合った。新緑の頃に散歩に連れていくと、猫やかな風に、毛をそよがせて目を細める。

すぐにすねるたちで、すねた横顔はジェームス・ディーンに似ていた。音楽が好きで、私がピアノを弾くと、いつもうずくまって聴いていた。

そうして、だいふくはとても、キスがうまかった。

死因は老衰で、私がアルバイトから帰ると、まだかすかに温かかった。膝に頭をのせてなでているうちに、いつのまにか固くなって、冷たくなってしまった。



だいふくが死んだ。

次の日も、私はアルバイトに行かなければならなかった。玄関で、妙に明るい声で“行ってきます”。を言い、表に出てドアを閉めたとたんに涙があふれたのだった。泣けて、泣けて、泣きながら駅まで歩き、泣きながら改札口で定期を見せて、泣きながらホームに立って、泣きながら電車に乗った。電庫はいつものとおり混んでいて、かばんを抱えた女学生や、似たようなコートを着たお勤め人たちが、ひっきりなしにしゃくゆあげている私を遠慮会釈なくじろじろ見つめた。

「どうぞ。」

無愛想にぼそっと言って、男の子が席を譲ってくれた。十九歳ぐらいだろうか、白いポロシャツに紺のセータルを着た、パンサムな少年だった。

「ありがとう。」

蚊の鳴くような涙声でようやくびと言お礼を言って、私は座席に腰かけた。少年は私の前に立ち、私の泣き顔をじっと見ている。深い目の色だった。私は少年の視線に射すくめられて、なんだか動けないような気がした。そして、いつのまにか泣きやんでいた。


私の降りた駅で少年も降り、私の乗り換えた電車に少年も乗り、終点の渋谷までずっといっしょだった。どうしたの、とも、大丈夫、ともきかなかったけれど、少年はずっと私のそばにいて、満員電車の雑踏から、さりげなく私をかばってくれていた。少しずつ、私は気持ちが落ち着いてきた。




「コーヒーごちそうさせて。」電車から降りると、私は少年に言った。

十二月の街は、慌ただしく人が行き来し、からっ風が吹いていた。クリスマスまでまだ二週間もあるのに、あちこちにツリーや天使が飾られ、ビルには歳末大売り出しの垂れ幕がかかっていた。喫茶店に入ると、少年はメニューをちらっと見て、

「朝ごはん、まだなんだ。オムレツも頼んでいい?」ときいた。私が、どうぞ、と答えると、うれしそうににこっと笑った。

公衆電話からアルバイト先に電話をして、風邪を引いたので休ませていただきます、と言ったのを聞いていたとみえて、私がテーブルに戻ると、「じゃあ、今日は一日暇なんだ。」少年はぶっきらぼうに言った。

喫茶店を出ると、私たちは坂を上った。坂の上にいいところがある、と少年が言ったのだ。

「ここ。」

彼が指さしたのは、プールだった。

「冗談じゃないわ。この寒いのに。」

「温水だから平気だよ。」

「水着持りてないもの。」

「買えばいい!」

自慢ではないけれど、私は泳げない。

「嫌よ、プールなんて。」

「泳げないの」

少年がさもおかしそうな目をしたので、私はしゃくになり、黙ったまま財布から三百円出して、入場券を買ってしまった。

十二月の、しかも朝っぱらからプールに入るような酔狂は、私たちのほか誰もいなかった。おかげで、その広々としたプールを二人で独占してしまえた。少年はきびきびと準備体操を済ませて、しなやかに水に飛び込んだ。

彼は、魚のように上手に泳いだ。プールの人工的な青も、カルキの匂いも、反響する水音も科にはとても懐かしかったプールなど、いったい何年ぶりだろう。ゆっくり水に入ると、体がゆらゆらして見える。

突然ぐんっと前に引っ張られ、ほとんど車ぶようにうつぶせになってい私は前に進んでいた。まるで、誰かが私の頭を糸で引っ張ってでもいるように、私はどんどん泳いでいた。すっと、糸を引く力が弱まった。慌てて立ち上がって顔を拭くと、もうプールの真ん中だった。三メートルほど先に少年が立っていて、私の顔を見てにっこり笑った。私は、泳ぐって、気持ちのいいことだったんだな、と思った。

少年も私も、ひと言も言わずに泳ぎ回り、少年が、「上がろうか。」と言った時には、壁の時計はお昼をさしていた。


プールを出ると、私たちはアイスクリームを買って、食べながら歩いた。泳いだあとの疲れも心地よく、アイスクリームの甘さは、舌にうれしかった。この辺りは、少し歩くと閑静な住宅地で、駅の周りの喧騒がうそのようだった。私の横を歩いている少年は背が高く、端正な顔立ちで、私は思わずドキドキしてしまった。晴れた真昼の、冬の匂いがした。


地下鉄に乗って、私たちは銀座に出た。今度は私が、“いいところ”を教えてあげる番だった。裏通りを十五分も歩くと、小さな美術館がある。目立たないけれどこぢんまりとした、いい美術館だった。私たちはそこで、まず中世イタリアの宗教画を見た。それから、古いインドの細密画を見た。一枚一枚、丹念に見た。

「これ、好きだなぁ。」

少年がそう言ったのは、くすんだ緑色の、象と木ばかりをモチーフにした細密画だった。

「古代インドはいつも初夏だったような気がする。」

「ロマンチストなのね。」

私が言うと、少年は照れたように笑った。

美術館を出て、私たちは落語を聴きに行った。たまたま演芸場の前を通って、少年が落語を好きだと言ったからなのだが、いざ中に入ると、私はだんだん憂鬱になってしまった。

だいふくも、落語が好きだったのだ。夜中に目が覚めて下におりた時、消したはずのテルビがついていて、だいふくがちょこんと座って落語を見ていた。父も、母も、妹も信じてくれなかったけれど、本当に見ていたのだ。


だいふくが死んで、悲しくて、悲しくて、息もできないほどだったのに、知らない男の子とお茶を飲んで、プールに行って、散歩をして、美術館を見て、落語を聴いて、私はいったい何をしているのだろう。

出し物は、大工しらべ、だった。少年はときどき、おもしろそうにくすくす笑ったけれど、私は結局一度も笑えなかった。それどころか、だんだん心が重くなり、落語が終わってい大通りまで歩いた頃には、もうすっかり、悲しみが戻ってきていた。



だいふくはもういない。



だいふくがいなくなってしまった。



大通りにはクリスマスツングが流れが薄青い夕暮れに、ネオンがぽつぽつつき始めていた。

「今年ももう終わるなぁ。」少年が言った。

「そうね。」

「来年はまた新しい年だね。

「そうね。」

「今までずっと、僕は楽しかったよ。」

「そう。私もよ。」

下を向いたまま私が言うと、少年は私の顎をそっと持ち上げた。

「今までずっと、だよ。」

懐かしい、深い目が私を見つめた。そして、少年は私にキスをした。

私があんなに驚いたのは、彼がキスをしたからではなく、彼のキスがあまりにもだいふくのキスに似ていたからだった。ぼうぜんとして声も出せずにいる私に、少年が言った。

「僕もとても、愛していたよ。」

寂しそうに笑った顔が、ジェームス・ディーンによく似ていた。

「それだけ言いに来たんだ。じゃあね。元気で。」

そう言うと、青信号の点滅している横断歩道にすばやく飛び出し、少年は駆けていってしまった。




私はそこに立ちつくし、いつまでもクリスマスソングを聴いていた。


銀座に、ゆっくりと夜が始まっていた。

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