コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
「伊藤琴子52歳」は繊細なウェッジ・ウッドのカップを、親指と人差し指でそっと持ってコーヒーを一口啜った
そしてため息をついてカップを受け皿に置くと、口をキュッと一文字に結んだ
芦屋でも有名な伊藤邸の中庭のテーブル席でよく手入れされている、今は満開の八重桜を眺める
特別な品種で先々代が植えたものだ
長年この家に勤めていた家政婦長のお福が、突然退職届け一通だけを置いて消えてから、それも機会に家の従業員をすべて新しく入れ替えた
お福は先代に良く仕えており、琴子がこの家に嫁に来た時から、ことごとく意見はぶつかった
最終的にはお福が引くことになるが、この屋敷で自分に意見を唯一言える使用人だった
やはり娘と一緒に暮らしていた、あの使用人に娘の子守をさせていたのが、そもそもの間違いなのかもしれない
新しく雇った庭師は先代の好みより、自分の言うことをよく聞いてとても優秀だ
花壇と芝生の縁取りは琴子の好み通りに、カミソリの刃のようにピシっと揃っているし、ココア色の腐葉土には1本の雑草も生えていない
八重桜の間、間にキレイにボンボリがつけられ、鯉の泳ぐ池は清掃され、水が澄み切り、水面がキラキラ輝いている
琴子はコーヒーを啜りながら、庭をじっくり眺めた、この庭にひきかえ、なんとも実の娘のだらしないこと
アリスの私生活は堕落の一途をたどり、せっかく大金をはたいてつけたキャリアは、惨憺たる状況に陥っている
世界を名立たるITOMOTOジュエリーの総本家、伊藤家のたった一人の跡取りの娘は、婚約者がいる身でありながら、自分の言うことに耳を貸そうとせず
ホルモンに支配された不良女学生のように、隠れて松竹座のボックス席で、見知らぬ男とキスをしていたと噂されるようになって、どれほど辱めをうけたか
伊藤家の長女が不良に恋する女学生のように男にのぼせ上っていると
こういう評判は白アリのように家柄を蝕んでいく
どう見ても卑しむべき行為なのに、どんなにアリスを説得しても、あの子は自分の言うこと一切を拒絶した
琴子がアリスと最後に交わした会話を思い出した、途端に気分が悪くなる
「私はあなたが傷つくのを見たくないのよ」
「お母様は私ではなく「伊藤家」という家名がそんなふうに傷つくのを、見たくないという意味でしょ」
ああ・・・あの言葉にどれほど傷ついたことか
たしかに世界中で、最も親しみの持てる母親ではなかったことはわかっている
しかし常にアリスを誇りに思い、あらゆる場面で彼女を正し、励ましてきた
人には持って生まれた運命さだめというものがある、自分が我が子を正しい方向に導かなかったら、誰が導くというのだ
庭にしつらえた朝食用のテーブルに座り、庭師が花壇の世話をしているのを見ながら琴子は桜を眺めた
ちょうど今日の午後は、ITOMOTOジュエリーの役員の妻達を集めて、この伊藤邸の八重桜のお花見の会を催すことになっている
メニューと装飾はいつもの仕出し業者と、パーティープランナーに任せて、献立の準備はすっかり整っている
着る着物はすでに、花見のこの時期にぴったりな、薄紫の「染め抜き日向三つ紋」を選んだし、今日の宝石も用意し、ヘアメイクと着付け師は午後1時に来る
つまりは電話でおしゃべりする時間はたっぷりある
琴子はテーブルの脇にあるスマートフォンを、取り上げてアリスに電話した
・・・もちろんブロックされている
lineメッセージも通話も、最後にあの子と言い争いをした日から、自分は実の娘に全面的に拒絶されている
あの子は自分を避けている、琴子はため息をついてまたコーヒーを一口啜った
少なくとも元婚約者の鬼龍院は婚約を一旦破棄しても、親身になって琴子の悩みに耳を傾けてくれて、娘の行方を調査してくれた
そしてあろうことかアリスが寝ている、成宮北斗という男は
自分からアリスをかっさらったどこの馬の骨かわらない男だ
家柄もよろしくなく、牧場なんてなんの資産があるのか、貧乏で一日中ドロドロになって働いているのに違いない
本人たちは結婚していると思っているが、そんなままごとの生活なんか簡単に潰してくれる
そしていつかアリスは必ず、泣いて自分に感謝する日が来るだろう
「桜の剪定はしますか?奥様?」
庭師の声にハッとして今までの考え事が消え、何を言われたのか呆然としてしまった
庭師がもう一度言った
「桜の剪定はあまり良くありませんが、午後の花見会に向けて見栄えがどうしても、悪いようでしたら切り揃えますが、どうしますか?」
琴子が言った
「よけいなものは全部切り落としてちょうだい 」