翌朝、この一週間は姉がいるお陰で朝食の用意をしてもらえていたウーヴェは、それでも習慣になっている時間に目を覚まし、隣から聞こえてくる穏やかな寝息に気付いてそのまま目を閉じていると、自然と瞼の裏に昨夜の醜態としか呼びようのない姿が浮かんでくる。
父が恋人の事を調べたという事実を知らされるまで、彼女が独断でそれをやらせていたと思い込んでいたが、知らされた後はただ後悔の思いしか浮かんでこなかった。
ウーヴェが明けることのない夜に身を置いていた時、まるで一筋の光のようにいつも照らし出してくれていたのは姉の存在だった。
そんな彼女に対し、昨日は心のままに酷い言葉を投げつけた事を思い出して今更後悔してしまう。
彼女だけはいついかなる時でもウーヴェを物事の中心に置き、家族以外の人たちとも接することが出来るようになるまでは常に傍にいてくれたのだ。
思い出された過去で弟の面倒を見てくれていた彼女の顔に、昨夜己の言葉で深い傷を負った事を示す顔が重なり、軽く唇を噛み締める。
姉のアリーセ・エリザベスだけは違うと思っていたのは事実だったが、いつかは話をしようと心の何処かで思っていたリオンの存在を何の断りもなく、当然のように調べられていた事実に冷静さが奪われてしまい、あのような酷い言葉を突きつけてしまったが、姉は許してくれるだろうかと薄く目を開けて思案したウーヴェは、細い視界に飛び込んでくるのが高い天井の模様ではなく、くすんだ金髪に覆われた肌であることに気付いて無意識に手を挙げ、金髪ごとその肌に手を宛がう。
優しい姉を傷付けたとしても、もう決して手放すことの出来ない温もり。
誰よりも何よりも大切な、最早己の一部のような存在のリオンを喪いたくは無かった。
「オーヴェ・・・嫌な夢でも見たのか?」
問われている言葉の意味は理解出来るが、何故そんな事を聞くんだと苦笑混じりに問い返したウーヴェは、親指の腹で目尻を拭われて目を丸めてしまい、小さな音を立てて同じ場所にキスを受けて更に目を瞠る。
「リオン・・・?」
「何でもねぇ。何となくそう思っただけだ」
そっと覆い被さってくる背中に腕を回して苦笑したウーヴェは、そろそろ起きてシャワーを浴びてこいと苦笑を深めるが、お姉さんが起き出す前に一度家に帰るとくぐもった声で告げられて口を閉ざす。
「気にしなくて良い」
「ダンケ、オーヴェ。でも俺が・・・・・・」
リオンが意を決したように告げたその時、ベッドから最も遠い場所にあるドアがノックされ、アリーセ・エリザベスの声が聞こえてくる。
「フェル、そろそろ時間よ、起きなさい」
その声にサイドテーブルの時計を見れば確かに起床の時間を指し示していて、返事をしながらベッドから起き上がると、やや躊躇ったような声がリオンも起こして一緒に朝食を食べなさいと告げてキッチンへと向かったらしく、ベッドの上で二人顔を見合わせてしまう。
「気にしなくて良いと言っただろう?」
「・・・・・・うん」
ポリポリと頭を掻きながら俯くリオンに目を細めたウーヴェは、くすんだ金髪に手を宛がって照れたように笑うリオンに腕を回し、胸元にその頭を抱え込む。
「リーオ」
おはようと笑いながら金髪に口付け、背中に回された腕に目を閉じたウーヴェは、今日はさすがにその姿ではなくシャツだけでも羽織ってくれと背中を一つ叩いてベッドから降り立てば、反対側に素早く降り立ったリオンがクローゼットのドアを開け放って手近にあったシャツを着込んでウーヴェの前に回り込み、真剣なのか戯けているのか分からない顔で敬礼をする。
「服を着ました、陛下っ!」
「・・・Gut」
良し、と尊大に頷いたウーヴェは、自らはパジャマの上にガウンを羽織っただけの姿でベッドルームのドアを開けてリオンがくるのを待つのだった。
何となく沈黙したまま三人で朝食を終えた後、出勤の準備に取りかかる二人に素っ気なく頷いたアリーセ・エリザベスだったが、リオンの事を許しているのかどうなのかも自ら判断できないまま出勤する二人を見送る。
昨夜ウーヴェに言われた言葉は彼女の胸の奥で靄のようにたゆたっていたが、それを振り払うように長い髪を左右に揺らした後、自らも出かける支度をすると駐車場に止めてある愛車に乗り込み、いつ雪が降っても不思議はない空模様に眉を寄せつつクーペを走らせる。
今回の顛末ではないが、報告を残りの家族にしておいた方が良いと思っているが、昨夜のウーヴェの様子を思い出しただけで背筋が凍り付きそうになり、思わずステアリングをぎゅっと握ってきつく唇を結ぶ。
あの調査をさせたのが父であると弟は思っているようだが、そもそもの発端であるヘクター夫妻が街に戻って来た時に耳にしたのではなく、両親と兄のノルベルトがあの山麓の村にそれぞれ別の日に出向いた時に話を聞いたのだ。
ウーヴェが事件の時に亡くなった少年と交わした約束から毎年教会に向かっている事を他の家族は知っていたが、弟のその行為を制止することも応援することも出来ずに、信頼する夫妻が帰郷すると聞かされた時、もしもウーヴェがあの村に滞在するのならばどうか面倒を見てやってくれないかと母が頼み、夫妻も快く引き受けてくれたのだ。
夫妻には堅く口止めをしている為、ウーヴェにはその辺の事情は一切伏せられたまま時が流れ、彼らは毎年、信頼している夫妻の言葉からウーヴェの様子を伝え聞くことしか出来ないでいた。
一歩も二歩も引いた場所からしか愛する家族を見守れないもどかしさを感じながら今年も弟が約束を果たす為に教会に出向いたことを教えられたが、今まで想像すらしない言葉を聞かされ、両親と兄との間で何度も何度も話し合いを持ち、不本意ながらリオンの事を調べるという結果に至ったのだ。
他人の過去を根掘り葉掘り調べる事など誰が好き好んでやりたいものですかと、誰に聞かせるでもない独り言を零し、次第に雪が深くなるアウトバーンの左右へと少しだけ視線を向けた後、屋敷へと向かう道を新車で快調に走っていくのだった。
彼女が広大な屋敷の門前に車を止めるとすぐに門が軋みながら開き、静かに車を進ませる。
玄関ポーチへと続く階段の前には噴水があったが、すっかり雪を被って今はその白さと同化してしまっていたが、その傍に車を止めて雪を軽く踏むと階段を下ってきた家人が車を別の場所へと移動させてくれる。
「いつもありがとう」
家人への気配りを欠かさないアリーセ・エリザベスは、昨日ウーヴェに見せた茶封筒を片手に開け放たれているドアを潜って長い廊下を進む。
「母さんはいるかしら?」
「はい。二階のテラスでお待ちになっています」
「そう、ありがとう」
長年家のことを取り仕切ってくれている初老の紳士の言葉に笑顔で頷き、この屋敷にふさわしい広い階段を昇り、廊下の突き当たりにあるドアを開けると、珍しい事にこの屋敷の主、レオポルド・ウルリッヒ・バルツァーがその妻イングリッド・アウロラと共にお茶を飲んでいた。
「父さん?会社に出なくても良いの?」
「この間の健康診断でヤブ医者に休めと言われた。だから今日は休んでいる」
「・・・・・・だそうよ」
口元に立派な髭を蓄え、それを指先で弄りながら胸を張る父に苦笑した娘は、母の横の椅子を引いて腰掛けると、両親の目前に封筒をそっと置く。
「あの子を怒らせてしまったわ」
ウーヴェの剣幕に黙っていられなかったと肩を竦め、家人が用意してくれた紅茶を笑顔で受け取って口をつけたアリーセ・エリザベスは、父の大きな手が顎を撫でた後、母を見て目を細めた事に気付いて首を傾げる。
「随分と怒らせてしまったようだな」
「そう。手がつけられない程ね」
文字通り自分には手出しの出来ない様を思い出しただけで背筋が凍り付きそうになった彼女は、嫌な記憶を消したいのか頭を振って吐息を零す。
「調査については父さんが命じたと言ってあるわ。まさかノルがやらせたなんて言えないし、もしもそれが分かれば・・・・・・また昔のように心を閉ざしてしまうでしょう」
彼女が最も恐れるのは、弟が長い時間を掛けて漸く取り戻した、ごく普通の日常の暮らしを喪わせてしまう事だった。
今の穏やかな日々を守る為ならば彼女は自分に出来ることは何でもするし、また今までその通りにしてきたのだ。
あの、暗く長い夜を思わせる日々、唯一の感情が肉親を憎悪するだけの日々には、誰が何と言っても戻らせるつもりはなかった。
そのことを告げる娘に両親は何も言わずにすべてを理解していると頷き、母の手が封筒を引き寄せる。
「彼には直接会ってみたの?」
封筒の中の写真の青年に会ってみたのかと問われ、咄嗟に思い浮かんだのは街中でのあの不愉快な、屈辱すら感じるやりとりだった。
あれだけは許せないと思いつつも、やはり彼女は何があっても弟を優先してしまうらしく、昨夜のウーヴェの様子をぽつりぽつりと語り始め、聞き終えた頃には両親ともに顔色も表情も変化をしていた。
「その彼だけど、フェルが発作を起こしても顔色も変えず、ずっとハグしていたわ。・・・・・・フェリクスは彼には総てを話しているのかも知れないわ」
「あの子が事件のことをベルトラン以外に話すとは思えないぞ、アリーセ」
「私もそう思っていたわ。でも・・・彼は、リオンはフェルの首の痣の事も知っていたわ。あと・・・・・・」
父と母がじっと見つめてくる視線を遮るように一度瞼を閉じたアリーセ・エリザベスは、薬も飲まずに発作が治まったのよと、前髪を掻き上げながら自嘲気味に告げる。
「それは本当か?」
「ええ。今まで一度もそんなことは無かったわ。でも、リオンが、彼がフェルを安心させるようにずっと抱いていたら・・・発作が治まったのよ」
今まで家族の誰一人として発作を起こしたウーヴェを落ち着かせることも宥めることも出来なかったが、それをあの青年はいとも容易くやってのけたのだ。
その時感じた驚愕を思い出して自嘲に顔を歪める娘を見守った両親だったが、夫の太い腕に妻がそっと手を載せて語りかける。
「レオ・・・」
「ウーヴェが付き合いをしていた女は何人か知っているが、まさか男とはな・・・」
話に聞くだけではまだ何とも言えないが、ウーヴェが写真の青年に対してかなり気を許している様は簡単に想像することができた父が過去の女性関係を思い出して盛大な溜息を吐くが、そこに混ざっているのは己の末子が今までにない程真摯な付き合いを始めたのが同性だという困惑だけだった。
その事に胸の裡でのみ安堵した彼女は、父の言葉に同意を示しながら母の手元にある封筒を見つめる。
写真には二人が笑いながら買い物をしている姿や、くすんだ金髪の寝癖を直すように手で整えているウーヴェの穏やかな顔が写っていた。
この一週間弟の家で寝泊まりしている時に感じていたのは、一人で暮らすには無駄に広いとしか思えないあの家に満ちている空気の変化だった。
人が住んでいるのかどうか、思わず疑ってしまいそうな空間が幾つもある家だったが、リビングやキッチンの雰囲気が明らかに変化をしていた。
リビングのソファには何処かのクラブチームのロゴが入ったクッションが置いてあったし、コーヒーを飲む時にウーヴェが使っているマグカップなどは、直接告げたようにウーヴェの今までの趣味から言えばあり得ないキャラクターものだった。
その変化の由来が昨日紹介されたばかりの恋人のリオンであることは最早明白だった。
子どもの頃の人懐っこさは幻のように消え、自分の周りに高い目に見えない壁を築いた弟に、写真のような笑顔や穏やかさがまた戻ることを切に願っていたが、その切っ掛けを作ったのがあの陽気な底知れない笑顔を持つ青年だとすれば、それはもしかすると弟にとって幸せなことなのではないのか。
リオンは自分達には出来なかった、壁の内側から弟を引っ張り出す様な力を持っているのではないのか。
弟の幸せが何よりも大事だと断言するアリーセ・エリザベスだが、その幸せが同性の恋人だと言うことだけがやはり彼女の中で引っかかりを感じさせていた。
「・・・・・・どうして・・・男なのよ・・・」
額を押さえて自嘲するアリーセ・エリザベスに彼女の両親が顔を合わせて瞬きをする。
「アリーセ」
彼女自身もそうだし両親もそうだが、世の中に少数とはいえ間違いなく存在する同性のカップルについて非難することもなければ進んで賛成することも無かった。知人友人の中に同性のカップルが何組かいるし、当たり前のように思っていたが、己の身内、しかも大事な弟の恋人が同性となれば、日頃唱えていた言葉が嘘のように崩れ去ってしまいそうになる。
「ウーヴェは何と言っていたんだ?」
「・・・え?」
娘が珍しく取り乱したように何故と小さく叫ぶ姿を見守っていたレオポルドは、顎に手を宛ったまま問いかけて娘の顔を覗き込む。
「あの子は昔から男が良いと言う訳ではないだろう?」
「ええ・・・あの子もどうして男なんだろうなと言っていたわ・・・」
自分自身でもどうして付き合いだしたのか、今もその関係が続いているのか本当のところは分からないと苦笑していた事を思い出すと、イングリッドが寂しそうに目を伏せながら小さく笑みを浮かべる。
「きっと、見つけたのでしょう」
「何を?」
「あなたがミカを見つけたように、自分の深いところを見せても良い、知って貰いたいと思う相手を見つけたのよ」
私がもう50年近く前にレオを見つけたように、ウーヴェもそんな存在を見つけたのよと穏やかに笑う母に目を瞠った彼女だったが、その一言で肩の荷が下りたような気分になってしまう。
「リッド」
「ね、レオ。あの子の性格を考えれば中途半端な事は出来ないはずだわ。あの子が抱えた過去の総てを教えるか、それとも全く教えないか、そのどちらかしか無いはずよ」
ウーヴェが心の中に引いている一線、それを乗り越えられるかどうかで付き合い方が大きく変わってくる事は家族の誰もが知ることだったが、それに代表されるように物事に対しても総てを二つに分けてしまう癖がウーヴェにはあった。
自らが気を許せる相手ならば己の裡に招き入れるが、それが出来ない相手ならばやんわりとそれでも確実にその存在を排除する激しさがあった。
そして、一度裡に入り込めば、後はもうただ無防備な程相手を信じ、心の裡を晒すのだ。
その性格を知っているだろうと諭すように告げらたレオポルドとアリーセ・エリザベスがお互いの顔を見合わせた後、確かにそうだったと溜息を吐いて背もたれにもたれ掛かる。
「・・・・・・リオンを見つけたと言うことか・・・」
「きっとそうなのよ。そんな存在を見つけられた、それは決して悪いことではないわ」
冷めてしまった紅茶を飲みながらも、穏やかな声で話す母に娘が不満を訴えるような顔でテーブルに手を付く。
「総てを話して・・・それでもしもケンカをするような事になったら・・・」
傷を負うのはあの子だと、その傷を負った弟を見るのが怖いと言いたげな顔で唇を噛むアリーセ・エリザベスに母がやんわりと首を振って否定する。
「アリーセ、あの子はそんなに弱い子じゃないでしょう?」
あの事件を生き延び、その後の長い長い時間を掛けて己が住む世界を再構築し、今はまだ未熟かも知れないがそれでも立派な医者として患者からも信頼されている人間になったのだ。
そんな傷を抱えたとしても、それぐらいで折れるような弱さは無いだろうと、疑うことなく信じている顔で言われて彼女は口を閉ざしてしまう。
ウーヴェに対して過保護になっているのは他の誰よりも知っていた。だがあの日々を知っているだけに、どうしてもやはり過保護になってしまうのだ。
彼女の中で弟の時計はあの頃からほとんど進んでいないようなものだった。
「それに、自分の中に迎え入れた人ならあの子は投げ出したり見捨てたりしないわ」
「・・・でも・・・、リオンは・・・・・・」
「あなたのお話を聞く限りじゃ彼の事を随分と信頼しているようね。その信頼は多分あなたには理解出来るはずよ、アリーセ・エリザベス」
あなたがあなたの夫を愛し信じるように、あなたの弟もそんな存在を見つけたのだと優しく告げられた彼女が天井を見上げて溜息を吐く。
「結婚して子どもを持って家族になる、それが幸せだと思ってたわ・・・」
「子どもがいてもいなくても幸せな家族もあるし、結婚しているしていないもそうでしょう?」
彼女は彼女と愛する夫の意思で子どもを作ることはないが、幸せでないのかと問われれば即座に反論出来るほど幸せだった。
弟の恋人は同性だが、幸せでないと言い切れるのか。例えそうであったとしても幸せなのではないのか。
昨夜眠ることが出来ずに一人ベッドの中で考えていた事が脳裏を巡り、小さな溜息に混ぜて体外に吐き出したアリーセ・エリザベスは、なかなか納得できないが確かにそうかも知れないと溜息混じりに呟く。
「納得できなくても・・・私たちはウーヴェの選択を尊重しなければならない。そうでしょう?」
初めて家にやってきた時の事を思い出せと暗に言われて再度顔を見合わせた父と娘は、それぞれ溜息を吐いたり肩を竦めながら分かったと頷く。
「・・・あの子ももう子どもじゃないのよね」
過保護もそろそろいい加減にしないといけないわと苦笑するアリーセ・エリザベスだったが、そんな彼女の前では両親の一方が明らかに不満そうに口を尖らせ、もう一方は穏やかに笑みを浮かべながら口元に手を宛う。
「どうしたの?」
「親にとって、子どもはいつまで経っても子どもなのよ」
どれだけ子どもが成長しようとも心配はするし、ついつい構いたくなってしまうわと自嘲するように言われて 目を瞠ると、レオポルドが鼻息荒く言い放つ。
「出来過ぎだろうが不肖だろうが、子どもは子どもだ」
子どもの成長を見守り、程良い距離で付き合うことが出来れば理想だが、全く難しいと腕を組む父に苦笑し、もう一人の子どもであるギュンター・ノルベルトに事の経過を説明しておいて欲しいと頭を下げる。
「ノル、ショックで寝込まないかしら・・・」
「この間熱を出して倒れたようだが、原因はそれかも知れないな」
兄の心配をしつつ頬に手を宛った彼女は、父の視線が母の手元にある封筒に向いている事に気付き、おそらくは怒り狂った故の発熱だろうと頭を一つ振るが、父が発した呟きに何度も瞬きを繰り返す。
「・・・一度会ってみたいな、リオンとやらに」
「父さん・・・?」
その呟きにレオポルドは返事をしなかったが、イングリッドが少しだけ考え込んだような顔をした後、にっこりと娘と瓜二つの笑みを湛えて紅茶を飲む。
そんな両親の、特に母の心裡が読めない事に不安を感じたアリーセ・エリザベスだったが、思い悩んでも仕 方がないと苦笑し、用意されていたビスケットを摘んでこの後の予定について母との話に花を咲かせるのだった。
ウーヴェの元にアリーセ・エリザベスから父さんと母さんの相手をしなければならないから帰りが遅くなると連絡が入ったのは、今日の仕事終えていつも通りにオルガと疲れを労っていた時だった。
そろそろ仕事の引退を考えてもいい年に差し掛かる父だが、日頃忙しく欧州中を飛び回っている事はニュースなどでも耳にしていたが、父と兄を未だに憎んでいるウーヴェにしてみれば父が家にいるかどうかなどはどうでも良いことだった。
ただ母の相手と聞かされた時に、やはり母親は娘が一緒の方が良いのだろうと何となく考え、とにかく帰ってくるのならばその前に連絡をくれと告げたのだ。
この一週間、アリーセ・エリザベスに何だか振り回されている様に感じていたが、今日は帰らない可能性に気付き、一瞬のうちに疲れが全身を駆け巡る。
「お疲れのようね、ウーヴェ」
「・・・・・・ああ」
いつもは患者が座るソファにオルガが足を組んで腰掛けて疲れを顔に出すウーヴェに苦笑するが、静かに立ち上がって出て行ったかと思うと、心がほっとするような湯気を立てるマグカップと手作りのスコーンをトレイに載せて戻ってくる。
「今日は新しいお茶が手に入ったの」
以前気に入って買っていたお店のお茶だが、新作が出ていたから買ってきたと笑い、スコーンと手作りジャムと一緒にカップを差し出されて有り難く受け取ったウーヴェは、今日はアリーセが帰って来ないのかと問われて無言で肩を竦める。
「おそらくな」
「そう・・・確か週末だったかしら、お食事会?」
「ああ。・・・・・・リオンの事も話をしたし、やっと落ち着けそうだ」
紅茶を飲みながら安堵の溜息を零し、眼鏡をそっと外したウーヴェにオルガが控え目に問いかける。
「聞いても良いかしら」
「どうした?」
彼女の唇が躊躇いがちに開き、そこから流れ出した言葉にウーヴェが軽く目を瞠るが、安心させるように小さな笑みを口元に湛えて顎の下で手を組んでそっと目を閉じる。
「・・・・・・エリーなら大丈夫だ」
多少時間は掛かるだろうが、自分たちの関係についてきっと良き理解者になってくれるだろう確信を持って頷き、リオンとも仲良くやっていけるのではないかと、さすがにこればかりか希望的観測を述べると、オルガも小さな笑みを浮かべ、その様になればいいわねと肩を竦める。
「このスコーンは持って帰っても良いか?」
「ええ。まだあるから持って帰っても平気よ」
アリーセが戻ってこないのならば、きっとリオンが家に来るのだろう。その時一緒に食べるつもりかも知れないと予測を立てたオルガが嫌味のない笑みを浮かべれば、己の思考を先読みされた事にウーヴェが僅かに腹を立てるが、美味しそうだから家に持って帰って本を読みながら食べたいんだと悔し紛れに返され、今度は少しだけ意地の悪い色を滲ませた笑みを浮かべる。
「どうぞ、お好きなように」
そう言うことならばとソファから立ち上がり、キッチンスペースに向かうらしい背中に肩を竦めたウーヴェは、 携帯から流れ出した映画音楽に気付いて耳に宛う。
「Ja」
『ハロ、オーヴェ!』
今日も一日頑張って働いた俺を誉めてくれと、ウーヴェが返事をする前に捲し立てられて絶句した彼は、本当はそうではないがそう言っているだけだろうと多少の意地悪を込めて呟いてリオンを絶叫させる。
『んなー!何て事を言うんだよ、オーヴェっ!!オーヴェのアクマっ!トイフェル!!』
「だから、トイフェルはヒンケル警部じゃないのか?」
『いいや?あれはクランプスだもん』
そろそろいい加減にボスの渾名ぐらい覚えろよと言い放たれて何も言い返す気力が無くなったウーヴェがデスクに項垂れていると、ドアが静かに開いてオルガが袋を片手に入ってくる。
『オーヴェぇ、腹減った!今日は晩飯どうするんだ?』
お姉さんはどうするんだと暗に問われ、今日は戻ってきたとしても遅くなると教えられた途端、リオンの声が一段と陽気さを増してしまい、思わず耳から携帯を離してしまう。
『じゃあさ、じゃあさ!ゲートルートに行こうぜ!!』
この間は行きそびれたが、今日こそ絶対に行こうと誘われて瞬きを繰り返すウーヴェの前にそっと彼女が袋を置き、お疲れさまでしたと目で合図を送ってくる。
「リオン、ちょっと待て」
『ん?どうした、オーヴェ?』
「・・・また明日も頼む、フラウ・オルガ」
「はい」
電話のリオンに聞こえても構わないように、だが気を遣うように携帯のマイク部分を掌で覆って明日も頼むと声を掛けて彼女を送り出そうとした時、お疲れサマーと一際大きな声が携帯から流れ出す。
「・・・お疲れさま、リオン」
くすくすと笑いながらその言葉を残した彼女が出て行った後、ゲートルートに行って確認しなければならない事を思い出し、今日は久しぶりにゲートルートに行こうと柔らかな声で告げる。
『ぃやっほぅ!』
「車を頼んでも良いか?」
『ん、大丈夫!その代わり、デザートのパイを一口ちょうだい』
「ああ」
これで商談成立と互いに笑いあい、後少しでそちらに着くから駐車場で待っていてくれと告げられ、慌てて帰り支度に取りかかるが、久しぶりのデートについつい浮かれたような足取りでクリニックを後にするのだった。
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